2022年読んだ本5選
例年通り、今年読んだ本で特に印象に残った本をまとめた。
例年は10冊あげていたが、今年は読破した本が少なかったため、5冊とした。
ぜひ、様々な感想や意見をお待ちしております。
Kazuo Ishiguro "Nocturnes" (カズオ・イシグロ『夜想曲集』)
本書は、日系イギリス人作家カズオ・イシグロによる短編集である。いわずもがな、カズオ・イシグロは、近年ノーベル文学賞を受賞し、『わたしを離さないで』や『日の名残り』で知られる著名な作家である。
本書にある5編の物語は、タイトル通り、いずれも音楽にまつわる話である。物語の主人公は、夢見る若きミュージシャン、才能が咲かずに中年に差し掛かったチェロ奏者、さらには斜陽にある往年のスターまで幅広く、いずれもどこか人生に彷徨っている人たちである。舞台は、ベニスの広場からハリウッドにある高級なホテル、イギリスの郊外の田舎まで実に多様である。カズオ・イシグロの作品によくみられる過去への追憶の念で彩られる作品が多く、人生におけるあらゆることがぼんやりとしていて、一つ一つの選択も、それに対する意味づけの仕方も、様々であることを美しく語っている。
本作に登場する台詞を一つ紹介してみようと思う。(本書を私は英語で読んだため、本文を引用する際は英語およびそれに基づく和訳を載せる。能力の限界による拙い和訳をお許しいただきたい)
それは、"Come Rain or Come Shine"(「降っても晴れても」)という短編に出てくる台詞である。本作では、大学時代からの友人で、いずれも40代に差し掛かった二人の男女が再び会う物語である。男性は、いろんな国で英語の教師をやっており、自身の人生に倦怠感を覚えている。女性は、男性と異なり大学時代の別の友人と結婚しており、長い結婚生活のせいかそうでないか、夫の人生にも自分の人生にも何か不満を感じており、同じく人生に倦怠感を覚えていた。二人の会話で、女性が語った言葉に心を動かされたのでそれを引用したい。
このセリフを読んだ後に私は考えさせられた。他者、それも上のセリフを引用すれば自分の意中の人の「半分ほどにも叶わない連中」、のせいで、我々が不幸に陥るというのはよくあることである。他人が羨むようなものを手に入れようと、実にいろんなことを我々はする。あとで振り返るとそれらはしばしば空虚なものにすぎない。そして、最も一緒にいたかった人と静かに踊っていられなくなるのである。
本当の幸せは表面的な不幸の下に隠されているだけなのかもしれない。
思わず自分のことかと思ってしまうほど、人生におけるあらゆる事象を切なく、美しく、ときにはコミカルに綴った本書は、きっと多くの読者に、言いようのない不安と尾を引くような満足感を与えてくれるであろう。
Milan Kundera "The Unbearable Lightness of Being" (ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)
本書はチェコの作家ミラン・クンデラによる小説である。本書に登場するプラハの春の描写、そして中で展開される奇妙なラブストーリーが有名である。(本書を私は英語で読んだため、本文を引用する際は英語訳およびそれに基づく和訳を載せる。能力の限界によるつたない和訳をお許しいただきたい)
さて、本書はいきなり哲学者ニーチェの永劫回帰説の紹介から始まるように、哲学書かと勘違いしてしまうような難解で抽象的な記述が多い。冒頭で、ニーチェがいうように現実が永久に繰り返される場合とそうでない場合だと人の存在はどのように変わるのかが問われる。そして、すべての出来事が一度限りで終わるからこそ我々の存在はとてつもなく軽いのだと本書は結論付ける。多くの血が流れたフランス革命はただの言葉に転換し、ホロコーストで亡くなった親戚をもつ筆者はヒトラーに関する本を読む際に、死者への同情よりも、ヒトラーに関する描写から懐かしい念を覚えたという。
