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増川ねてるさんの場合         ナルコレプシー治療薬として服薬していた リタリン依存症からの壮絶な断薬体験

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増川ねてるさんは、主に精神に障害をもつ人々のために、精神科の病院や福祉施設などでワークショップ「WRAP」(元気回復行動プラン)を行うWRAPファシリテーターとして精神保健福祉界の有名人。当事者はもちろん、医療や福祉の専門職を対象にしたの「WRAP」研修会や、リカバリーに関する講演活動などもあり、毎日各地を研修講師として飛び回っています。日本だけでなく海外でのWRAP研修講師の経験もあります。また、東京都江戸川区の NPO法人のスタッフとして、イタリア・ボローニャと日本の精神保健福祉の活動もしています。
 現在は、いつ会っても笑顔でニコニコと元気いっぱいのねてるさんですが、13年前の彼はいわゆる「リタリン中毒者」としてアパートの一室で孤独で過酷な日々を耐え忍んでいました。
 私がねてるさんに初めて会ったのは2006年。彼が完全断薬を果たしてから1年あまり経った頃。当時のねてるさんは生活保護で暮らしていて、就労経験も少なく、力が入りすぎでどこか不安定な文学青年といった印象でした。そんな彼がWRAPに出会い、水を得た魚のように変化していく様子を私は友人としてずっと見てきました。昨年、ねてるさんは結婚してお父さんになり、障害者手帳も返還しました。今回改めて、ねてるさんがどのように処方薬依存症から脱出したのかについて語ってもらうことにしました。

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熱性けいれんのためにてんかんの予防薬を服薬

私は新潟県小千谷市の老舗和菓子店の長男で、6代目菓子職人の跡取りとして育てられました。生後間もなく、熱性けいれん発作を起こし病院を受診したようです。私はこの発作をきっかけに、てんかん発作の予防薬ルミナールを服薬するようになりました。おそらく私は1歳未満から19歳まで抗けいれん薬を服薬し続けていたのだと思います。
 両親は私の将来を案じ、服薬している薬が抗てんかん薬であることを告げないまま、定期的に病院に行き、薬をもらい、私もそれとは知らないまま脳波の検査も続けていました。
 幼いころの私は、喘息の持病もあったために、両親は私に検査も服薬も「喘息のため」と説明していました。実際には13歳くらいで、すでにてんかんの脳波は検出されなくなり、私自身も発作の記憶はありません。

現実が “夢”、醒めても“また夢”という強烈な眠気

 ところが高校1年生くらいになると、私の体にはじょじょに異変が起こりはじめたのです。それは眠くて眠くて起きていることができなくなるという状態で、高校の授業中にも毎日起こりました。やがて、ただ眠くなるだけでなく、おかしな夢を見るようになっていきます。現実が突然夢に切り替わっていく…そんな頭になりました。
 例えば高校の授業中に本を読んでいて、「なるほどそういう話か」と思っていると、それは夢なんです。現実の私はただ同じ一点を見ているだけ。「そしてあっ、自分は寝てしまっていたのか」と気づきまた本を読み始めます。「ああ、本当はこうだったんだ」と思っていると、それも夢。つまり眠ってしまって物事が全然進まないのです。このような状況で頻繁に眠気に襲われるため、得意なほうだったはずの勉強も、次第に出来なくなりました。

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教科書が読めなくなっただけでなく、テスト問題も読めなくなりました。読んでいる文章が、途中から夢になっていくのです。先生や友人にも注意されてばかりの毎日が続いていきました。やがて、「増川はそういう人だから」と、先生による注意もなくなったと思います。「頭がこわれちゃった」という感じがあり、頭にネットを被せられたみたいで、ピリピリしているし、それまでの自分とは違う頭になってしまったと感じていました。
 あまりの苦しさに、…そして、とても不安だったので、高校3年生の時私は近所の病院を受診しました。病院では「眠いのは思春期特有の状況だろう」などと言われたのですが、はっきりした診断はでませんでした。そこで私は、眠くて体調がおかしいのはきっと田舎のコミュニティのストレスだ。と思うようになり、「自分は詩を書きたいのだから詩人になるためには街に出よう」と思い、家を出るための理由として大学に行こうと、東京の大学を受験しました。しかし、眠気で勉強もままならず、大学受験に失敗。私は、生まれ育った町をでて、新潟市で一人暮らしの浪人生活を始めることにしました。
 しかしそこでも眠気はとれず、下宿先の市内の病院を受診し症状を訴えました。「何か飲んでいる薬はありますか?」とのことでしたので、「はい、気管支炎の薬を子どもの頃から飲んでいます」と答えて、「その薬がなんの薬かを知りたいので、聞いてきて下さい」と言われました。そして、子どものころから親と一緒に通っていた小児科を初めて受診してその看板をみると、そこは児童・精神科だったことにこの時初めて気づきました。
 そこで気管支炎の治療用にずっと飲んでいる薬を医師にみせたところ「これはてんかんの薬です」と言われて私は心底おどろきました。そして「眠くなるのは、この抗てんかん薬のせいかもしれない」というその先生の判断で服薬を中止することになったのです。でも眠気のほうはいっこうに消えなかったですね。「薬のせいで眠かったのだったらよかったのに…」と思いました。自分の眠気が飲んでいた抗てんかん薬の影響とは関係なかったのがまたショックでした。とにかく、この「眠け」を取りたかったのです。

