見出し画像

鬼界彰夫訳『哲学探求』第1章:言語ゲーム―新しい言語像(1-25)の感想

ウィトゲンシュタインの哲学探究を一気に読むというのは正直大変なのでモチベーション維持かつ記録、もしくは理解促進のために1章ごとに感想を書いていこうと思う。読み取ったことや考えたことのメモにもなるし個人的には有用。

幸い1節ごとに番号が振られ分量としても1つの節が数行でまとめられているのでメモがしやすい。読んでいるうちにその都度思ったことなどを書いていこうと思う。

まず1節にてアウグスティヌスの言語感が引用されて語られている。正直ここはいきなりよくわからない。なぜ身近な例ではなくアウグスティヌスである必要があったのかもわからないしアウグスティヌスの言語感自体もあまりよく理解できない。

ただ後の場所を読み、アウグスティヌスが言っているような言語の定義では説明できない現象が実際の言語使用の場ではあるんじゃないかということを言おうとしているのではないかと理解した。

その説明できない例としては22節(p35~36)のボクサーの絵の例がわかりやすかった。画家はファイティングポーズをしているボクサーの絵を描いた意図は様々あり用途もいくつか考えられる。絵を見せて何かを伝える時に絵の意味内容(描かれているもの)により一意に意味が定まるのではなく、その使用の仕方により変わる。それと同様に文に関しても文の内容だけで一意に意味が定まるのではなく、様々な用途や解釈が可能だという話だと理解した。

文の方で例を出すと「最近米が食べられない」という文が挙げられる。これは字面だけでは様々な解釈が生まれてしまう。「最近ダイエットしてるから米が食べられない」という解釈も可能だし「最近米が高くてなかなか買えず食べることができない」という解釈も可能だと思う。もしくは突飛な状況であれば「中日ドラゴンズの選手が監督による米禁止で米が食べられない」という解釈も可能である。

すなわち言語使用の状況(場)により同じ字面の文でも意味が変わってしまう場合があるということである。ファイティングポーズの例では大まかにこのようなことを言おうとしているのではないかと理解した。

とりあえず1章についてはこのくらいにしておこうと思う。中村昇さんという人が書いた解説本も持ってて丁度この部分も解説しているようなのでそこも読んでみようと思う。前に読んだ本だけど完全に内容を忘れてしまった。次はその本の感想か2章の感想orメモを書きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?