もし永劫回帰が巨大な重しだとすると、我々の生命はとてつもない軽さを持つ。巨大な重しが上から載っかかると、我々はそれに押しつぶされる。でも、それは同時に一種の充足感をもたらしてくれる。押しつぶされればされるほど、我々の生は意味をもつ。反対に、重しがないと我々は空気よりも軽く、空中に飛び舞うことになる。それによって自由を感じると同時に、我々の生が耐えられないほど軽いものであることを実感することになる。
一度限りの人生であることで、我々の生命や存在は耐えられないほど軽いものとなる。
本書をすべて読んだ後に改めて冒頭部分を振り返ると本書に出てくる登場人物はみなすべて自分の耐えられない軽さから逃れようとしているか、それと共存しようとしていることに気が付く。言い方を変えると、自分にのしかかる重しをみつけるか、重しがなく空に舞っている状態を受け入れようとするかである。誰かを愛することに人生の意味を見出そうとする人もいれば、いろんな女性や男性をとっかえひっかえ恋人にしたり、様々な場所を飛び回ることを生き方にしようとする人もいる。これらはいずれも人の存在に本来的に宿る「耐えられない軽さ」による。
そんな「耐えられない軽さ」を運命づけられた我々は幸せに生きられるのだろうか?確かに本書には悲惨なストーリーも数多く出現する(本書はプラハの春に関する本だが、奇しくも本年はロシアによるウクライナ侵攻が起きた年である)。一方で、実にこれは美しいと感じるような締めくくり方をするストーリも数多くある。本書は、実に、その難解で哲学的な文章の合間に宿る一縷の希望をなんとか理解したいと思わせてくれるような素敵な本であった。
Haruki Murakami "What I talk about when I talk about running" (村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』)
本書は、作家・村上春樹が自身の趣味であるランニングについて綴ったエッセイである。
趣味といっても定期的にマラソン大会に出場するほどのガチっぷりである。
さて、本書はランニングについての本であるものの、村上春樹がランニングから引き出した教訓は、実に人生にも適用できるような珠玉のものが数多くある。(本書を私は英語で読んだため、本文を引用する際は英語訳およびそれに基づく和訳を載せる。原文が日本語の文章を、英語訳をもとに和訳した形で載せるというのはなんとも奇妙なことだが、お許しいただきたい。)(そして、村上春樹の独特の文体を私が再現する力は当然ないので、その点もご容赦いただきたい。)
例えば、自身が他者と競うためにランニングしているわけではないと述べた後に、村上春樹はそもそも自分は、仕事でも日常生活でも、他者と競うのが好きなタイプではないと述べる。なぜなら、人は互いに異なる価値観を持っているのであり、それがゆえに衝突が発生し、互いに傷つくからである。そして、その後一転した以下のようなことを述べる。
他者との交流でできる傷は、自立した自分に至るうえで不可欠なものである。
また、村上春樹はトライアスロンにもしばしば出場するが、それが他者から見たら無駄な行為であるだろうと述べたうえで、つぎのことを述べる。
このような内なる価値がしっかりしている村上春樹だからこそ、レースで臨む結果を得られなかった時もこのようなことがいえるかもしれない。
大作家の語りを見ると、ついつい自分自身についても問いかけたくなる。我々はどのように自分の人生、趣味でも仕事でも、に向き合うべきだろうか。それはまた長い探索が必要になる問いなのだが、本書はその道のりのお伴に最適な本であるのだ。
小泉悠『ロシア点描』
本書は、ロシアの軍事研究家である小泉悠先生による自身のロシア在住時代の経験を主に綴ったエッセイである。
小泉悠先生と言えば、ウクライナ戦争以降みる日がないというくらいに様々なメディアに登場し、一般大衆にも理解できるようなわかりやすい解説をされることで知られている。
