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傷つけられた自尊心は、暴力でしか取り戻せない

 学生の頃、こんな妄想をしたことはないだろうか。
 「テロリストが突然学校を襲って、自分が(なぜか)返り討ちにして、普段はばかにしてくるクラスメイトが『お前、すごい奴だったんだな』と心をあらためてくれる……」

 私はある。なんなら、テロリスト以外にも、50パターンくらい妄想していた。そのことを唐突に思い出したのは、映画『JOKER』を観ている最中だった。
 そのことについて、ちょっと書きたい。もし貴方もこの類の妄想に覚えがあるなら、ぜひ読んでほしい。「■自尊心を傷つけられたら、どうすればいいのか?」以降だけでいいので。


■はじめに

 この記事は、映画『JOKER』を観た感想である。物騒なタイトルは、この映画を真剣に3回観て、真剣に考えたことなのである。通報しないでください。

 この映画の感想を書く前に、ひとつことわっておかねばならない。
 私はアメコミをよく知らない。
 スパイダーマンはなんとなく設定が分かるけど、バッドマンはビジュアルしか知らない。ジョーカーについては、「剽軽な感じのバッドマンの敵」ということだけ、知っていた(匿名ラジオでそう紹介されていたので)。
 映画を観たきっかけは、Twitterで見かけた感想の数々だった。たくさんのファンの方の情熱を感じた。

 つまり、この記事を書いている時点で、バッドマンの原作はおろか、他の映画作品も未視聴なのである。
 ファンの方々とは違って、『JOKER』という映画単体への感想になるので、その点よろしくお願いします。あと、ネタバレもあります。


■アーサーは「社会的弱者」なのか?

 Twitterで見かけた感想では、「社会的弱者」「無敵の人」といった言葉をよく見かけたので、これをとっかかりにしたい。

 初見時、映画の半分くらいまで来たとき、私は首をひねった。

 アーサーの生活が楽ではないことはたしかだ。彼は病気に苦しんでいる。アパートはぼろぼろだし、友達もいなさそうだし、カウンセリングに通っている。悪ガキにはボコられるし、イキったサラリーマンにもボコられるし、上司には「気味が悪いと言う奴もいる」とか言われる。

 けれど、エピソードをひとつひとつ見ていくと、「社会的弱者としての苦境」は、あまり強調されていないのだ。

 たとえば、バスで子どもを笑わせようとして、その母親に拒絶されたシーン。
 拒絶された時点では、アーサーは笑い病の症状が出ていなかった。むしろ、子どもの母親に「構わないで」と一方的に言われたことがきっかけで、笑い出した。

 たとえば、お金について。生活は決して楽ではなさそうだし、ピエロのお給料は多くなさそうだが、アーサーがお金に困っているシーンは出てこない。

 もし「社会的弱者」がメインテーマならば、もっと直接的に苦境を描くことができたはずなのだ。
 けれど、この映画ではあえて映されていなかった。
 写さなかった理由はひとつではないだろうけど(アーサーが買い物をするシーンは、極力省かれていると感じた)、初見時に違和感を覚えたのである。


■では「無敵の人」なのか?


 ネットでは、"失うものがないゆえ、犯罪へのハードルが下がり、凶悪犯罪に走ってしまう人"を指して、「無敵の人」という。
 我々の社会にとっても重要な問題であるし、アーサーについても、「無敵の人」という観点で言及する感想は多かった。

 実際、クライマックスのマリーのスタジオで、アーサーは「失うものはない」と口にする。そしてマリーを撃つ。

 けれど、映画の前半では、彼は「無敵の人」ではなかったのだ。

 彼には母親がいた。
 "失うものがなくなった"のは、母親の「嘘」を知って、それまでの穏やかな(とおそらくアーサーは感じていた)時間すら、まったく自分を愛するものではない、と気がついてからのことだ。
 最初の殺人の時点では、仕事は失ったけれど、母親がいたのだ。


■「なぜ殺した」のか?

 では、「無敵の人」ではないアーサーは、なぜ殺人を犯したのか。
 ここで出てくるのが、この記事のタイトルだ。

 「傷つけられた自尊心は、暴力でしか取り返せえない」。

 アーサーの犯した殺人は、どれも明確に「自尊心を踏みつけられた」ことがきっかけだ。
 自尊心というと色々ややこしいので、「嘘」や「いじめ」といってもいい。要するに、「こいつには嘘をついてもいいだろう」「反抗するなんて生意気だから、殴ろう」、つまり、「軽んじられていることが明確になった」出来事が原因である。

・殺人1:地下鉄でサラリーマンにからかわれ、荷物を取り戻そうとしたら殴られたので、自己防衛的に撃った

・殺人2:母親が自分を虐待・そのことを嘘で隠していたことを知り、殺した

・殺人3:拳銃についてチクった同僚を殺した

・殺人4:自分のジョークをテレビで笑いものにしたので、司会者を撃った

 このうち、肉体的な危機があったのは、①だけである。ただ、生命の危機を感じたかというと、疑問がある。
 冒頭の悪ガキのシーンで分かるとおり、アーサーは殴られ慣れている。カウンセリングで「つらいのはたくさんだ」と語っていることものの、彼はおそらくやり過ごすことを知っている。

 ほかの3つの殺人とあわせても、アーサーの殺人は「精神的な危機」から心を守るためだったのだろう。


■自尊心を傷つけられたら、どうすればいいのか?


