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著者と話そう 竹迫祐子さんのまき

 本誌で「絵本、むかしも、いまも…」を連載中の、ちひろ美術館の竹迫祐子さんにお話をうかがいました。

Q どのような子ども時代を過ごされましたか?

A 広島で生まれ育ち、天気のいい日は太田川や三滝山で真っ黒になって遊んで、家に帰ると、パンツの中に砂が入っているような子でした。雨降りの日はテレビ。祖母と一緒にエノケンとか「愛染かつら」といった古い日本映画をいっぱい観ていました。夜は、母が読んでくれる『ハイジ』が楽しみでしたが、その挿絵がいわさきちひろのものだったと気づいたのは、美術館に入ってから。車の運転が好きで、長靴を履いてジルバが踊れるというのが自慢の父は、『きかんしゃやえもん』が大、大好きで、「ぷっすん、ぷっすん…」とよく読んでくれました。私のお気に入りは、同じ岩波の絵本の『ちびくろさんぼ』。だから、当時の憧れはデパートのパーラーのホットケーキ。自分で本を読むようになってからは、『赤毛のアン』『あしながおじさん』が好きで、アンのように頭の中で本の世界をそのまま妄想している、傍目にはボーッとした子でした。母は小学校の先生から、「本を読むのはいいけど、本の世界に入り込みすぎる」と注意されたそうです。時代は、正に「三丁目の夕日」の頃です。

 ちなみに、展覧会デビューは、母に連れていかれた丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」展。絵の中でうごめく被ばくした人と、とても暗い会場にうごめく観客の人いきれが重なり合った、何とも不思議な記憶です。「原爆の図」が恐いというより、大人たちが語る「二度と原爆をくり返してはいけない」という思いの方が、子ども心には強く響いていました。物心ついた頃から、何度も原爆資料館に連れていかれていたし、お風呂ではいつも祖母の腰のケロイドを見ているし、周囲には被ばくされた方も多く、「原爆」は日常の中にあるというのが、私が育った頃の広島でした。

Q 高校時代には、学校に行けない時期があったとのことですが?

A 高校は、広島市内の、所謂受験校に進学しましたが、一学期の期末テスト直前に腹膜炎で入院。その間に授業は一気に進んでいて、結局試験ではそれまでに取ったことがないような悪い点数を取ったんです。それがきっかけで、プツンと糸が切れたみたいに学校に行けなくなりました。行こうとすると、本当に頭やお腹が痛くなる。不登校は仮病と思われる人もいるようですが、本当に体調が崩れるんです。「登校拒否」とか「不登校」ということばが一般には知られていなかった時代で、原因がわからず親も困り切って、精密検査を受けに何度も連れていかれました。このまま、自分は終わっちゃうんだろうなあ、生きていても仕方がないなあ、とか思って過ごしていました。出席日数もたりず、本来留年するはずなのに、留年させなかった学校にも不信感がありました。

 そんな閉じた扉を開けてくださったのが、3年生の時の担任のH先生。何しろ、毎朝家に迎えに来られるので……。「どうしよぉる? 学校、行こうやあ」と。本当に心底嫌でした。体調がいくらかいい日でも、言い訳して、行かなかった。本ばかり読んでるから、口は達者なんです。すると先生は、少し寂しそうに「そいじゃあ、のう」と帰られました。でも、だんだん言い訳も底をつき、仕方なく週に一度くらい一緒に学校に行くようになって……。先生は「なんで学校へ行かんのか?」と問いただされたり、叱ったりされたことは一度もありませんでした。私のしたことを、むしろ十にして褒めてくださった。その先生がいてくださったから、そして、あの頃、ただ生きていてくれればいい、と見守り続けてくれた両親がいたから、今の私があるんだと思います。

Q 不登校の日々はどんな風に過ごしていたんですか?

A 絵本、児童文学、大人向けの小説、どれも関係なく読んでいましたが、児童文学は、生きている意味がわからない私に「あなたも生きて、そこにいていい…」と言ってくれているように思えました。また、当時、新しい絵本表現に挑戦していたいわさきちひろや谷内こうたの至光社の絵本には、「大人がいて…の子ども」ではなくて、子どもが子どもだけで存在していて、子どもの中にもある孤独な魂が描かれていて、当時の私とぴたりと重なりました。

Q それが、ちひろ美術館につながって?

A そうですね、大学では社会福祉、幼児教育を専攻して、児童文化研究会に入り絵本と児童文学三昧。卒業して、6年間、保育士として子どもたちと過ごした後、絵本に直接関わる仕事をしたいと思うようになって、それなら「ちひろ美術館しかない」と勝手に決め込んで! でも、美術館の仕事って、どうやったら就けるのかがわからず、ひとり合点で司書の資格を取って、すぐに美術館に電話をかけたら、ちょうど職員募集中。大慌てで応募し、運よく、拾ってもらって……。その後、産休中に今度こそ、学芸員の資格をとりました。

Q 美術館でのお仕事で思い出深かったことを教えてください。

A やはり、安曇野ちひろ美術館の立ち上げでしょうか? 安曇野館の建設が決まって、いったい誰が行くんだろうと思っていたのですが、なかなか決まらないので、それなら私がやりたい! と、家族に相談もせず、手を挙げました。新しい美術館の立ち上げに関わるチャンスなど、人生でめったにあるものじゃない、と。私は大まじめに単身赴任するつもりだったのですが、夫からそれは困ると言われ、高校に入る長男と小学4年生になる長女を連れて引っ越しました。数年後には、夫も安曇野に来ました。

Q これからの抱負をお聞かせください。

A この2月で65歳になり、ちひろ美術館での日々も区切りの時期を迎えたと思います。新しい絵本をもっともっと読んで、自分の世界を広げていきたいですが、これまでやってきたテーマ、いわさきちひろについても、自分なりにまとめていきたいと思います。何より、これからの日本や世界が向かっていく方向に危惧するところもあり、再び誤った道へ向かわないためにも、戦争と絵本、絵本画家の関わり、戦争の中で画家はどう生きたのか、を史実から捉えて、研究していきたい。そして、若い世代へ伝えていきたいと思っています。

 ありがとうございました。

竹迫祐子(たけさこゆうこ) 
ちひろ美術館主席学芸員、同財団事務局長。これまでに、学芸員として数多くの館内外の展覧会企画を担当。財団では、絵本文化支援事業を担い、欧米のほか、韓国、中国、台湾、ベトナム等、アジアの国々での国際交流を展開。絵本画家いわさきちひろの紹介・普及、絵本文化の育成支援の活動を担う。著書に、『ちひろの昭和』『永遠のモダニスト 初山滋』(ともに河出書房新社)、『ちひろを訪ねる旅』(新日本出版社)などがある。

(2021年3月/4月号「子どもの本だより」より)

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