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信仰を持って生きることはそんなに悪いものでもないーとある信仰3世の本音

特定の信仰を持つことを公言しにくい時代ですね。

今に始まったことでは無いかも知れませんが、昨今その傾向がますます強くなっているようです。
”宗教2世”という言葉が特別な響きを持つようになった背景には、社会を震撼させたセンセーショナルな事件のみならず、信仰の名のもとに生まれてきた数多くの不合理・不条理があるのだと思います。妄信と教条主義の犠牲者という文脈の中で”宗教2世”が語られるようになりました。そのことに異議を唱える者では決して無いのですが、ある種の違和感を私は覚えます。というのも、他ならない私自身が”宗教2世”側の人間であるからです。

私は昭和に設立された新興宗教団体、パーフェクト リバティー教団の中で育ちました。高校野球で一世を風靡したあのPL学園の”PL”です。
一信者であったのみならず、祖父の代から教団の布教師を務める家庭で、幼少期から学生時代までを教団本部の中で過ごし、私自身もまた布教に従事するようになりましたが、現在はその職を離れています。
思うところがあって教団を離れたのですが、その理由はいわゆる”宗教2世”を語る上で用いられるような、「洗脳の束縛からの解放」のようなものでは全然ありません。
宗教家としての職責から離れることで、自由な一個人として信仰のあり方について考えてみたい、私自身が信仰の現場に携わる中で得た経験を別な切り口で社会に発信してみたい、そんな思いです。
宗教団体の現場ルポだったり、宗教2世の体験談など、どうしてもその特異性・異常性を訴えるものが目立つ中で、私自身が経験してきた肌感覚をもとにしながら「信仰って、そんなに悪いものでもないよ?」という素朴なメッセージを伝えたいと、先ずは駄文を綴ってみるところから始めることを思い立ちました。

近年の信仰を取り巻く様々な世相の中で、きっと同じような違和感を持っている人も多いのではないかと思うのです。「おかしいな」とは思うけど、なかなかそれを公言することもはばかられてしまう。人知れず悶々と過ごす、そんな”宗教2世”あるいは”信仰2世”の皆さんに向けて、何かしらの共感を得られるものになれば幸いです。

幾度となく繰り返される宗教を巡る悲劇、規模の大小は様々ですが、これを本当に解決しようと思ったら、必要なのは問題に蓋をしてしまうことでは無いはずです。
特定の信仰を持たないことが一般化して、全ての宗教が無くなってしまえば、不条理や争いも無くなる…などということも無く、いつの時代のどんな場所にあっても妄信的教条主義の落とし穴が潜んでいます。
それを避けるために本当に必要なのはあるべき信仰の姿を皆で考えていくことではないでしょうか。社会全体の信仰に対するリテラシーを高めていく必要を感じています。

何かを信じている人も、信じていない人も。

信条を超えて互いに理解し合う姿勢そのものを、養い育んでいきたい。そのことを願って止みません。


ちょっと大仰な文面になりましたが、今後も信仰にまつわるコラム・エッセイのようなものを投稿していきます。あんまり鯱張った大げさなものにはしないように、実体験に基づいた率直な思いを綴っていこうかと。どうぞよろしく!

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