新海誠は感傷マゾの自◯幇助をしてくれ

感傷マゾになんだか乗れない

“感傷マゾ”という概念が登場して久しいですが、どうにも乗れない自分がいます。

感傷マゾを我流解釈すると「青春が虚構化し、陽キャはディズニーかUSJで”青春らしい”一瞬をカメラに収めてエモいエモい鳴く一方、オタクは新海誠を見てありもしない青春にヘラってシコシコする」という概念だと思っています。

コロナ禍のせいというよりはもっと前から青春が死んでいたように思えます。n=1の話で恐縮ですが、自分が制服を着ていた10年代の共学ではすでに1つのクラスに男子校と女子校が偏在していたようなものでした。その断絶を乗り越えてまでコンタクトしようとする人はほぼいなかったように記憶しています。

どこかの調査によると20代独身男性の4割がデート経験すらないらしいですし、この傾向は全国的なものじゃないのかなあと思います。ま、普通に生きてるだけでは異性との絡みがない時代にけっこう前からなっていたってことじゃないですかね。

そんな中で青春の残滓に縋るように、生まれた時代ではないはずの昭和レトロに懐かしさを覚えてしまったり、JKブランドに拘ってLJKを制服ディズニーで締めくくったり、インディーズバンドのMVを見てエモいしか喋れなくなったりするのは当然の帰結だと思うわけです。

オタクはギャルゲーで抜きながら平和に滅んでくれ?

一方で問題はオタクくんです。陽キャが青春をつくりに制服に武装してディズニーに行っている間、オタクくんが何をしているかといえば、感傷マゾ(動詞)です。Twitterの浪人垢が受験失敗した後ナンパ師になって情報商材を売りつけている間、オタクくんが何をしているかといえば、これもまた感傷マゾ(動詞)なのです。

ここで「さすがオタクくん、無害でカッコイー!!」とはならないのが悲しいところです。無害さを他人に褒められることはありませんから自分で褒めるしかありません。けれども自分で自分の無害さを褒めるのも惨めなので、マゾヒズム的になって自己愛を高めることしかできません。

この無害がどうとか告白ハラスメントとかぬいぐるみペ◯スショックがどうとかはかなりキツい問題です。オタクだって性欲を持ち合わせていますが、セックスがしたいというよりはむしろ「青春」がしたいという方が強い気がします。それなのにわずかに性欲を出してしまった瞬間、それを無理矢理引っ張られ、告発され、全身に自分が性欲を持った男性であることを植え付けられる…なんと恐ろしいことでしょうか。

それだけに感傷マゾに浸るオタクくんはなんだかとても優等生的であるように思えます。創作作品から「青春」を夢想して、誰に迷惑をかけるでもなく自分の中で消化=昇華して、挙句それでコミュニティを広げたり創作に活かしたり…と。これはこれで「正しく傷つく」ことができていて心から尊敬できます。

ですがそこに引っ掛かりを感じるんですね。それもどうしようもなく。簡単に言うと「オタクはギャルゲーで抜きながら平和に滅んでくれ」をまさに体現しようとしていることへの拒絶感です。別にこの言説はそこまでおかしいことを言っているとは思わないのですが、生理的な次元で拒絶したくなる衝動に駆られます。

以上が自分が「感傷マゾ」に乗れない理由になります。でも自分で自分の手当てをできるのはすごいことなんですよね。世の中には他人に罰してもらわないと気が済まない人もいて、それに本人が気付かずに害を撒き散らす人だって大勢いるわけですから。そこを自覚的に、自覚的すぎるほどに自己卑下して有害性を(脳内ヒロインを経由して?)自己完結させるのはなかなかできることではありません。生粋のマゾというよりは戦略的なマゾヒズムという感じがします。

感傷マゾの人は自己嫌悪を快感にすることで無限にアディクションをかます性癖のようですが、自分もNTRとか好きなのでこれはわかります。ただ自己嫌悪の質というか、何によって自己嫌悪になるのかという点が違いそうです。感傷マゾの人はおそらくアニメというか空想の(理想的な)青春と比較したときの自分の惨めさに対する自己嫌悪かと思いますが、自分の場合は男であること自体への嫌悪感情があります。まあそれもとても戦略的な感情である自覚はありますが。だからかわいいおとこのこって好きですよ。あくまで二次元の話ですが。つくし卿の気持ちもそれなりにわかります。

