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人生とは究極の総合芸術

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Q. 物事の抽象度を上げるためには?

そもそも「抽象度を上げたい」とは思っていない。すべてのものが、世界が繋がるという大前提で生きてるから、関係ないものを関係づけようとして、結果的に抽象度が上がる。僕は関係ないものに関係づけることに興味があるんだよね。

小さい頃からアニメが大好きで、毎週のようにアニメを親に借りてもらって見ていた。そのときに何を気にしてたかというと「この声優さん、この役もやってたんだ」ということ。つまりキャラクターじゃなくて、そのキャラクターの裏にいる人の声に興味を持って「繋がりここにあるじゃん」みたいな。そういう裏の世界を楽しんでいた。逆に漫画のキャラクターを好きになることはあまりなくて。漫画を書いている人に興味を持つ。

僕がパロディーが大好きというのはそういうこと。パロディーは全ての結節点にあるものだから。ドラゴンボールの世界はドラゴンボールの世界で完結してるんだけど、やっぱり完結された世界は感覚的に受け入れられない。繋げたいんだよね。そうすると「銀魂」という作品は、まさに「ドラゴンボール」をネタにしてきたりとか「BLEACH」引っ張ってきたりとか「モンスターハンター」を引っ張ってきたりする。そこで「世界って全部繋がってんだ、だから銀魂いいな」みたいに思う。コアなネタとかやって、それが分かったときの自分がめっちゃ面白い。

だから結局「目の前にあるものと何が関係づくんだろう」というのを純粋に考えるだけ。でも最初は繋がらない。そこから繋がっていくと発見があるから面白い。そこに行くまでは必ずしんどい時期がある。「繋がらないものを繋げたい」というのが僕の究極的な欲求。そして世界はひとつだと思っているから100%繋がる。関係ないものなんかこの世に存在しない。だから僕は「関係付けられる自分でありたい」と心から思っている。すると博愛にしかならない。ワンネスの世界は博愛だから。

一昨日モネの絵を見に行ったときに初めて「絵画と対話している」という感覚になった。絵を見てるんじゃなくて、その裏にいるモネが何を表現したいか、何を伝えたいのかというのを自然と考えるようになって。それでモネに対して「そうだよな、こうしたいよな」という気持ちになった。絵はモネが表現したい何かであって、絵を描いているわけじゃない。伝えたい何かを絵にしてるだけだから。感情を伝えるための手段が絵。モネの眼鏡で何を捉えて、これをどう表現したら伝わるだろう、こんなに美しいこれを何とかして人に伝えたいみたいな。それは油絵になるよなとか、こういうタッチになるよなとか。下書きしない気持ちもめっちゃわかる。今までは絵を見ている自分だったのが、絵の裏にいる人が何を感じているのか、お前は何を伝えたいのかというのがナチュラルにできるようになっていてびっくりした。

今までモネの絵をたくさん見てきて「何となく好きだな」とは思ってたけど、それが何なのかいまいちよく分かっていなかった。それが今回「これだったんだ」と分かった。それは別にモネが本当にそう言ってるのか分からないし、そうとも言い切れない。でも「少なくとも僕はそれをそう感じたよ」という。そのときの正解はそれ。でももしかしたら1年後またモネの絵を見て、別のことを感じるかもしれない。でも「その瞬間、自分はそう思った」という正解を持っている。それに嘘偽りはない。そもそもすべてにおいて、客観的な正解はない。だからアートというのは鑑賞者がいてはじめてアートたりうる。鑑賞者と裏にいる人とのコミュニケーション。これが超楽しい。時空を超えているからね。

以前から物に関しては、そういう感覚はあった。絵画は今までそんなにうまくできてなかったんだけど、今回それがすごくできるようになって。言語では伝えきれないし、自分が捉えた世界もそれそのものを人にトレースすることはできない。だからせめて絵画にしよう。その異常なエネルギーが信じられない絵を描いているわけ。それがエネルギーであり推進力であり、それを自分のビジネスや人生に応用したらいいだけの話。その形がたとえば対人コミュニケーションなのか、ビジネスなのか、プライベートの何かなのか。それは人によって全く違う。だからみんな何かしらのアーティスト。でもその花が開くまでは、いろんなインプット期間がある。早く開く人もいれば、遅く開く人もいるし、早く咲かせるしかないものもある。たとえばスポーツ選手。「肉体が衰えてからスポーツ選手になります」は違うわけ。でも生まれてすぐそうなれるわけでもない。それまで積み上げた期間がある。どう生きるか。そこもアートの一部。

人生というのは究極の総合芸術。そうすると今まで積み上げてきた自分の生き方がひっくり返る。全部必要なんだと。自分の人生という芸術を創り上げるときに、いらない瞬間なんかない。事実はどうとでも言える。そこにジャッジはない。どうせ自由なんだから、ポジティブな解釈をつければいいだけの話。でもポジティブな解釈をつけるまでには、自分なりの根拠があって、そこには自分の人生に向き合うことでしかたどり着けない。

でもみんな「どうせ〇〇だ」というのを持っている。それを持てば持つほど、ポジティブな解釈にはたどり着けない。僕は今どういう状態かというと「どうせ成功するしな」とか「どうせ影響力を持つしな」とか「どうせ幸せになるしな」という状態。何の根拠もない未来だけどポジティブ。それは今まで自分の人生に対して、ちゃんと向き合ってきたから。そこから逃げずに責任を取り続けた。それによって死なずに、なんならどんどん豊かになっていく自分がいるわけで。その経験から考えると「どうやっても成功するじゃん」みたいに思える。それが対外的にも見える形で、たとえば「講習生が増えた」とか「売上が増えた」みたいな形で出てきてる。

だから目の前の負荷を乗り越えないまま「そのマインドセットだけください」は無理。目の前の現実に対して嫌な気持ちが出てくる。出てくるけどやる。以上。極めてシンプル。もちろん逃げてしまうこともある。逃げたとする。じゃあ次どうするか。以上。そこで「逃げてないですよ、自分なりに向き合いました」というのは本末転倒。スタート地点にも立てない。逃げたことを自分の心の底では認めてるはずなのに「そんなことないっすよ」みたいな。そうやって自分の本心をごまかし始める。

だからセッションの場もそうだし、セミナーに行くのもそうなんだけど、そこに行けば自動的に自分の人生がうまくいくなんてないから。ただの気づきの場でしかない。「毎日何してんの?」という話。毎日何か必死に生きる以外は何もない。でも必死にとは言っても、ただ目の前のことをがむしゃらにやればいいわけではない。ある程度は道筋立てていかないといけない。ズレた行動をしすぎて「自分なりに頑張りました」というのでは意味がないから。

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