“反省”することとは何か 〜カズオ・イシグロの『浮世の画家』を読んで〜

先日カズオ・イシグロによる『浮世の画家』という小説を読みました。
かつて第二次世界大戦時に戦意高揚に貢献するような作品を数多く描いた画家が、晩年に自分の人生について振り返るというストーリーです。

本書のテーマの一つに、“反省”があると思います。この場合、“反省”には単に過去を省みるという意味と、自身の過ちについて考えるという二つの意味がありますが、本作における主人公はまさにこの二重の意味における“反省”を強いられています。人はある時代におけるある社会の規範・常識のもとで生きなくてはいけない、そして規範・常識は時代や社会によって変化する、というごく当たり前の二つの事実によって、私たちは年齢を重ねれば重ねるほど、自身の過去を振り返る際に自身の過去の行動が(今の基準に照らせば)誤りであったかもしれないということに苛まれてしまいます。そんなのは仕方ない、という人もいるかもしれませんが、本作の主人公は日本国民だけでも約300万人の犠牲を生んだ(諸外国の犠牲者も含めると夥しい数となる)戦争に協力してしまったために、その“反省”はより一層困難なものであったでしょう。一方で、彼は彼の時代における価値観に照らして、日本という国家に貢献したいという思いから、軍国主義的な絵画を数多く製作し、それを誇りに思っていました。何らかの価値観を信じ、自分自身よりも大きなものに貢献したいという思いは、多くの人が抱くものです。しかし、往々にして、その果てには大きな間違いが待ち受けている可能性があります。

大抵の場合、人は自分が過去に魂をかけてコミットしたことを良き思い出として振り返りたいと思います。しかし、自分の過去の行為が誤りであったかもしれないという思いがそれを邪魔します。そこでそうした疑いの念を封印して、あくまで良き思い出として自身の過去を振り返るという人が数多くいますが、しかしそういった目を逸らす行為も同時に(無意識のレベルであれ)多くの痛苦を伴うものです。

結局彼はどのように反省したのでしょうか。物語の前半では、日本が戦争で誤ってしまったことに対して留意しつつも、結局どこか自己弁明的な記述が数多く見られました。しかし、娘の結婚を無事に成立させなくてはならない、という切迫した課題を前に、彼は徐々に過去に対する反省を始めるのでした。そして、自分は過去の過ちについて反省できる人間であることを誇りに思うようになるのでした。この彼の“反省”をどのように思うかは人それぞれでしょう。このような実利を出発点とする反省は結局のところ表面なものに過ぎず、真の反省とは言えないと思う人もいれば(事実、反省を経ても彼は自身の過去を誇りに思うような発言を繰り返した)、そもそも人は実利がないと反省すらしないから仕方ないし、表面的な反省であっても、それを積み重ねることでしか前へ進めないと思う人もいると思います。どちらの方がより説得力があるかは私にはわかりませんが、何が真の反省か、そもそも真の反省は可能か、そして反省から私たちは何ができるか、というのは今後の人生においても向き合わなくてはならない問いであると思います。何にせよ、特定の価値観や自分自身よりも大きなもの(例:国家、社会、組織)にコミットして得られた甘美な充足感の記憶と、自身の手によって誤りが犯されたという痛苦な罪悪感の記憶の狭間で、人がどのように自分の過去に向き合って反省できるかについて、繊細な筆致で書かれたカズオ・イシグロの小説は痛々しくも大変美しい物語でした。


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