それと関係なさそうな話ですが、自分おねショタにそんなに惹かれないんですよね。どこに感情移入すればいいのかわからなくなります。おねえさんに感情移入するなら相手は陰キャオタクのほうがいいですし、少年を愛でるのであれば少年に性欲はない方がいい。もしかしたらおねショタってジャンルはおねえさんになって少年の二次性徴のハンドルを男の方に舵取らせることに快感を覚える性癖と考えると理解しやすいのですが、そのように楽しんでる人はあまり多くなさそうです。

むしろおねショタに惹かれる人がいるのは、それは少年の「無垢な性欲」が許される場所であることが大きいのではないでしょうか。しかし自分はそこに欺瞞を感じてしまいます。

「新海誠が好きだった元カレ」と「新海誠で感傷マゾに浸るオタク」は違う

おねショタといえば、新海誠の作品には魅力的なおねえさんがいつも登場しますよね。自分は『言の葉の庭』から入った世代ですが、新海作品でいうと大衆エンタメが好きなので『君の名は。』、さらには『天気の子』が好きです。ジャンクフードを美味しそうに食べてるのが可愛らしいですよね。それ以前の作品には特別思い入れがないのですが、感傷マゾの人、ってか新海誠作品が好きって人はみんな『秒速5センチメートル』が好きな印象があります。

『秒速』が人気な理由は遠野くんへの共感かなと思うのですが、どんな人間が共感してるのかってのがよくわかりません。もっというと新海誠作品のオタクは自身の恋愛(的な)経験に基づいて共感しているのか?という純粋な疑問です。でも感傷マゾって虚構への憧れではなかったのか?層が違うのでしょうか。

そう思います。つまり同じ『秒速』好きでも「新海誠が好きだった元カレ」と「新海誠で感傷マゾに浸るオタク」の間にはかなりの違いがあるのではないかということです。「新海誠が好きな元カレ」は比較的恋愛に積極的なタイプで、好きな子をヒロインに重ねがちなのに対して、「新海誠で感傷マゾに浸るオタク」がどの程度現実に結びつけているのかはかなり謎です。ありもしない青春にヘラるのが感傷マゾとするならば、重ねることができる青春自体がなかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。とすると感傷マゾの人はいったい何に共感しているのでしょうか

それは遠野の「オタク的な選択」、正確にいうと「男らしくない選択」への共感ではないでしょうか。一応最後のシーンは「追わない選択をした」というよりは「追う選択をしなかった」とも言えますが。どちらにせよあんなに山崎まさよしが歌ってくれてたのにも関わらず追わなかったことへの共感でしょう。例えとして、国語の授業ではないですが「この時あなたが遠野ならどんな行動を取りますか」という問題があったとしましょう。ここで模範的な解答は「追いかけて告白する」でしょうが、実際に自分が模範解答どおりのことをできるとはまさか思いません。ここで模範解答と自分の間に確かな溝ができます。物語の主人公になれない自分を否応なく突きつけられるのですね。

しかし新海誠はそこを軽く飛び越えてきます。求められる模範的な行動の裏に潜んでいる「それができない自分」を暴いて、見せしめる。けれどもそれは暴力の形態を取らず、綺麗な風景と音楽で爽やかに演出された「初恋との訣別」という成長物語の形をなす。それでオタクはこれを「自分を物語」だと錯覚(?)するのでしょう。

フェミニズムか男性学風にいえば「規範的な男性性からの逸脱を自己否定に陥ることなく、やわらかな『成長』として描き切っている」とか言えそうですが、それだけでは欺瞞めいてます。鑑賞するオタクも追わなかったことで大人になったってプロットはわかります。しかしそれが爽やかに演出されているのは自己憐憫だということにもまた人一倍敏感です。というかこれは自己憐憫でしかないよってオタクに伝わるように新海誠も作ってると思うんすよね。だからオタクは二重に擦られるのです。つまり『秒速』のラストは「男らしくない行動も許されるし、それによって成長する」と「そう考えるのは自己憐憫でしかない」との間で反復横跳びをさせるゆえ、オタクは夢中になるのではないでしょうか。この反復横跳びが感傷マゾの真髄かもしれませんね(適当)。

だからこそ感傷マゾはジェンダーの模範解答自体が自己憐憫であることを暗黙のうちに見抜き、マゾヒズムとして消費することで、自分にとっての救いの道を開いているように見えます。誰しもが「救いの物語」によって救われるわけではありません。むしろ適度にブッ刺してくれる物語、ダメなところはダメだと言ってくれる物語ーそれは決して他者でも女性でもないーが僕らには必要なのです。