 では、からかわれたり、騙されたり、殴られたり……つまり軽んじられたとき、私たちは何ができるか。アーサーは何ができたのか。

①正義をもって反論する
 いじめはよくない、悪口はやめろ。……『JOKER』の世界では、言ったところで聞いてもらえないことはたしかである。

②成功者になる
 社会的な成功者が、しばしば自尊心が低いことは、感覚的に知られていると思う。自己肯定ができないので、権力や地位(つまり他者からの肯定)から得ようとするのだ。もちろん、けっしてわるいことではない。
 しかし、どれだけ心の飢餓感があろうと、皆が皆、社会的に成功できるわけではない。社会的な成功者がかなりの努力をしていることを、私たちは知っているのだ。
 しかも、見返してやりたかった相手が突然こびへつらったり羨ましがったりしてくれるかは、けっこうな賭けだ。

③暴力
 確実なのは、これしかない。
 誰だって、殺されると思えば恐怖する。どんなに見下している相手だって、自分を殺しうることを実感すれば、あなどってばかりはいられない。
 拳銃を見せれば、軽んじたことをすぐさま後悔してくれる。相手が社会的な権力に弱いことに賭けて何十年も努力する必要もない。一瞬で済む。

 本当は、ある程度愛され自己肯定できている人は、ちょっとくらい軽んじられても、大丈夫だ(でも、不思議とそういう人ほど軽んじられないよね)。
 なぜなら、軽んじてくる礼儀知らずのほかに、たくさんの人が自分を愛してくれてるから。

 けれど、もう本当に心のHPがなくて、自己回復もできない人は、なんらかの手段で自尊心を保たなければならない。
 傷つけられた自尊心を回復する一番の方法は、傷つけてきた張本人が、後悔し、謝ることだ。
 正義は通用しないから、「本当は軽んじるべき人間じゃなかった。すごい奴だった」と思わせないといけない。

 暴力は、そのためのたったひとつの冴えた方法なのだ。

 アーサーは、もうそれ以外の方法では自尊心を守れなかった。悪に染まったわけでも、殺人が楽しくなったのでもなく、彼は心を守るために、明確な基準で「傷つけてくる相手」に暴力を振るったのだ。


■とはいえ


 私はけっして、「気にくわない奴を殴れ」といっているわけではない。
 そんなのは、万民の万民による大リヴァイアサン時代だ。暴力はよくない。互いに人権を大切にしたい。殴られたくないし、どんなにいやな奴だって、痛そうにしてたらこっちも罪悪感を覚えるから。

 重要なのは、「私たちとアーサーは何が違ったのか?」ということだ。

 もっというと、「私たちは、なぜまだ殺人していないのか?」を考えねばならないのである。


■選択肢の手前に

 どう考えたって自己肯定力とか足りなくて、他人の些細な言動に傷ついて、すれ違った女子高生がくすくす笑っていると絶対悪口言われてると思っちゃって、でもって今夜も脳内大反省会をしないと寝られない私たち。
 それでもまだ暴力を選んでいないのは、なぜなのか。

 正直なところ、アーサーが殺人を犯すとき、私は心の中で快哉の声をあげていた。「そうだ! やっちまえ! 殺すしかない!!」とさえ思った。
 私自身は、殺人もグロもどちらかといえば「いやいや痛い痛い」と身がすくんでしまうのだが、『JOKER』に関しては特別だった。
 なぜなら、アーサーに感情移入をしている観客は、「もう暴力でしか自尊心を取り返せない」状況だということを、痛烈に感じていたからだ。

 つまり、この映画を観たとき、ずっと選択肢に入れていなかった「たったひとつの冴えた方法」の存在に気がつく。
 そしてそれが「冴えた方法だけど、選んではいけない方法」だということを、同時につきつけられる。

 これはとても重要だ。
 なぜなら、「暴力を振るいたいという衝動」を自覚しなければ、暴力を自制することはできないからである。
 もし「他人の財産を盗む奴がいる」ということを知らなければ、窃盗を罪として禁止することができないのと、同じことである。


 私の人生は、きっとこれからも、「テロリストを撃退して感心してもらう妄想」でお茶を濁すのが精いっぱいだろう。
 アーサーもたくさんの妄想をして、自分の心を慰めてきた。現実的な救済にはならないけれど、現実的な行動(暴力とか)をとってしまうよりは、ずっといい。

 妄想が現実に起こったことだと勘違いしてしまうと、結構マズいことになるのは、アーサーが示したとおりだ。
 重々気をつけなければならないけれど、私たちにはアーサーと違う点がもうひとつある。

 物語だ。

 作中、アーサーは「フィクションらしいフィクション」に触れることがなかった。笑いをとるトークショーや、テレビ・無声映画でのコメディを見ていたし、ラジオで流れてきた歌について話してもいたけれど、私たちが触れるような――それこそ『JOKER』のように感情移入できる物語を楽しんでいる場面は、なかったように思う。

 私たちはアーサーを知っている。
 「自分がなりえたかもしれない存在」を通して、否応なしに自分の姿を見てしまう。
 物語は物語で、フィクションはフィクションなので、教訓や自己啓発を求めて映画を観ているわけではないけれど、

 アーサーを知っているというだけで、「最後の選択」を少し遠くから眺めることが、できるのだ。



今回長くなってしまったので、「『JOKER』はなんの映画だったのか?」という点について、また別で書きたいと思います。

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