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第三話 彼の名はふたこたまがわ、ではない

 目覚ましが鳴る。

 起きる。

 絶対に起きる。

 絶対に全力で起きてロフトから居間に移動する。

 昨夜の内にセットしたタイマーの通りにちょうど回り終えた洗濯機から洗濯物を取り出して干す、これは三塚松理(ミツヅカマツリ)の仕事。

 その間に一ノ瀬綾子(イチノセアヤコ)はトーストとスープを作る。育ち盛りの松理に食べさせる分、なのでインスタントではなく調理したものでなければならない、利便性よりも気持ちの在りようを優先してそのように決めた。だが、固形コンソメや顆粒だしについては積極的に利用する。

 松理が朝食を摂る、その間に綾子がシャワーを浴びる。

 綾子が髪を乾かしている間に松理は食器を洗う。

 果たして二人は洗面台の鏡の前に集合し、歯磨きをしながらの鏡越しの会話でその日の互いの予定などを確認する。

「あんた、一人で駅まで行けるよね。19時半に切符売り場らへんで待ち合わせね」

「説明足りな過ぎ」

「今日の夜はお寿司だから。おやつは控えておなか空かしといで」

「藪から棒になに、納得いく理由がないと怖いんだけど」

「ちょっと、スポンサー的なあれがいるから」

「それ、おれに会わせても大丈夫なの教育上」

 三日で保育所通いを止めた甥と。

「ただの高校の同級生よ」

 人付き合いが苦手な叔母と。

「ならば遠慮はしないけど」

 そんな二人でも十日も一緒に過ごせば自然、相手のリズムを知ろうとする。

「あんたは、日中はどうすんの。やっぱりゲーム」

「そうなるね」

 互いに快適に過ごす為のルールが暗黙の内に固まってゆく。

「ずっと一人でやってて、飽きない」

「綾子が遊び方を覚えてくれさえすれば」

「接待プレイで褒めてくれたら伸びるよあたし」

 即ち阿吽の呼吸。それは或いは。

「ともかく、時間に遅れないようにね」

「どうせ外出するなら集会所に寄らせてもらう。その分早めに出るから大丈夫」

「なら、風邪ひかないように対策しっかりね」

 符牒や、指示代名詞のみで通じ合う場のように油断も甘えも許容する。

「それにしても」

 と、綾子。

「あたしの見立てはやっぱり間違ってなかったよね。まだまだ全然見飽きない」

 一歩、距離をとるみたいに下がって、鏡越しではなく直接、松理の全身を舐めるように見て続ける。

「それ、ほんと似合ってる」

 応えて松理。

「にゃんて日だ」

 綾子に押し切られる形で購入し、松理が寝間着にしている猫の着ぐるみ、その尻尾がぴょんと跳ねた。

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 綾子はアルバイトに出掛け、松理は籠ってテレビゲームに興じる。

 その繰り返しの互いの日常は、共同生活が始まる前となんら変わっていない。

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第三話 彼の名はふたこたまがわ、ではない

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 午後一に予約を入れていた歯医者で治療を受け、そのままアルバイト先のコンビニエンスストアに移動、発熱した子供の看病の為に急遽欠勤する主婦の代理で19時まで働き、その後に松理と合流、それが綾子の今日の予定。

 綾子のアパートから待ち合わせの鉄道駅までは歩いて十五分、集会所では十分だけ滞在の積もりが実際には一時間ほど経過する、その不思議な時間の流れ方も考慮に入れれば自ずと出発時間は決定する。同時にゲームに費やせる時間が弾き出される。

