これからのパクリの作法について

インターネットと音楽制作環境のコモディティ化によって、誰でも低コストで大量に作品を世の中に出すことが可能になった。
一昔前だったら、何十万もするMTRを使い手間暇かけて音源を作っていたものが、今や無料のDAWに内蔵されたシミュレータアンプとドラムセットを鳴らしてサクッとバンドサウンドが作れる。歌に自信がなければ初音ミクを呼べばいい。

いま存在する曲の数はいくつあるのか、フェルミ推定した記事があった。

ざーっくりはしてるがおそらく数億曲はあるだろうという。でもそれくらいあっても、別におかしな話じゃない。

これだけ曲が存在する中で、似てる部分が全くない曲を作るのは極めて困難だ。もちろん、それは不可能じゃないし、新しい何かを生み出すことは作り手にとって至上命題であるからこそ、今までにない価値を作ることに僕たちは必死になるべきだと思う。

一方で、過去から学ぶこと、好きなものに影響を受けることは、避けることは出来ない。良いものを作ろうとすればするほど、これは必要な作業工程である。彼らを超えていくために、僕たちは学習しなきゃいけない。

パクりに対する非難やオマージュとパクりの違い論争みたいなものが活発になってきている今だからこそ、これからの時代のパクりに対する正しい作法について考える必要が(少なくとも作り手側は)あるんじゃないかと思う。

影響を受けたものを明記する

パクりだな〜と思う曲に対して腹が立つ理由として、「盗まれた感」の有無は非常に大きい。「盗まれた感」をもう少し具体的に言うと「何にも言わずに勝手に取っていった感」だ。そこにはリスペクトがなく、ふてぶてしい態度すら感じられる。本人にそのつもりがなくても。
先人たちに敬意を表すためにも、影響を受けたものについてしっかりと明記する必要があると思う。僕で言えば、tetoやandymori、ナンバーガール、Arctic Monkeys、竹原ピストル、!!!、WAVVES、中田ヤスタカ、ダウンタウン、伊坂幸太郎あたり影響受けてるわけなんだけれども、そういった前提を知ってるか知らないかで、聴こえ方はかなり変わるんじゃないかなと思う。
サウンド自体は変わらない。が、音の向こう側にある意図や作者の顔なんかが見えてくるはず。行間を読む、みたいな楽しみ方が増えるんじゃないかなと。

「盗まれた感」は聴き手も作り手も不幸にする。これは〜〜のパクり/パクりじゃない、という消耗しがちな論争がこれ以上増えないためにも、作り手側が配慮するべき、たった一つのパクりの作法でした。


(完全にゼロから新しいものを生み出せる天才はほとんどいない。何かと何かと何かのつなぎ合わせから発生したアウトプットを何度も何度も何度も繰り返して、初めて自分らしさみたいなものが出てくる。と思う...いつか唯一無二な存在になれるように今日もたくさんインプットしよう...がんばろ...)

No thank you.