本書は、先ほど書いたように、軍事や安全保障のみではなく、ロシアに関して幅広く扱ったエッセイであり、ロシアを知るうえで手軽な入り口となりうる本である。なぜロシアでは花屋が24時間営業なのか、なぜロシア人は年を取ると急に太りだすことが多いのか、なぜロシアの住宅は日本の集合住宅に似ているのかといった一般市民の生活から、ロシアの都市に存在する軍事基地と思われる怪しい巨大な空間やロシアにおける”主権国家”の捉え方など、現在多くの人が気になっているであろう政治や安全保障をめぐる話題も取り扱われている。語り口はいずれも軽快で非常にわかりやすい。
この本を取り上げた理由の一つが、私が数年前にロシアを訪れたことがあり、ロシアに対する理解をより深めたいと思ったからである。もう一つが、本書に異文化を理解するうえで、とても重要なヒントが含まれているのではないかと思ったからである。それを二つに分けて書きたいと思う。
一つは、親しみやすさを覚えるきっかけを大切にすることである。ウクライナ戦争の開始により、多くの人はロシアに対しておどろおどろしいイメージを抱くようになった。そのような警戒感も大切ではあるものの、一方で過剰なそれは相手を過度に異化し、やがて自らの心理や言動も歪ませかねない。(ある特定の集団をあまりにも異質なものとみなした結果生まれうる差別や暴力的な行為は、歴史をみれば明らかである)
ロシア人の生活に触れてみると、日本人との共通点も相違点もあるものの、実に興味深い点が数多くあることに気が付く(おそらくこれはすべての民族・地域に当てはまることだと思うが)。例えば、ロシア人はほとんどの国民が郊外の森に別荘を持っているらしく、小泉先生の妻(ロシア人)も定期的に森に行かないと気が済まないらしい。なぜロシア人は森に行きたがるのか?この一つの切り口だけでもロシアの興味深い文化を垣間見ることができる。
直接の交流を通じて知ることができる相手の文化や習俗は、それが自分自身と似ているにせよ異なるにせよ、表層的な理解ではなく、相手の内面や心性にまで触れていれば、必ず何か面白さや親しみやすさを覚えるものである。例えば、ロシア人の頻繁に花をあげるという文化は、表層的な行為だけでみれば、日本には同じような文化がないため、中々理解できないと感じるものの、自身の愛情や誠意を表現するというその文化の裏にある人々の内面や心性を知れば、何らかの形で理解・共鳴できる(時には羨望の目を向ける)ものがあるはずである。今日のインターネットやSNSが発達した時代において、直接触れ合うことなしに相手を知った気になることが多いが、リアルな交流が持つ価値というのは計り知れないはずである。
もう一つは、異文化を理解するうえで必要な「受け止める」というステップである。
本書には、ロシアに関して、違和感や嫌悪感を覚える部分も登場する。例えば、ロシアでは「日本人は原爆を投下したのがアメリカであると知らない」と幅広く信じられており、小泉先生もロシア人から何度もこれを聞いたという。これに対して、強い嫌悪感を抱く日本人は多いと想像されるものの、やはり相手の表面的な言動ではなく、その奥にある考えを知らないことには真の異文化理解も対話も成り立たない。ある事象に出会った際に、我々は、自分自身のその事象に対する考えを抱くまでに、「事実を受け止める」→「その事象について思考する(場合によっては相手に追加質問したり、リサーチしたりする)」→「自身の考えを抱く」というプロセスをたどるはずである。当たり前と言えば当たり前だが、どうも途中の二つ、「事実を受け止める」→「その事象について思考する(+相手への追加質問、追加リサーチ)」を飛ばす人が最近多いのではないかと感じる。つまり、ある事象に出会う際に、事実の受け止めや冷静な思考なしに、自動的にある種の考えを抱くケースである(例えば、ロシアによるウクライナ侵略が始まったころ、ロシアのすべてが悪とでもいうかのように、大学のロシア関連の講座や町のロシア語の標識の廃止・撤廃を訴える声が一部から上がった)。このような言葉の自動機械的なふるまいが、先にも述べたような相手の過剰な異化や自身の心理・言動の歪みをもたらしてしまうことは論を俟たないはずである。
小泉先生の冷静な筆致には、自分の考えを抱く前にまずは事実を受け止めようとする態度をみることができる。小泉先生は、決して今日のロシアに対する批判や疑問を表明しないわけではない(むしろ、かなりはっきり表明することが多い)。しかし、どこまでも冷静さを貫くその態度には異文化を理解するうえでとても大事な姿勢をみてとることができる。