増川くん

情報が脳にベタベタ貼り付く抗てんかん薬


 抗てんかん薬をやめて、予備校に通い、私はなんとか東京の大学に受かったのです。上京したある日、私は、CDプレイヤーから流れてくる上田正樹の『わがまま』という曲に合わせて歌をひとり口ずさんでいました。引っ越しの時だったかと思います。その時、自分の歌っている歌声が、歌手のそれと一致していることにはっと気づいて、「なんだこれは?」ってビックリしました。不思議な感覚に包まれました。すごく気持ちよかったことを覚えています。そして、「これかー」と嬉しくなりました。というのは、私は子どものころから自分が歌を歌って他人と同じ音が重なって響くという経験がなく、小学校時代から「あなたは合唱の時は声を出さないで口パクにしてね」とクラス担任から指導されるほどの音痴だったからです。
 そのあと「抗てんかん薬が音痴に関係する」というアメリカの論文も発見したんですよ。抗てんかん薬を抜いたことで「他人の音と自分の音程が重なることを初めて体験した」という私の話は、私が服薬していた、ルミナールやデパケン(抗てんかん薬)の作用にも関係する話だと思うんです。ルミナールを抜いて音がわかるようになった僕はやがてデパゲンでまた音がわからなくなっていく…。でも、もともと「音痴」だって自分を思っていたから、変な感じもあまりなかったんですが…。今は…少しは音がわかってきたと思いますよ(笑)こないだ、イタリアの歌、舞台で歌いましたし(笑)…デパケンという薬は情報が脳にはりついて、「もあんもあん」こもっちゃう感じがあるんです。だから抗てんかん薬を飲んでいた私はずっと音の出し入れがスムースにできなくて、聴いているのと同じ音程の音を出すことが出来なかったのではないかと想像しています。
 今私はデパケンだけでなくすべての薬をやめて、私の人生で一番長く薬なしで生きる時間を過ごしているわけですが、歌も普通に歌えるようになっていますよ(笑)。デパケンのことですが、性格についても、抗てんかん薬を飲んでいる人のことを医療者は粘着気質とかいうけど、私は、それは自分の体験から薬の副作用かなと思っています。私自身は0〜18歳までと20〜24歳までデパケンを使っていますが、今振り返って一番飲みたくない薬は「情報が脳にくっついてしまう」このデパケンなんですね。べたべたするのが、ほんと大変で…。

キレがよいリタリンという薬の魅力と怖さ


どうしても眠気がとれないため、私は大学1年の時、保健室でカウンセリングを受け、紹介されたクリニックを受診することにしました。そしてそこでそのクリニックで初めてナルコレプシーの疑いという診断を受けました。
 医師の判断でまず半錠からリタリンをスタートしたのですが、私は徐々に「リタリンによる覚醒」というものを覚えていきました。「リタリンによる覚醒」という感覚の認識はアルコールの「酔い」の認識と似ていると思います。アルコールもお酒を飲み慣れないと酔いの度合いを自分で把握しにくいですよね、「リタリンによる覚醒」も最初はなかなかその度合いがつかめないのです。
 そして「リタリンによる覚醒」はとても気分がよいものですが、切れたときには孤独と強い不安感を感じるのがその特徴です。リタリンは効きが早くいきなりハイになる薬でした。当時、私はバイクの免許を取りに教習所に通っていたのですが、眠気を飛ばすためにリタリンを飲むと気持ちが上がりすぎて、うまく運転できないという体験をしています。
 その後、リタリンが切れた時の不安感を言う私に、処方されたのがデパゲンでした。感情を安定させるという狙いもあったようです。あと当時、病気が血液検査でわかるというのがあって…それで私はナルコレプシーではなく、突発性傾眠症と診断名が変わり…デパゲンの処方となりました。リタリンの一気に上がって、一気に抜けるという感じと、デパゲンのベタベタする感じはまったく違うものでした。そして、デパゲンで眠けはなくならなかったように思います。そして、眠気がきたら、リタリンをと言われていました。

