後悔

後悔

嫌いなものを挙げればキリがないが、その中でも最も嫌なものは何かと問われたら、私はきっと「後悔」だと答えるだろう。


私は昔から何故か「後悔」と言うものが極端に嫌いだった。それには恐怖心さえ抱く程で、私はどんな選択をする際にも「後悔しない方」と言う選び方をする程に、後悔する事を極端に恐れていたのだ。だから、極力それを味わう事がないように最善の注意を払ってきた。

まさしく後悔は先に立たず、味わったが最後、一生消えることはない。月日を重ねる事でいくらか薄らいでくる事はあるものの、ある時ふと思い出した際にもこみ上げるあの鮮烈な後味の悪さを味わう事が不快で不快でたまらないのである。

だからその可能性を徹底的に排除しながら生きてきた。


その結果として、今の自分が出来上がった。



そのせいだと言う程のものでもないが、若い頃はとにかく潔癖で、一点の曇りもない清廉潔白な状態が好きだった。シミ一つない真っ白なシーツのように、完璧なまでに後ろ暗さのない笑顔を保てる事が、人生の美徳だと信じていたのだ。


なんて愚かだったのだろう、と今になってみれば思う。


ピューリタン革命の指導者、クロムウェルの政治がどうして長続きしなかったのか。江戸時代後期、寛政の改革を行った松平定信の政策がどうしてうまくいかなかったのか。私は青春時代、事ある毎に父にそう説かれ続けた。

でも、私にはそれが理解出来なかった。



正しい事はどこまで行っても正しい。


もしもそうでないと言うのなら、どうして幼稚園や小学校で正しい行動をしましょうと教えるのか。

「ちょっと位踏み外しなさい。ルールを守るのはほどほどでいいのよ」

なんて誰も教えないではないか。

そう屁理屈をこね続けて、私は大人になった。




清く正しく美しく。

後ろ暗い事のない私は、どこまでも真っ白で、一点の曇りなく胸を張った。人に何か意見する時、誰かに指摘する時、私はその後ろ盾にすっかり安心して、その勢いのまま相手に言葉を投げ掛ける。相手がどう思うか、じゃない。その行いが良いか悪いか、私の論点はそこだった。



その結果はどうなったか。

そんな事は、火を見るよりも明らかだった。


正しい事を正しくしか言えない私。裏表の表しかない私は、まるで教科書のようだったのだ。受動的に、ただ学校で配布されるものと同じ価値しか持たない。私の言う事は、私ではなくても誰にだって言える事だった。だって、私の発言は全て、教科書の模倣のようなものだったのだから。

二次元の印刷物に代用出来る意見しか持たない私は、三次元に生きる「私」と言う存在の魅力が皆無と言う事だった。薄っぺらい、紙切れのような人間と言う事だ。


私はその時に、初めて気付いたのだ。

ただ正しいと言う事は、二次元的な価値しかないと言う事を。四角四面に良い悪いを判別して断罪する。その基準はありふれた紙に書かれているものと同じである。



じゃぁ、人を立体的な三次元にさせている要素は一体何だと言うのだろう?

その一部が「後悔」なのだと言う事に、私はようやく気付いた。


ロボットは、間違える事を知らない。プログラムに組み込まれた事にどこまでも忠実である。正しい事はどこまでいっても正しい。そう、ロボットは空虚な私の中身と同じだった。

人間は間違いを許容し、同時に間違う人を許容出来るからこそ立体的になる。それこそが、人間としての厚みとなるのだ。だからその許容行為に成り得る後悔は、最も人間を立体的に見せる構成要素の一つであり、人の魅力の根幹と言っても過言ではない程に尊いものではないだろうか。



人は痛みを知って、その豊かさを増す。そう考えていくと、後悔とは必要な要素の一つである事が理解出来る。それでも率先して後悔を甘受せよとまでは思わないが、同時にそこまで毛嫌いをしなくても良いのではないかと言う気持ちにはさせてくれる。

だから私はそれに気付いてから、「後悔をしない方」と言う選び方を止める事が出来るようになった。やりたい方を選べばいい。その結果、後悔がついてきたとしても、それは自分の人間性を高める一つの要素となるのだから。

そんな風に、今は思えるようになったのである。

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