ぜひ多くの方に読んでほしい一冊である。
中島隆博『中国哲学史』
本書は日本を代表する中国哲学の研究者である中島隆博先生による中国哲学の通史である。
翻訳を担当したアンヌ・チャンの『中国思想史』の解説にて、中島隆博先生は、かつて先輩に中国哲学/思想を研究する者はいつの日か中国哲学/思想史を書くべきと語られたというエピソードを紹介している。それが結実したのが本年に出版されたこの本である。
本書で特筆すべき点の一つに、冒頭に筆者が中国哲学史を綴ることがどのような営みであるかを定義したかである。いわずもがなであるが、「中国」「哲学」「歴史」はいずれも哲学的な検討を加えられる概念である。これら諸概念の検討を経て、筆者は以下のように「中国哲学史」という営みを定義した。
ここにおける「普遍」という言葉がトリッキーなのである。例えば、本書でも紹介されているが、カントはかつて「普遍史」という構想を提唱した際に、それをギリシャとローマを中心としたものを想定し、それ以外の「他民族の国家の歴史」は「挿話的に付け加える」程度のものだとした。ここで自身の試みをより明確にするために、筆者はフランスの哲学者フランソワ・ジュリアンが提唱した「普遍化可能であること」と「普遍化すること」の区別を持ち出す。
「普遍化可能であること」というのは、ある普遍を想定したうえで、それを最上位の審級として諸思想を比較し、その可能性を検討することである。この場合、つねに「普遍」の正当性が問われる。一方で、「普遍化すること」というのは、とある概念をその歴史的な過程で洗練していくことで、普遍的な概念とすることである。例えば、ヨーロッパ起源の「人権」という概念は、はじめから普遍的な概念であったわけではないが、この概念によって人間性の普遍的な側面が様々表出し、その過程を通じて普遍的な概念と
なったのである。筆者が中国の哲学を綴ることを通じて行いたいのは、まさに中国(語)の哲学を歴史による洗練のプロセス、つまり普遍化のプロセスに置くことである。
本書は孔子、老子から現代の趙汀陽や許紀霖まで中国の長き歴史における様々な哲学者・思想家の哲学・思想を紹介し、そしてときにはヨーロッパの哲学者や思想家を持ち出しながら、それぞれに対して様々な分析・検討を加えている。中国哲学を幹としつつも、地域・時代にとらわれず様々な哲学や思想を縦横無尽にかけめぐるその筆致に、筆者の中国哲学を「普遍に開いていく」試みの真髄を感じることができる。
ここでは本書にあまた登場する哲学者・思想家のうち、個人的に特に印象に残った一名だけを取り上げて、本書に関する紹介を締めようと思う。明の後半に生きた王学右派(日本人にもなじみのある王陽明を始祖とする学派の一派)の繆昌期である。
彼の興味深いところは、一般市民の言論(=公論)を重要視する点にある。
近代以前の中国とは思えないような、今日の民主主義の考え方がここに示されているような錯覚を覚えるような議論である。筆者も「中国哲学において、天下の是非の根源を、天子や士大夫ではなく、一般民衆の公論の中にここまで理論的に位置づけた議論は、ほかには見いだせない」と語る。しかし、よく読むと一般民衆の公論が大事とはいっても、君主や士大夫といった統治主体が取り除かれることはない。あくまで、一般民衆は士大夫に代表されるしかない。
一般民衆は、たとえ公論の根源であろうと、それを天下に伝達する権力がないため、士大夫によって代理・代表されなければならない。一方で、士大夫も「私」に覆われていれば、正しく民衆を代理できない。つまり、一般民衆による公論の力は、士大夫によって代理されてこそ可能であるものにすぎない。ここに繆昌期の議論の限界がある。
このように本書は様々な中国哲学・思想を取り上げ、その可能性と限界を他の文化の思想も持ち出しながらつぶさに観ていく。その歩みはきっと多くの人にとって、時には頭を悩まされながらも、愉快な知的な旅になるのであろう。
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