リタリンがもたらした仕事の経験とスキル


 私の「眠気」という症状に、処方されたデパケンとリタリンという2つの薬の飲み心地はまるで正反対のものでした。
 そして、薬を飲んでもなかなか治らない…、入院治療をしても治らない…、精神科に通うことに意味を感じられなくなった私は精神科にいくことを2年ほどやめ、薬も飲まずに過ごしていました。  
 そのころはパン職人の仕事をしていましたが、これも眠気のためうまくいってはいなかったですね。私は再び27歳で、国府台病院の精神科を受診することを決めました。それは詩を書いて朗読などをするという詩人としての活動のかたわら、生活費をかせぐために日本語教師になろうと決めたからです。
 日本語教師養成学校に通い、どうしても授業についていきたいと必死でした。一年で「資格をとる」という目標もありました。そのため勉強の妨げになる眠気に対処する必要があったのです。 
 病院で検査を受けた結果は、脳波からみるとナルコレプシーとの診断でした。この時、私の目の前に2回目のリタリンが登場したのです。
 医師は、私に「この脳波結果からすると…これでは、起きているのが困難ということがとてもよくわかります。あなたはリタリンを使って覚醒度を上げないと社会生活が難しいと思います」と促しました。
「日本語教師の資格を取らなければ」と思っていましたし、切れた時のあの「不安感」は心配でしたが、勇気を出してリタリンを飲み始めました。すると意識がクリアになり勉強が面白いように頭に入ってくる。本も読めるし、勉強もよく理解できた。発病前の自分に戻れた感じがしましたね。とても、嬉しかった。資格取得という明確な目的意識もあり、集中したことで私は1年間で合格率19%の試験に合格。日本語教師の資格が取得できました。
 でもいざ資格を使って就職しようとすると大学中退がネックとなりました。結局正社員の職に就くことは難しく、リタリンを飲みながら、フリーランスとして個人レッスンで日本語教師の仕事をすることにしました。
 そんな時、知人から広告代理店で働かないかという誘いを受けたのです。広告の仕事は初めてでしたが、もともと文章やコピーを書くことは得意だったし、薬で覚醒すると頭がよく回転したので仕事ははかどりました。パワーポイントの作り方やプレゼンの技術などをどんどん学んでいったんです。
 デパケンなど抗てんかん薬を飲んでいたときの勉強は全く頭に残っていないけれど、リタリンで勉強したものは残っているんですよね。
 もしリタリンを飲まなかったら今の自分の知識やスキルはないかもしれない。ただリタリンを使っている時の私は結構攻撃性が高まっている状態だったと思います。
 頭は回るけど全然優しくない人。他人の感情を無視しているような感じになっていたはずです。無視しているというか、想いが及ばない感じになっていました。
3年間でリタリン依存症になり衰弱していく身体
 しかしよく効いて生活の質を上げたはずのリタリンは3年間でじわじわと、私の体を蝕んでいきました。日本語教師の資格取得のために勉強した1年間、個人授業で日本語教師をした1年間、そして広告代理店に勤務した1年間。リタリンの使用が3年をすぎると中毒が進み、次第に服薬しても仕事ができなくなっていったんです。 
 私はリタリンを、最初は水で普通に飲んでいたのですが、普通に飲むと胃で吸収されるため効いてくるまでに時間がかかるんですね。このため舌下で溶かしたり、粉にして鼻から吸ったりも試すようになっていました。舌下など粘膜からだと吸収が早く4、5分で覚醒感がやってくるんです。よくカリカリとラムネみたいにリタリンを噛んでいました。当時はとにかく早く覚醒した感じが欲しかった。
広告代理店の勤務を続けることができなくなり、退職したこのころの私は、仕事もなく、体調も悪く日々の生活にも困るようになっていました。

