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頭がいい人に限って愚かということに気が付いた話

まず、この記事のタイトルは間違っている。正確には、

「全ての人は多かれ少なかれ愚かで(同時に頭がよくて)、いわゆる”頭がいい人”も例外ではない。」

というべきである。しかし、このような些か扇動的なタイトルを付けたのは、こちらのほうがレビュー数を稼げるかもしれないという邪念がありつつ、実のところ、このタイトルがこの記事で自分が一番に伝えたいメッセージに合っているからである。

さて、変な前置きはやめにして本題に入ろう。

人はみな愚か

タイトルの通り、この記事では、”頭がいい”という言葉をテーマにしたい。

”頭がいい”という言葉は見ての通り、”頭”がいいのである。”頭がいい”とは何か。様々な考え方があるだろうが、ここでは言葉そのものに注目したい。
””頭””がいいのだ。当たり前の話だが、人の思考はすべて”頭”において行われる。自身の外部にある何かを起点として、もしくはきっかけとして、何か考えが浮かび、それをさらに展開させて思考した結果が私たちの言葉や行動につながるわけである(別の言い方をすれば、インプット→スループット→アウトプットである。このうち頭はスループットの部分を担う)。難しい数学の問題を解くことから、芸術的な作品のビジョンを思い浮かべることまで、さらには他人の感情を察して行うべき気遣いを思いつくことまで、すべては”頭”で行われる。

さて、仮にこの世で最も”頭がいい”人が存在するとする。すると、その人は人類が頭で考えうることをすべて思考できるであろう。難しい数学の解法を思いつくことも、芸術的な作品を思いつくことも、誰もが笑い転げるような冗談を思いつくことも、相手の感情を察して適切な気遣いをすることも、すべてこの人には容易いのであろう。
しかし、このような人間は当然いない。するとこれまでいた人間も、今生きている人間も、すべての最上級の”頭がいい”に比べれば愚かだということになる。

”頭がいい人”とは何か

それでは”頭がいい人”なんてそもそもいるのだろうか。最上級の”頭がいい人”(別の言い方をすれば”頭がいい人”のイデア)に比較すれば、この世のすべての人は愚かな存在に過ぎない。すると、社会で一般的に使われている”頭がいい”というのは、すべて相対的な意味においてである。つまり、すべての人間を頭のいい順番に並べて、おそらくは上のほうにいるであろう人のことを”頭がいい人”と呼ぶわけである。

ここで一つ疑問が浮かぶ。先ほども述べたように、本来”頭がいい”という特質は多岐の分野にわたるはずである。つまり、難しい数学の問題の解法を思いつくことも、相手の感情を察して適切な気遣いを行うことも、いずれも人が”頭”の中で考えられることなので、できる時点で”頭がいい”行為としてカウントされるはずである。先ほど書いたように思考は何らかのインプットを起点とする。数学の図形の問題をみて短期間でその問題の性質を見抜くことは得意でも、人の表情を見て適切にその人の感情や要求を判断できない人がいる。同じように、数学の図形の問題を前にしていつまで経っても何も浮かばなくとも、人の表情を見てその人の感情を適切に判断し、すぐに次にとるべき行動を思い描ける人もいる。いずれも、インプットを起点としたスループットなのだが、前者が後者よりも、もしくは後者が前者よりも”頭がいい”といえる根拠は何だろうか。
他にも”頭がいい”が適用されうる領域は無数にある。芸術、お笑い、文学、片付け…これらの領域の中で一つでも得意な分野があれば、それは”頭がいい”とされてよいはずである。

では、実際の世の中での”頭がいい”の使われ方はどうか。ここは人によって身の置かれている環境が異なるため一概にいえないが、少なくとも私の感覚では世間での”頭がいい”の評価基準は特定の分野にあまりにも偏っているのではないかと感じる。

自分の中で”頭がいい”神話が崩壊した瞬間

ここで少し自分自身の体験談を語ろうと思う。
私は高校時代一生懸命勉強した結果、幸いなことに、かなりよい大学に入ることができた。しかし、幼少期から勉強に苦労した経験、そして高校でも決してトップレベルの成績ではなかったことから(現に最終的に受かった大学のA判定を一度もとったことがない)、大学に入れば自分よりも頭がいい人に数多く出会うのだろうと予想していた。

実際にこの予想は一面では当たっていた。
自分よりも知識が豊富で、論理的な思考の展開が早く、さらに学習のスピードが速いような人たちにたくさん出会った。そういった人たちと一緒に勉強したり議論したりすると、彼らが自分には思いつけないことを思いつく場面を何度も目の当たりにする(例えば一つの数学の問題に対して、どのようなアプローチができるかについて短い時間にたくさんのアイディアを彼らはたくさん出し、そのアイディアに沿って実に巧みに問題の解き方を組み立てるのである)。そんな環境にずっといると劣等感を拗らせてしまう。きっと自分に思いつくことは、彼らも当然思いついているのだろうと。
しかし、段々と実はそうではないということに気が付く。自分よりも頭がいい人ですら、自分が簡単に思いつくようなことに思いが至らないことがあるのだ。当初は、「あの人は自分よりも頭がいいから、きっとわかった上で自分よりも巧妙なことを考えているに違いない」と考えていた。しかし、よく話を聞くとそうとも限らない。ナイーブな私はパニックになったわけである。

