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ショートショート「サムシング。」

実に良い人生であった。

私自身は大した甲斐性もなく、特別な技術のようなものを持たず、真面目さくらいが取り柄の凡人としか形容できない男であったが、妻が私の人生を鮮やかに染めてくれた。生きて来て良かったと心から思える。
妻とは若かりし日にビートルズファンの集いで知り合った。私は「アクロスザユニバース」「ストロベリーフィールズフォーエバー」などのジョンの楽曲を好んでいたが、妻はポールの楽曲をより多く愛し「フールオンザヒル」「ドライブマイカー」をよくかけていた。
レコードはジョンの楽曲を中心に構成された「ハードデイズナイト」を私が好んでいたのに対し、妻は「マジカルミステリーツアー」こそが一番の名盤なのだと言い張り続けた。

私たちは子宝には恵まれなかったが、その分二人だけの時間を大いに楽しんだ。慣れない釣りに挑戦してみたり、動物園感覚で競馬場に赴きレース毎に100円だけ馬券を買って当たり外れを楽しんだりもした。また夫婦揃って温泉好きであったため各地の温泉宿を数多く巡った。
妻は天真爛漫と言うか自由奔放な人物で、行動の殆どが読めなかった。機転の利いた聡明な行動を取ったかと思いきや、その直ぐさま愚にもつかない粗相を働いたりもした。
然し妻はいつも笑っていた。表情の乏しい私とは対照的なほどに、些細なことで鈴を転がすように笑い、その笑顔はいつも私の支えとなった。

二人の背景にはいつもビートルズが流れていた。旅先には音楽プレーヤーを携え何処でも周囲の迷惑にならない程度の音量で音楽をかけた。中でも下田の白浜で「サムシング」を聴きながら夕陽の沈む様を二人で眺めた時の情景は、今も色褪せず、鮮明に目に蘇る。

そして妻は死期を迎えた。心臓の病に倒れ入院することになり、医者からは最悪を覚悟するようにと言われた。然し妻は明るかった。
入院中辛そうな素振りは一度も見せず、表情は絶えず和かであった。私は隣に座り妻の手を握り、イヤホンを片耳ずつ分け合い「アビイロード」を聴いた。最後の「ハーマジェスティ」が終わった後に妻が言った。

「こんなこと一度しか言わないからよく聞いてね。私は世界で一番幸せな人間だったと思うの。子どもはできなかったし、人に羨まれるような人生ではなかったかも知れないけれど、貴方に逢えた。一生に一度愛した人と寄り添い続けて生きることが出来た。私を選んでくれてありがとうね。」と言った。
私は泣きも笑いもせずに「それは僕の台詞だ。君は僕の心が読めるのかい?」とだけ返した。妻の言葉は一言一句曇りなく私の本心であった。妻は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
そして「再婚してもいいのよ?」と揶揄うように言った。70を過ぎての結婚など薹が立ち過ぎるにも程があったが「その時は真っ先に君に報告するよ。」と調子を合わせた。

私は心底妻を愛していた。彼女のどこが好きだったのかと聞かれても論理的な答えは持ち合わせておらず、他の人にはない妻の「何か」が好きだったのだと答えるしかない。

「僕のことは心配してくれなくて良い。足腰はまだしっかりしているし、一人でひっそりと生きて、ひっそりと死んでいくよ。君と行った場所を巡るのもいいかも知れない。ジジイが一人で温泉旅行だなんて風情があるじゃないか。僕の望みは一つだけだ。どうか僕が手を握っている間に逝って欲しい、ちゃんと見送るよ。」と私は言った。
風呂と、着替えを取りに行っている間に息を引き取ったのは、実に妻らしい自由な振る舞いだったのかも知れない。妻の行動はいつも読めない。

葬儀を終えた後はビートルズのレコードに針を落とさずに、静寂と共に過ごした。4回目の流行病への予防接種を済ませた週に妻は倒れた。確かに流行病には罹らずに済んだが、代わりに大病を押し付けられたように私には思えた。

然し同時に肩の荷が降りた思いもあった。定年してからの私の人生の最終目標は妻を一人にしないことであったため、それは同時に達成された。

一人になり孤独に打ちひしがれることも、心に大きな穴が空き喪失感に苛まれることも、気力が保てず椅子から立ち上がれなくなることも、棺桶の前で死化粧を目にした際に膝から崩れ落ちることも、いい歳をした老人とは思えない程に人目を憚らず泣き喚くことも、葬儀社の係員に抱き抱えられ布団へ運ばれるようなことも、させることなくその全てを私が請け負った。

そして私は今この文章を書き終えたら、借りた小舟で沖へ出て、海に入り包丁で頸動脈を切ろうとしている。それは出来る限り人様に迷惑をかけずに人生を終える為に、考え抜いた末の計画であった。舟貸し屋には確実に迷惑をかけることになるのだが、有金と短い手紙を舟に括り付けておいた。それで許してもらえると良いのだが。

最後に一曲だけビートルズを聴いてこの曲が終わったら舟に向かう。ジョージの歌声とポールのメロディアスなベースラインによるハーモニーが、私をあの日の白浜へと連れて行ってくれた。
瞳を閉じた先に居る妻は絶えず笑顔で、笑顔以外の表情は終ぞ見せてくれなかった。

空には、強い海風に押されて思惑通りに飛べず、中空を迷子の様にカモメが彷徨っている。曇り空から僅かに陽光が漏れる今日は、死ぬにうってつけの日であるかどうかはわからないが、私は随分と満足した心持ちでいる。

実に良い人生であった。
ありがとう。

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