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この世界に「向き不向き」は存在しない。

此度はそうした持論を展開させていただこうと思う。そしてより正確を期せば「身体能力などの先天的な能力を問わない全ての技術に於いて」向き不向きは存在しないと私は実に思うのだ。
私はデザインを生業にしている為、以下のような台詞をよく耳にする。「私はデザイン的な領域は向いてないので〜」、「クリエイティブなセンスはないので〜」などである。言いたいことはよく分かるし、実際に自分が他の領域で近しいことを口にすることもある。
その他の常套句としては「自分は文系だから理系領域のことは苦手で〜」、「私は左脳脳だから〜」などもあるだろう。然れど思うのだ、それは嘘ではないかと。

無論、左脳がより発達している人も居れば、文系領域でこそ生き生きと活躍する者も実際に多数居る。然し乍ら、だからと言って対極の領域が向いていないと言う証左にはならない。
向き不向きなるものが存在するのだとすれば、先ずレオナルドダヴィンチの存在が説明できない。彼は画家として有名である一方、同時に科学者であり占星術師でもある。音楽も気象学も数学も、そして自動車工学にまでも長けており、ありと凡ゆる領域に於いて素晴らしき業績を残したことは周知である。向き不向き存在説に基けば理系学問と芸術分野の両方での活躍など不可能と言うことになろう。
当然、ダヴィンチは不世出の大天才だからだと言いたいのは分かる。唯、ダヴィンチの五分の一で良いとしたらどうだろう。
ダヴィンチが活躍した領域の五分の一の分野に於いて、五分の一程度の成果を人生を懸けて挙げる。それくらいなら出来るとは思えないだろうか。
どれだけの大天才と言っても同じ様な大きさの脳を持った、同じ様な人間である。努力を重ねれば五分の一くらいには至れるのではなかろうか。
足が遅く、100m走るのに20秒費やす凡人は居ても、五分の一の4秒で駆け抜ける大天才は居ないのだ。ましてや本稿で取り扱っているのは先天的能力を問わない分野に於いての技術についてである。

どんな職業でも構わないが一般的に職能と言うのは「足算」である。周囲にも居るだろう、例えば、営業職として就職したが、意に反して企画課に異動になり企画立案を長らく職とするようになった、今は金銭面に余裕も出たので脱サラしてバーを経営し、常連客に趣味のバンド演奏を披露しながら接客業を営んでいる。などである。
どうだろう、そこら辺のマルチクリエイター顔負けの多才ぶりではないか。
一般的に営業職の人は、自分に制作職は向いていないと思いがちであり、制作職の人は対人折衝は苦手だと思いがちである。事務職の人も、受付の人も、パフォーマーの人も、何かしらの分野は向いていないと思い込んでいる。然し乍ら何人も、「やらなきゃならなくなったら、努力の果てに出来るようになる」ものである。

私はデザイナーであると同時にコピーライターでもある為、例えば他のデザイナーの人から「コピーも書けるなんて凄い、私はデザイナーでコピーは向いていないから出来ない」などと言われることもあるのだが、痛切に思うのは「○○は向いていないから、出来なくても仕方がない自分」と言う壁を、世界でたった一人で必死になって守っているのは、自分だけであると言う事実を知った方が良いと言うことだ。

そのデザイナーがコピーを書けるようになって困る人は居ないし、営業マンが自分で書いた企画書を持ち込みプレゼンして困るクライアントも、事務職の人がコンサルティングを出来るようになっても、理学博士が美しい絵画を描いても誰も困りはしないのだ。
然れど人は「私は○○なタイプだから、○○は向いていないから、」を繰り返し、出来なくても仕方がない自分と言う壁を守り続けている。これは、実に非合理ではないか。

「頭が悪いから難しいことはわからなくて」も「センスがないから」も「そっち方面はからっきしで」も「これしか出来ないから」も全て同じである。
世界には不憫なことに身体に欠損があったり、知能に障害があったり、理不尽な社会環境に苛まれて居て如何あっても出来ない方々が居る。然し我々は殆どの場合、先進国に住む健常者である。五体満足なのだ、言い訳は出来ない。
自分には向いてない、そんな壁、早々に叩き壊してしまえ。以上が私の持論である。

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