 ACアダプターをコンセントに差し込む。

 スーファミの電源を入れる。

 ビーズクッションに尻を落とす。

 リモコン操作でテレビを点ける。

 コントローラーのスタートボタンを押す。

 案内役の森下このみと再会する。

 マップは日本列島を選ぶ。

 果たして。

 北海道に二軒目のやどやを建てた頃、ブラウン管テレビの横に置かれたプッシュホンが鳴った。

「はい三塚です」

「え」

 呼吸が止まったかのような沈黙。更に沈黙。どこまでも沈黙。

「あ、違うか。一ノ瀬です」

「ですよねー」

 松理が訂正するや否や食い気味に安堵を漏らしたその通話相手は、男。

「わたくしふたみと申します。綾子さんは御在宅でしょうか」

 声の印象は若く、それこそ綾子の言っていた同級生だろうかと松理は想像する。

「出掛けてますよ。夜まで帰りません」

「そうですか。ちなみにあのー、今、お話しいただいてるのは綾子さんとは、どういったご関係の方になりますかね」

「一緒に住んでますね」

「あー、わー、かりー、ましたー。失礼します」

 きっと相手が欲する情報の提供には及ばなかったであろう、が、防犯上は的確な対処だった筈、ならば間違いは犯していないと自分を納得させながら受話器を戻し、松理はゲームを再開した。

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 そうして北海道エリアを独占し、しかしうまい具合に飛行機に乗るなどして本州に戻る事の出来ず、CPキャラによる株の便乗買いをされるがままになっていた頃、呼び鈴が鳴った。

「どちらさまですか」

「失礼いたします、わたくし消防署の方から、と言うか消防署の方にありますリフォーム会社から白蟻駆除のご案内にやってまいりました、ふた、こたまがわと申します」

「蓋、こたまがわさんですか」

「二子玉川と申します」

「白蟻駆除の案内で」

「はい、白蟻駆除のご案内で一帯を回っております」

 ならば追い返す理由はない、とばかりに松理が無造作に扉を開く。と同時に。

「二子玉川さんはゲームで遊んだりします」

「え、そうですね、初任給でカットビ!宅配くんを買い求める程度には」

 スーツは黒、ネクタイはえんじ色、手に提げた厚いナイロン製ビジネスバッグに薄水色の作業着を掛けている。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。

「というか、子供、さん」

「なにか問題でも」

「いえ、そういう訳では」

 実際に白蟻駆除の営業かどうかはともかく、自称二子玉川が勤め人であるという点は信じて問題がなさそうだ。

「そしたらちょっと上がってゲームの相手、してくれません。顧客候補と距離縮めるのも立派に営業活動ですよね」

「出来たら大人の方とお話しさせてもらいたいのですが、ご家族の方は」

「いません。でもパンフレットでも置いてってくれればおれが売り込んどきますよ、好い感じの人だったっつって。だから一勝負」

 子供が独りで留守番をしている部屋に上がり込むセールスマンなどいない、という常識的思考、即ち見えない境界線をしっかりと認識してはいるようだが、しかし、自称二子玉川の態度は断固たるところに欠く。詰まり悩ましき葛藤、或いは単純な躊躇が見られる、ならば悪魔的な囁きが確実に、絶大な効果を発揮する。

 松理が、普段の就寝時間を過ぎて連ドラをもう一話観始めるか悩む綾子に再生ボタンを押させる時の顔をして、言った。

「無理を言ってるっておれも分かってるんで、知らない人を部屋に上げたなんて口外しませんよ」

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 一時間後。

「という事は叔母のー」

「一ノ瀬綾子」

 回避可能なルート上に購入した物件に最高額まで増資、開始早々のこの失策がやはり最大の要因。

「その、一ノ瀬さんには男っ気は一切ない感じなんだ」

「おれの知る限りですけど。さっきもなんとかいう男から電話ありましたけど、それもおれが居候を始めてから初めてですし」

 ほぼ自滅と言っていい形の自称二子玉川の敗北、詰まり勝利は味気なく、松理の心はほんの一小節さえも踊らなかった。

「そうなんだ。そうなんだね」

「そうなんですよ」

 飽く迄も沈黙を押し遣り雰囲気を和ませる事が第一義、内容は二の次の世間話の体で以て行われたそれは、言わずもがな殊に綾子の身辺に関しての、自称二子玉川による松理に対する事情聴取。果たして欲しかった情報を聞き出せたのだろう、途端に熱心なセールスマンではなくなった自称二子玉川は。

「そろそろ帰社しないとまずいんですよ」

 もう、一滴も果汁を搾り取れない蜜柑を放るみたいに、去っていった。

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 フェンスの向こうから様子を窺うようにまん丸の目をこちらに向けているキジ白、はい可愛い。

