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親が認知症になったら思い出したい本

認知症世界の歩き方という本を読んだ読書感想文。

結論から言うと、自分にも似たようなことは頻繁にあるから認知症と大きな境目はないなと思った。
おかげで今までよりも認知症や認知症の人を遠く感じなくなった。

その中でも特にこの本を読んでいて感じたことは次の3つ。

  1. 自分にも認知症と似たようなことがよくあると思った

  2. 想像よりも若い人にも起きている衝撃

  3. おばあちゃんを思い出していろいろ後悔させられた

1.自分にも似たようなことがよくあると思った

本の中では認知症の人の頭の中ではこんなことが起きているんだよという例え話が書かれているんだけど、その様子が「いや、これ、普通に私でもやってるわい」と感じてしまうのだ。

私40代女性主婦、将来認知症あるなと思う。

例えば、「自分が買い物したことを忘れ、何度も買ってしまう」という例。認知症の人が家にあることを忘れてトイレットペーパーをまた買ってきてしまうという事例だ。

記憶の問題で自分で買ったという行為を忘れてしまうらしのだが、私も無いと思って買った片栗粉が家に2つも3つもあることがある。もう食べてしまったと買った玉ねぎが冷蔵庫の中にまだ沢山あったこともある。

記憶力のことだけが認知症ではないにしろ自分にも似たようなことが頻繁にあることを考えると、認知症の人が別世界に住んでいるわけではないとあらためて思った。

よく見聞きする認知症のイメージって自分の子供や孫の顔を覚えていない、今さっき食べたご飯のことを覚えていないとか、別次元にいて若い時の記憶の世界で暮らしているんだなと思っていたからだ。

なんでそんなに物事を覚えていられないのかがこの本でわかったことで、自分にも起こる「あ、忘れてた!」とか「あれ、どうだったっけ?」の延長線上に認知症の「覚えていない」があるのではと思えるようになった。

亡くなった実家のおばあちゃんも、私が小さい時の若くてバリバリと家事をこなしていた頃も認知症になって記憶が薄れていた頃も、変わらず私のおばあちゃんで別世界で生きていたわけじゃないんだなと思った。

認知症の記憶障害にはもっと大変な影響もある。この本によるとスーパーの調味料コーナーからマヨネーズが探し出せなくなるらしいのだ。

その名の通り、認知する機能に障害が出てしまうらしい。

片栗粉をまた買ってきてしまううちはまだ序の口で、そもそも買った片栗粉を見てもそれが片栗粉だと認識できなくなることになったら「認知症来たな」と思って対策していこうと思う。

自分が将来なりそうだという気配があるものの、まずは親が認知症になったら不思議な行動をしても理解してあげられる気がしてきた。

2.想像よりも若い人にも起きている衝撃

私の身近な認知症代表といえば実家のおばあちゃんなんだけど、この本で語っている認知症本人という人が全然それよりも若そうなことに衝撃を受けた。

例として、通勤で毎日乗っているバスなのにいつも降りているバス停がわからなくなるというのだ。

通勤世代だということに驚いたし、お客さんのところに営業にまわっている人もいるという。

もうとっくに仕事は定年を迎えて突然暇になった世代が認知症になるのかと思っていた。

いつも決まった時間にテレビで相撲の中継を見ていた祖父や祖母のことを想像していたから、現役の働き盛り世代で認知症になったという人の例え話が書かれていることに衝撃だった。

若い世代でも認知症になる人はいるんだろうなとは思っていても、「社長と思い出せずにしばらく会話をしていた」という話もあったり、想像しているよりも自分に近い年齢で認知症の自覚症状がある様子を知って、やっぱり私の将来は認知症まちがいないなと確信した。