「え、この人は自分よりも頭がいいのに、なんでこんな簡単なことがわからないのだ。え、なんで。え、ええ…」

当時の私の心の声を再現すると、こうなるだろうか。
より具体的にいえば、特に、勉強や論理的な思考が自分よりもはるかに高度にできる人が、ある行動をした結果他人がどのように感じるかということに驚くほど思いが至らないような事例に多く私は行き当たった(逆に私がこのように指摘される事例も多々あった)。私がなぜこのような事例を目にして驚いたかといえば、(先ほども述べたようことだが)”頭”がいいということは、頭の中で考えることができるすべての領域において他の人では思いが至らないようなことを考えられるはずだと私は思っていた。しかし、実際に世間で”頭がいい”とされる人の多くは得意な領域が偏っており、得意領域では驚くほど頭がいいのに、苦手分野では信じられないほど愚かである。より具体的に言えば、勉強や論理的な思考は得意なのに他者の感情への気遣いは目も当てられないほど不得意な人もいれば、逆もいる。

”頭がいい”が生み出す苦しみ

これまで述べたことをまとめると、本来”頭がいい”は色んな分野に当てはめることができる概念なのに、世間の”頭がいい”はあまりにも限られた分野が得意な人にしか使われていないのではないか。より具体的に言えば、あくまで私の感覚になるが、他者への気遣いができる人よりも勉強や論理的な思考ができる人ばかりに使われているのではないか。

ここでさらに問いたいのが、”頭がいい”という言葉にある本来の意味と世間の使い方のギャップが多くの人を苦しめているのではないかということである。
例えば、”頭がいい”とされる人が何か壁に行き当たった時、周囲の人はよく「あの人は頭がいいはずなのに」もしくは「まああの人は頭がいいから大丈夫だろう」といった言葉を発する。おそらくこの言葉の含意は、「彼は”頭がいい”から、普通の人ができることは普通にできる上で、更に普通の人ができないようなすごいこともやってくれるだろう」ということかと思われる。しかし、先ほど述べた”頭がいい”の本来の意味に照らして考えると、このような考えは実にばかげている。
なぜなら、ある分野での頭の良さは、別の分野での頭の良さを保証しないからである。つまり、勉強や論理的な思考ができる人が他人への気遣いができるとは限らないし、逆も然りである。それなのに、世の中では実に安易に”頭がいい”という言葉が使われている。この安直な”頭がいい”によって、いかに多くの人が苦しめられているのだろうか。”頭がいい”と言われて周りにも自分自身にもその能力を勘違いされた人が、思い描く理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむという事例は至る所で見られる。このような人は、ギャップを受け入れられずに段々と傲慢・横柄になっていく場合もあれば、自己肯定感を低下させて失意の中で人生をおくるようになる場合もある。

結び:”頭がいい”が刃とならぬようにするには

”頭がいい”という言葉が世間で実に偏った使い方をされており、それが多くの人の苦しみを生み出していることはこれまで述べたとおりである。
私も多くの人がこれに苦しむ光景を見てきたし、自分自身も苦しんできた。思えば、一面的な頭の良さへの過剰な称賛は、多様な才能への看過なしにはなされないはずである。つまり、一人一人に輝くような才能があるのにも関わらず、ある人は”頭がいい”とされ、ある人はそうでないとされる。そして、このような構造はいわゆる”頭がいい人”もそうでない人も悩ませる。

本記事のタイトルにある「頭がいい人に限って愚か」というのは、周囲に”頭がいい”と言われている人は、その言葉を額面通りに受け取ってはいけないということである。数学ができるからといって、他者への気遣いができるとは限らないように、自分自身にもとんでもなく愚かな部分があるかもしれないということに思いをいたすべきである。
逆に、「愚かな人も頭がいい」といえる。幼少期から勉強ができず、親や学校の先生から「頭が悪い」といわれているような子でも、輝くような才能を持っていることがある。その子は、芸術的な作品のビジョンを頭の中に思い描けるかもしれないし、誰もが笑い転げるような冗談を思いつくのが得意かもしれないし、相手の表情の微細な違いを感じ取ってアドリブで話す内容を変えるのが得意なのかもしれない。

願わくは、すべての人がその才能を正しく評価され、周りに後押しされながらそれを輝かせられることである。”頭がいい”という言葉(もしくはその反対の頭が悪い/愚か)が一切使われるべきではないと思わない。しかし、言葉は刃にもなりうる。”頭がいい”という言葉が刃にならぬようにするには、自分がその言葉を発する際にその具体的な含意をしっかり考えて、きちんとそれを言語化すること、そして自分には見えていない頭の良さがあるかもしれないということに常に思いを馳せることが重要なのではないだろうか。



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