 蛇口を捻ってくれる誰かが現れるのを水飲み場に上ってじっと待っている茶トラ、はい可愛い。

 誰かが盛っていったカリカリに群がる白黒、三毛、グレーの仔、邪魔しないよう遠くから眺めるだけにしておくけどもう全力全開で全面的に可愛い。

 斯様に罠だらけ、素通りが困難なここは猫の集会所にて、気前好く時間を溶かしつつも松理は、指定された時刻よりも早く綾子との待ち合わせ場所に着く。そして想定していた事態、即ち人待ちふうに構えた自称二子玉川の姿を発見し、気付かれて過剰に反応される事を嫌い気配を消して綾子を待った。

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「この子は三塚松理くん。姉さんとこの双子のお兄ちゃんの方」

 既に二人は面識がある、とは露も知らない綾子が松理と。

「こっちはお寿司の人。朝言った高校の時の同級生」

 双見裕(フタミユタカ)とを引き合わせる。

「こんばんわ、二子玉川さん。今日はご馳走になります」

 しっかりとした挨拶をして見せる松理、しかし綾子が俄かに訝しむ。

「え、ふたこたまがわ」

 応えてしれっと、松理が爆弾を設置する。

「二子玉川さんでしょ、白蟻駆除の営業の」

「違うよ、双見裕。覚える必要ないけど。ていうかどういう事」

 そう言った綾子の疑義を質すような視線に、さすがに導火線に火が点いたに等しい状況と理解した双見が。

「いや、ちが、これ」

 取り繕おうとするがしかし、水を張ったバケツが必要となる事態を想定していた筈もなく、ただおろおろするばかり。

「ま、いっか」

 カウントダウンに合わせた激しいカットバック、或いはそれを見守る人々の情感たっぷりの表情の後、瞬間的に無音となり、後から地鳴りが追い掛けてくるという映画などでよく見る演出。

「呆れたりがっかりしたりはしてもあんたに対して腹を立てる事はもう一生ないんだから、安心して」

 ちょうどそうした具合に、事態は既に開始された時点で一本道のレールに乗って回避不能の爆発へと至り、そして今から爆風を浴びてこれに堪えねばならぬのだと双見は。

「でもなにやらかしたのかは聞かせてもらおっか、あんたの口から。お寿司を食べながら」

 顔の左側に掛かる髪の束を後方に払った綾子から冷眼を向けられるに至りようやく、呑み込めたようだった。

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 言葉を選び省くべきを省き簡潔にまとめた形で、二十歳の叔母が六歳の甥にした説明が以下の通り。

 趣味が合い、ものの考え方の部分で惹かれ合っていると確信を得た後、高校三年生の夏休み前から交際をスタートさせた。が、卒業式の日に酷い裏切り行為があり、それに対する謝罪や言い訳をさせないままに訣別した。双見とはそういう間柄だ、と。

「でも、許されたものとして次にいってくんないとあたしも寝覚めが悪くてさ。こうして月に一回だけ、ご飯を奢らせてやろうって去年の暮れからね」

 ひょいぱくひょいぱく、なんて擬音でも聴こえてきそうな綾子の見事な食べっぷりは、冷静な口振りとは相反する感情の昂ぶりが表れたものに思える。

「あたしのその思いを踏みにじって、裏であたしのプライベートを探ってまた取り返しのつかない失態を演じるとかそういう迂闊なとこ、あんたちっとも変ってないよね」

 ならば綾子との間に復縁の芽はあったのだろうか、きっと双見が一番に知りたかったであろうその疑問に対する正解は、たらればの彼方に消滅してしまった。

「松理も、あたしが不在の時にあたしの許可なくあたしの部屋に誰かを招き入れるの絶対禁止。ここで約束しな」

「姑息な手を使った点はおれも庇う気ないけど、でも、部屋上がんなよって誘いに対しては葛藤が見られたぜ。それに裏で動いたみたいなのは結果的にそうなっただけじゃん。そこは分かってあげてもいんじゃね」