男キャラに感情移入できない

ここからは個人的な話です。自分、あんまり男キャラに感情移入できないんすよね。女の子のほうがなんかわかる気がします。エヴァのシンジくんよりも王子様になろうとしてるのにどことなくナヨナヨしてる(よね?)天上ウテナに共感してしまいます。それはともかくとしても、「これは自分の物語だ!」と思えるような鑑賞体験もなければ、妬ましく思うほど強い気持ちを抱いたことも今ぱっと思い出せません。ちなみにNTRが好きと先ほど言いましたが、NTRを楽しむのはどちらかというとロールプレイでなりきる「ごっこ」ですのて、「これはまさに自分だ!」といった共感とは様相が違います。

この絶望的に男キャラに共感できない(共感することを拒んでる)自分の鑑賞スタイルは新海作品を見る上ではかなり仇となります。でもそもそも共感できる男キャラの造形ってめちゃくちゃ難しいと思うんですよね。ここ深掘りする余力は今はないんですけど、女が主人公のアニメは普通に入り込めるのですが、男主人公ってある種の型(恋愛モノだとやれやれ系、八幡系、去勢系、達観人生二週目系etc)があるように思えて距離を感じます。女の子もある程度の類型ってのはありそうですが、ここまで露骨じゃないように見えます。

萩尾望都はかつて「男の子のほうが制約なくノビノビ描ける!」と今でいう「少年愛」に着手したとかしてないとか聞きますが、日本アニメは体感としては女の子のほうがノビノビ描けるじゃないかなと思うのです。どこかの哲学者が「女(の類型)は存在しない」みたいなことを言ったとかどうとか聞きますが、まさにそうです。

新海誠は感傷マゾの自◯幇助をしてくれ

ここまでが前置きでした。いよいよ公開される『すずめの戸締まり』ですが、どうやら女の子視点が中心っぽいのと、男が椅子になるのはかなり気になります。予告で椅子にキスしようとするシーンあったように覚えてるんですけど、アレ本編で見たら感動で泣いてしまいそうです。新海誠ってあんまりキスさせない?え、口噛み酒…!?あれはほぼセックスだからね。時空を超えたセックスだよあんなん!!!

とはいえ椅子は何かを食べることはできないし、それこそ逆シンデレラよろしくキスしないと復活できない気がします。椅子に座ってメシ食えばいいのかな。お前が食卓になるんだよ!!!

一人で盛り上がってしまいました。話を感傷マゾに戻すと、最近ジェネリック新海誠的なアニメ映画が増えてきて感傷マゾに浸れる一方で、当の新海誠が感傷マゾを惹起するようなものを作っているかどうかは怪しいよう思います。すんごいそもそもですけど新宿や池袋で感傷マゾって発揮されるの?感傷マゾの典型が夏休み〜麦わら帽子に白ワンピース〜田舎〜みたいな中で、感傷マゾの総本家っぽい新海誠はそんなにですよね。

だからこそぼちぼち新海誠と感傷マゾはバイバイする頃合いなんじゃないかな。もしかしたらその決定打が『すずめの戸締まり』なのかもしれない。庵野やスピルバーグが「オタクくんさぁ、もうちょっと外に出て自分の人生楽しもうぜ」と言っていたかはやぶさかでないですが、新海誠も同じように「オタクくんさぁ」と言ってくれることを願ってます。現実のこんな荒野でも愛にできることがまだあるってことをね、僕たちは大丈夫のその先をね、知らしめてほしいってワケ。

感傷マゾは打倒する相手、というよりは自ら死にたがっているように見えます。誰も傷つけずに「ギャルゲーで抜いて平和に滅ぶ」ことが最優であっても最良の道ではないことは感傷マゾもわかっているはずです。それはもはや自分でどうすることもできないし、「愛にできることはまだあるかい」と問いかけても結局マゾヒズムの材料にすることしかできないオタクにはもしかしたら届かないのかもしれません。てかそもそも自分に問いかけられていることに気づいてないのかもしれません。それでも「僕にできることはまだあるかい」とオタクに自問自答させることができるのは新海誠作品しかないのです。

感傷マゾは死にたがっているはずなのに自分で身動きすることができません。それは殺しても殺しても蘇ってくるゾンビのような奴かもしれませんが、このたび新海誠には感傷マゾを介錯してほしいと、私は切に願うのです。

もちろん自分のなかの感傷マゾと共に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?