福祉制度を利用する交渉に必要だったリタリン
それでこうなればもう「行政に頼るしかない」と考え市役所や保健所に相談に行ってみました。でもナルコレプシーの診断で精神障害者手帳を取得するのは難しいですと言われました。
 このため、当時の私は自分の目標を「年金を取得すること」に絞ることにしました。毎日、県や市の福祉課などあらゆるところに電話をかけまくりました。そのころの私にとって「生きるか死ぬかをかけた交渉という戦い」を電話でするためには、頭が回らないといけなかったんです。だから交渉前にはリタリンをまとめてハードに使いました。
当時は1日6錠のリタリンが処方されていたので、「交渉おやすみの日」には薬を飲まず寝たまますごし「交渉日」には貯めておいた薬を使い、覚醒と頭の回転を維持したわけです。ちゃんと「一日起きている」ためには、20錠は必要でした。10錠では間に合わなかった。
激しく粘り強い交渉の末、ついに障害者年金が支給されるようになったんです。しかし実際に年金が入ってみるとそれだけでは、都会での暮らしを維持できないという現実に直面しました。「生命保険がおりないかな…」と思ったし、「そもそもが、初診の時に学説論争に巻き込まれずに、ちゃんと脳波の検査をしてもらい、ちゃんと治療が早期に始まっていたらこんなことにはなってはいなかった」と、訴訟を起こすべく弁護士とコンタクトしたこともあります。
このように「医療」に対しての激しい憤りを持ち、「闘い」を挑む一方に、「何もかも上手くいかない一人暮らしの部屋で中毒状態から抜け出せない」という私がいたわけです。
「尊厳死をさせてくれ」とわめきながらリタリンを服薬し、薬が切れると苦しくて、3階のベランダから飛び降りようとしたり、街をあてもなく徘徊したりもしていましたね。じっとしているともうダメなんです。頭が変に回転してしまって…。ほんと、苦しい…。脳天から金棒を差し込まれて、グリグリやられる感じ。脳みそ全部を掻き回される感じなんです。
そして次第に身体は消耗していきました。リタリンを飲まないといらいらするが、それを通り越すと体中がまったく動かない状態になっていく…。寝返りも打てないほど、体が自由にならなくなりました。
動くためにはリタリンを飲まなければならなかったんです。自動販売機にタバコやジュースを買いに行くにも、病院に受診するにも、リタリンが本当に「必要」だった。  
薬物中毒って、そういうことです。脳の中のドパミンが切れちゃっているから神経がつながらない状態…苦しいから、もう死なせて欲しかった。…楽になりたかったんです。

飢えと渇きと孤独の中で一人で耐えた減薬


 そのころ精神科で、私はかかりつけ医から「『医療』ではもう限界です。次は『福祉』を使って生活をすることをお勧めします」と宣告されたんです。生活はどんどんすさみ、私は生活保護を受けることとなり、本格的な孤独の中にいました。
 覚せい剤の人が飛び降りたくなる気持ちがよくわかります。実際当時の私の部屋のベランダの柵は、私の飛び降り未遂による突撃の結果ゆがんでいました。マンションの大家さんからも、「あなたは部屋で暴れているようですね」と注意されました。階下の家の玄関にはいつしか柵が設置されていまし。電灯を吊ってある紐で首吊り自殺を試みたこともあります。自傷行為が止まず、そのころの私は、もはや自分自身の行動さえも信じられなくなっていたんです。気がついたら、布団の中に包丁が転がっていたり…とかもありました。
 薬を使わないと、死にたくなったり、飛び降りたくなったり…自分が知らない自分の行動があったりそれはとても怖いことでした。私は針金でぐるぐる両手首、両足首をしばっていました。自分を傷つけるのが恐ろしく、自分で自分を押さえつけなければならなかったんです。
 先生に相談し、精神科病院に入院しての減薬も試そうとしましたが、精神科の閉鎖病棟の閉鎖性や状態のよくない患者との人間関係にストレスを感じて、結局入院しての減薬は無理だと断念しました。
 自宅で、一人で断薬をやるしかないと決意しました。結局半年から1年くらいかけて実行しました。実際に何をするにもリタリンがないと体が動かないのですから。やめようと思いいろんな試みをしましたが、実際にリタリンに集中的に取り組んだのは3ヶ月という比較的短い時間だったと思います。
 私は壁に掛かっていたカレンダーに薬を飲まずに過ごした日に×印を書き込むことにいつしかしていきました。体が勝手に動いて、ベランダからの飛び出しやリストカットをしないように針金で手足を縛り、脳の暴走には、アイスノンをあてて熱をうばうことにしました。脇の下も冷やしました。もがきながら、なんとか薬を飲まないで過ごす日々をまず1ヶ月半持続し、…それから、また1ヶ月…。3ヶ月がたったとき、気がつくと状態はぐっと楽になっていました。リタリンを飲みたいと感じることはあっても激しい発作的な衝動がなくなってきたのです。
 私が当時服薬していたのはリタリン(中枢神経賦活剤)、ベタナミン(中枢神経賦活剤)パキシル(抗うつ薬•抗不安薬)、ハルシオン(睡眠薬) アナフラニール(抗うつ薬・三環系)ですが、まず最初にベタナミンを抜きました。それは肝臓の数値が悪くなったからです。次にアナフラニールをやめていき、リタリンとハルシオンをやめ、パキシルは最後まで残りました。これを、私は全部一人で考え、一人で実行しました。
 私の減薬は、孤独と飢えと渇きとの戦いでもありましたね。近くのスーパーに行き、カゴいっぱいにパンや冷凍食品を買い込んで枕元に置いて食べていました。買い物に行くために体を動かすにもリタリンが必要でしたから。寝返りが打てないので座布団を畳んで山型に置きそこから転がることで体の向きを変えていました。薬なしでは起き上がってトイレにもいけないために、排尿はペットボトルにするという状態でした。水を飲んで毎日長時間入浴し、ほとんど風呂で生活するような日々を送っていました。汗をかき体の中から精神病薬を追い出したかったんです。論文では入浴によるデトックスの効果は否定されているようですけど、私は効いたと思うんです。足裏シートというのも貼っていました。とにかく「薬を体から抜かなきゃだめなんだ」という自分の感覚を大切にしたんです。夏ころから始めた怒涛の断薬がすべて終わったのは2005年の11月ごろでした。

