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ブルース・ドライブ・モンスター

心身共に健康な人間が、精神的に追いつめられた人間の気持ちをうまく想像するにはどうすればいいだろうか、ということをよく考える。

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たとえば、過労死。
過労死するほど根を詰めて働けてしまう人は、命と仕事の優先順位が正しくつけられない間抜けなのだろうか?

たとえば、日大アメフトの件。
あの加害選手は、監督の無茶な指令に無思考に従った馬鹿正直な人間なのだろうか?

たとえば、うつ病。
うつ病は、やる気や根性がないことを正当化するための甘えなのだろうか?

たとえば、いじめ。
いじめを苦にして死を選ぶ少年少女は、それに耐え抜くことができない心の弱い人間なのだろうか?

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ぼくは、これらのすべてにはっきりと、心からノーを突きつけられる人を、世界にすこしでも増やしたい。

そのために、フィクションの力を借りる。

フィクションの力

フィクションが持つ力のひとつに、人間の想像力を限界を超えて引き延ばすことがある。

前のnoteでも書いたけれど、想像力とはほとんど「視点を変える能力」と言っていいはずだ。真実はいつもひとつの複雑な多面体で、人間はいつだってそれを一方向からしか見ることができない。

コインのように、ある角度から見れば円形であるものが、別の角度から見れば四角いなんてことはざらだ。

だからこそ自分と異なる視点に思いをはせ、その二つが矛盾せずに両立することを理解する能力が人間が人間らしく社会を生きる上で必要不可欠なのだ。

しかし、想像力には限界がある。
たとえばいま、メジャーリーグで大谷翔平が何を思い、どんな不安と孤独の中で戦っているか、なんてことはぼくらにはおよそ見当もつかない。同じとは言わないまでも、彼と似たレベルの才能を持ち、かつ似た規模で何かに挑戦している人などほとんどいないのだから、想像のしようがない。

材料が必要なのだ。
想像力は1を100に膨らませることはできても、0から1を生むことはできない。
その穴を補うのが、フィクションの大きな役割の一つだ。
自分だけの力では届きもしないような視点に手を伸ばすきっかけとなる「1」を、フィクションによる疑似体験が与える。
感情移入や見立てという形で、普通ならば見ることができない自分とは真逆の視点からの景色を垣間見ることができる。

フィクションは、そうして想像のタネを読者に提供する。

ガラスの階段

ある想像のタネをひとつ、紹介しよう。

『賭博黙示録 カイジ』という漫画がある。

多額の債務を抱えた主人公たちがそれを帳消しにするため命がけのゲームに挑んでいくという物語だ。
この命がけのゲームの中の一つ「鉄骨渡り」は、ビルとビルを渡す足の幅ほどのか細い鉄骨を落下しないように進み、向かいのビルまでたどり着け、というものだ。
そしてひとつ、このゲームには落とし穴があった。
鉄骨を渡り切り、向かいのビルの扉を開けた瞬間気圧差によって生じる内から外への突風。
これがある限り、参加者は絶対にゲームをクリアすることができない。

問題なのはここからだ。
じつはこのゲームには、クリアに至るための道がひとつだけ残されていた。
それがガラスの階段。
ビルとビルを渡すか細い鉄骨、その脇に、夜の闇に溶け込むように透明な階段がひっそりと、けれど確かに用意されていた。

参加者が本当にやるべきことは、恐怖を噛み殺して鉄骨を前へ進み続けることではなく、歩みを止め、すぐ横に在る階段をただゆっくりと登ることだったのだ。

暖かなビルの室内から高みの見物を決めこむ観客たちは、ガラスの階段に気づかず死んでいく参加者たちを嗤い、「安全」という至上の娯楽に浸る。

これが鉄骨渡りというゲームの本質だった。

本当に?

だが果たして、彼らは観客たちが言うように、本当にバカで愚鈍な間抜けなのだろうか?

この漫画を読んだことがある人ならば、ほとんどの人がノー、と答えるだろう。

なぜか。

分かるからだ。

大なり小なり主人公たちに感情移入が出来ている、普通の人間ならば。

「鉄骨を渡れること」と「ガラスの階段に気がつくこと」というのは根本的に背反、両立不可能であるということが。

恐怖を乗り越えて鉄骨を渡っていくためには常軌を逸すること、通常では考えられないレベルで視野を狭めることが必要だ。鉄骨のすこしだけ先の部分に目線を固定し、ひたすら後ろ足を前に運ぶという狂気の単純作業に没頭することが不可欠だ。

しかし、そうして狂気の世界に足を踏み入れたが最後、鉄骨の脇に仄見える隠しルート、ガラスの階段は視界から消え去り、その存在に気づくチャンスは二度と訪れない。

絶望に呑まれないためにすがった狂気が、希望に至る道を完全に閉ざしてしまうのだ。

こんなもの、右を見ながら左を見ろと言われているようなものだ。
どだい無理な話なのだ。鉄骨の上に立たされた時点で、もうすでに個人の意志や能力でどうにかできる問題ではなくなっている。彼らは決してバカでも愚かでもない。

物語を通せば、ぼくらにはこういうことが当たり前に理解できるし、だからこそ彼らを嗤うことはない。

改めて

さて、 ぼくらはいま、 ひとつの物語から小さな想像のタネを獲得した。

これを手に持った状態で、最初の4つの問いについてもう一度考えてみよう。

果たして、

過労死は、自己責任だろうか?

件の加害選手は、無思考でバカ正直なのだろうか?

うつ病は、甘えだろうか?

いじめにより自殺する若者は弱いのだろうか?

 
 
 
  

彼らは、鉄骨渡りの参加者によく似ている。
漫画の世界と大きく違うことは、他の参加者が見えているかどうか、ということだ。

いまこの瞬間、いじめに苦しむ若者には、別の学校で同じようにいじめに苦しむ仲間の存在など見えない。

彼らはいつだって独りだ。

暗闇のなか、たった独りで先の見えない鉄骨の上を歩いている。

天才的な閃きをもつ物語の主人公でさえ、多くの仲間の死をきっかけに間一髪、ガラスの階段の存在に気づくことができたのだ。

それをたった独りでやれと言われて無事にクリアできる人間がどれだけいるのだろうか?クリアできない人間をどうして嗤うことができるだろうか?
 
 
 

ぼくらがまずやるべきことは、彼らの狂気を嗤うことでも、彼らの弱さを糾弾することでもなく、彼らの苦しみにすこしでも思いを馳せることだ。

「もっと他の逃げ道があったでしょ」と嘆く前に、その「逃げ道」がガラスの階段であることを理解することだ。

そして、ならばそもそも鉄骨の上に彼らが立たされないためにはどうすればよいのか、或いはよかったのかを問いつづけることだ。

この文章を読んで、鉄骨の上で立ちすくむ人々に対して、強者の理論をむやみに振りかざす「観客」たちが少しでも減ることを、切に祈る。

PLANETS10を買いたいです。