その時のために夫にも読んでおいてもらおうかなどと考えた。

3.おばあちゃんを思い出していろいろ後悔させられた

もう亡くなった実家のおばあちゃんも日に日に認知症が進んでお昼寝をして起きてくると日付が1日進んでしまうようになった。

社会人になって実家を出た孫のことはギリギリ覚えている感じだったけど、家を出てあまり帰ってこれない叔父さん夫婦つまりおばあちゃんの息子夫婦のことはもっと記憶が薄くなっていた。

おばあちゃんといえば、今思い出しても後悔して胸が苦しくなる出来事を思い出してしまう。

ある年、実家の両親が数週間のあいだ家を留守にすることがあって、私は仕事の休みを取ってしばらく実家で生活をする時期があった。

ボケ始めたおばあちゃんが1人になってしまうから、私が気合入れて実家での生活を回してみせる!と気合を入れていざ凱旋した。

若くしておじいちゃんに嫁いで、自分の子供たちだけでなく、年の離れたおじいちゃんの弟や妹たちも自分の子供のように面倒をみてきて、年をとってからも叔父さんや叔母さんたちに慕われていた昭和初期生まれのおばあちゃんだ。

そんなおばあちゃんが待つ実家に帰ってやることと言えば、洗濯や1日3食のご飯の支度をするくらいのものだ。

そこら辺の家事はおばあちゃんだって長年やってきたことで、逆におばあちゃんも孫娘のために自分がやらないとと思ってくれていたのだと思う。

私がきんぴらを作ろうと思ったときだった。

料理はやればできるけど普段あまり自炊しない孫娘の手つきは要領が悪く、ごぼうを全て5センチくらいに切ってから皮を削いでいた。

料理をする人ならわかると思うけど、当然うちのおばあちゃんも私を見兼ねて「先に皮を削いでから切った方がいいよ」と横からアドバイスをしてきた。

今ならおばあちゃんのやり方が圧倒的に要領がいいし、料理をするようになった今の私だってそのやり方でごぼうを切る。

だけどあの時は、私がなんとかしなくちゃという気合いとおばあちゃん最近ボケが進んできたしちょっと黙って見てて欲しいなという大人気ない気持ちが湧いて「私が全部やるからおばあちゃんは何もしなくていいよ」と言ってしまった。

おばあちゃんは優しく「でもね」と教えてくれようとしているのに、私も意地になって「もういいから!」と強くおばあちゃんを退けてしまった。

認知症でいろんな事を思い出せなくなったりはあるけど、料理の腕前は圧倒的におばあちゃんの方が良いいのに。

でもどこか、もう認知症が日に日に進んでいるおばあちゃんに何かやらせても上手く出来ないと思い込んでしまっていたのだ。

そのあとのおばあちゃんの顔は寂しそうで、私に何か言うのを諦めて無言で黙ってしまった。

あの時の顔は今でも覚えているし、あの時のことを思うと今でもすごく申し訳ない気持ちと後悔で胸が痛くなって鼻がツンとする。

今ならわかる気がする

この本で読んで、人のことを忘れちゃうとか動きや感覚が鈍いっていう認知症の症状は、みんなが誰しもある「忘れっぽい」とかの延長線のことなのかなと思うようになった。

本を読んでいなかったとしても、あの時のおばあちゃんに「今まで家事や子供たちの世話をしてきたこら、おばあちゃんは何でも知ってて要領がいいよね」となぜ言えなかったんだろう。

そこは認知症を知っているかどうかというより、私がただ幼かっただけの話で、ただただ自分の未熟さを悔やんでしまう。

でもこうして認知症の人がとる行動がどうして起こったのかわかってきたら、将来親の面倒をみたり夫が年を取ってきたときに、おばあちゃんに当たってしまった時のようにならないようにできる自信がついてきた。

今までのままで認知症についてよく知らなかったら、親が訳のわからないわかことを言い始めても、どう接したらいいんだろうと不安ともどかしさで、さいあくイラつきまで起きていたかも知れない。

親の介護を気にする年代のいま、この本を読む機会があったよかったと思う。

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