離脱症状への対処は入浴と頭を冷やすこと


 やっとのことで薬をやめられたのは良かったのですが、今度は、頭の中を鉄の棒でかき回されているような苦痛は、間欠泉のようにやってくるようになっていました。医師に相談すると、その対策にリスパダールの頓服が処方されました。モダフィニル(精神神経用剤)も処方してもらったが効果はなかったですね。眠たいけれども眠れない時間がダラダラと続く感じ…。リタリンのように「覚醒」は起きなかったんです。…私の場合は。 
 当時の私には、「これが離脱症状だ」という概念は無かったのですが、この恐ろしく不快な状態が薬をやめたことによる副作用のようなものということは明確にわかっていました。
 この不快な状況をなんとかしたいと私は、再び病院に相談にいきました。断薬を専門に扱う赤城高原ホスピタルも受診しましたが、リタリン中毒患者にはリスパダールしかないと言われました。
 仕方なく私はリスパダールを頓服で使いながら、断薬後の自分自身の生活の立て直しを少しずつ行っていきました。
 経験上、頭の「グルグル」には頭を冷やすことがよいとわかってからは、いつでもアイスノンを常備し、頭を冷やすことを習慣づけました。クエン酸を飲むと調子がいいので錠剤のクエン酸も服薬しています。睡眠はできるだけ光でコントロールし、カーテンは常に開けておき、朝は差し込んでくる太陽の光で目を覚ますようにするさまざまな工夫を今も続けています。
 フラッシュバックは今も時々あります。これは急な断薬の結果なのかもしれませんが、私は身体が限界にきての断薬だったので急がざるを得なかったのは仕方なかったと思っています。