「結果どうなるか、予想が出来るのに踏み止まれないなら罪の意識がないのと一緒。そこで開き直るなら逆に信用するけど理解を求めるなんておこがましいよ」

 双見に対しては断固として開いて見せぬ心の部分がある事を、隠そうともしない。綾子の態度には取り付く島がない。

「やった事はやった事、反省するもしないもあんたの勝手。あたしが許すか許さないかの問題じゃないよね」

 それはきっと、裏切り行為があったという卒業式の日からずっと変わらずに。そして今日を以て決定的に。

「言っても詮無いけど反省はしてる。その前に後悔もしてんだよね」

 と、双見。

 今日の予定に変更などないか、確認の為に綾子に電話をしたところで同居人を名乗る男に応対され狼狽、なにかに取り憑かれたようにアパートを訪ね呼び鈴を押してしまうと今度は猫の着ぐるみを着た児童にゲームをしないかと誘われる、精神は迷宮に迷い込み、抜け出す為には危険を承知で冒険に飛び込む必要があると思い込んだ。そして屍を晒した。

 人間万事塞翁が馬。

 ほんの出来心、自分のそれが未練などという女々しい感情に二年近く支配されていた男をいよいよ電気椅子に座らせてしまった、そう感じたからこそ松理は、双見の行動には正当性も見られると弁護した。彼をうな垂れたままで帰したなら後悔が残ると思った。

 だが、少し前まで顔面蒼白だった双見が一転、厚顔無恥とも言い得る態度で。

「都度、選択を迫られる場面では出来得る限り自分の頭で考え抜くべきと今回の事で学んだね、改めて」

 ひょいぱくひょいぱく、なんて擬音でも聴こえてきそうな食べっぷりで以て皿を積み上げていた。

「ご立派な考え持ってたってね、実際に行動に活かせないなら空論以下」

「そうは言うけど綾子さん、学びを得る為に敢えて間違う事だって必要なんじゃないかなぁ、時には」

「その学びが間違わずとも得られるものなら敢えて間違う必要ないでしょ。少なくとも今回の場合は、それ」

「俺の事じゃなくって、綾子さんの事。間違う前から間違えるなんて言ったらそれこそ空論じゃん」

 或いは早くから開き直っていたならそれを覚悟と呼べたかもしれない。

「電車に撥ねられたら本当に死ぬのかどうか、あんたは実際に撥ねられてからじゃないと結論出来ないって訳」

「真面目で凝り固まった人間は直ぐに極論持ち出すよね。いや批判じゃないよ、批判じゃないからね」

「命あっての物種。まぁそうは言っても確かに、あんたはもうあたしにとって死んだ人だからねえ」

 だが。

「私はゾンビと歩いた!」

 機を逸したなら開き直りですらない、ただの間抜けだ。

「そして一緒にお寿司を食べた。美味しかった」

「そりゃあよかった。て言うかいいなそれ、曲のモチーフになりそうな予感」

「松理もほら、遠慮しないでどんどん食べな」

 いやさ松理は。

「二子玉川さんはこう見えて気前が好いから」

「そうです、私が二子玉川さんです」

 人が修羅場で図太くなる瞬間を、目の当たりにした。

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 或いはそれもまた阿吽の呼吸。

 綾子と双見の二人は別れ際に。

「次もまた俺の給料日でいいのかな、平日だけど」

「むしろ土日にはあたしとなんか会うな」

 ずっと前から決めていたみたいな調子で次の約束を、したのだった。

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 そして就寝前の歯磨きタイム、洗面台の前に並んで立つ松理と綾子。

「つかなんでおれ呼んだの、ありゃデートじゃないの」

「それはない、飽く迄も食事」

「じゃあたまには外に出て人と会話しろ、みたいな」

「そういう積もりもちょっとあったけど、まさかあんな展開になるとはねえ」

「でも面白かったけどね、ワイドショー感覚で」

「双見本人の印象は」

「死んでからの甦り方が予想外。ちょっと天才感じた」

「興味持ったならまた次もおいで」

「じゃ遠慮なく」

「それを猫語で言ってみようか」

「振りが雑過ぎてそりゃ乗れねえ。全然全く乗れやしねえ」

('20.3.24)


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