暮らしの再建とWRAPがくれた希望


断薬を完了した2005年の秋、地域のソーシャルワーカーの交渉により、私の自宅にヘルパーさんが来てくれるようになったんです。それまではタクシーでスーパーに行き、冷凍食品を大量に買い込み、それを布団の中で寝たまま食べるような生活をしていたんです。ヘルパーさんが定期的に家に来て、作ってくれた温かい味噌汁や、温かいご飯を口にして、私はやっと人心地がついたんです。 
 そのヘルパーさんが「今度近くに精神科に通う人たちが集まる場所が新しく出来ます。行ってみたらどうですか?」と教えてくれました。これを聞いた私は「最後の望みだな」と思いつつも、あまり期待はせずにその施設に出かけて行きました。そこでの「当事者の仲間」との出会いが、私の人生を大きく変えていきました。 私はそこで初めて自分と同じように治療中の「当事者」と話したのです。薬の事を話してみたら症状や薬の副作用、体験してきたことなどを話すのにまったく説明が要らず、分かり合えたんですね。それは私の人生で衝撃的な経験でした。高校生の時からずっと眠気のことで悩み続けた私が「自分は孤独でない」と初めて知った瞬間だったからです。
 しばらくするとアメリカには当事者の人たちが開発した「WRAP(ラップ)」という回復のためのプログラムがあるという話を聞くことになりました。
 さらにその1年後2006年の秋にアメリカから、実際にWRAPファシリテーターが私の通っている施設に来たのです。アメリカの当事者から直接話を聞いてみると、まさに私がやりたいと思っていることをすでに実現している人がいるのだと知りました。
 私は希望を感じました。これは現実で「夢」ではないんだと。「理想」の話ではなく、「夢」の話ではなく、「現実」の話なんだと。病気を経験した当事者どうしが、回復のためのコツや工夫をシェアするというWRAPは、まさに、私たちが「自分の体験」から考えていたことでした。
 WRAPは、多くの人の回復(リカバリー)の仕組みを、系統立てて見せるプログラムだったのです。そしてWRAPとの出会いは、詩人になりたかった私の中に、ずっと昔からあった「何かを表現して、分かち合いたい」という気持ちにもぴったりくるものでした。WRAPファシリテーターの仕事なら自分にできるかもしれないと私は感じました。

短時間眠ることで急速回復する特別な脳をもつ自分


 私は自分のペンネームを増川「ねてる」と決めてファシリテーターとしての活動を始めました。活動開始から13年が経ち活動の場は次第に広がりWRAPファシリテーターは全国に1000人はいるかなと思います。
 ワークショップの途中でも私がよく「ねてる」ことはもう、みんなが知ってくれています。途中で眠ることも私にとっては大事な「道具」を使いこなすことなんです。…昔はこれが出来なかった。
 眠くなることは「悪いこと」で、眠ることは「病気に敗けること」「努力が足りないこと」だと思っていた。でも、今、私は、「眠ること」は、寝て起きた後の「覚醒した意識」のためにやることだと知っています。
 眠たくなることは、良いこととか悪いことだとかではなく、私の頭は「そういう頭なんだ」ということです。
 そして「眠る」ことで私の頭は急速に「回復」するということを知っています。逆にいうと、この「急速回復」が出来る脳だということだと、最近では思うようになりました。
 夢も、好きな感じの夢が見れたり、文章も、言葉も「自動的に」出てきたリするということも、講演会や、執筆の時にはとても役に立っているって思います。この文章、いつ書いたんだっけ?という経験も、たまにですが持っています(笑)
 私の眠くなる《病気》は今も少しも治ったわけではないんですよ。ナルコレプシーと診断名のつく《睡眠障害》は今も変わらずあり、私は覚醒状態を持続できません。十分に眠った後にも、強烈な眠気が一日に数回来るんです。起きていると次第に意識が濁り、画像が二重に見え、脳はすぐに夢を見てしまう。医学的には、REM睡眠異常とのことですけど、持続的な覚醒の時間は、3時間が限界ですし…。でも、文章モードに入ったら、これはもう何時間でもいけちゃう感じ。その代わり、痛みや寒さ、疲れや時間の感覚なんかを感じづらくなるので、それは危険だって思っていますが…。文章が、頭から抜けなくなってしまいますし…。でも、「障害」と定義されるものを逆手にとって、活用しているって感じはあります。或いは、以前は、このモードのうまい使い方を私は知らなかったのかも知れない。或いは、変化しちゃったこの頭を使えるようになるまでに、とても時間がかかって今に至るのかも知れない。

命がけで勝ち取った障害者手帳が要らなくなった日


 2018年、念願の子どもが生まれ、私はお父さんになりました。15年前にリタリンを飲みながら「命がけで勝ち取った」障害年金はもう手放して、障害者手帳も8月に返納しました。私は今も《障害》をもつ人間だけど「障害者」ではないんだ、って思っています。「障害者」なんてどこにもいなくて、精神症状に苦しんでいる個人がいるだけです。そして、《障害》といわれるものは、紙一重で、それを“使いこなす”ことをすることで、才能とまではいかなくても、生きていくのに、或いは社会生活をするために、活かすことのできる道具になりうるって、今の私は思うようになりました。
 持って生まれたもの、人生の途中で持つことになったもので、「無駄なものなんて何もなかった」って思うような生き方がしたいなって思います。
(取材 2017年5月)

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