薔薇のはなし

 へちま池と名付けられた、体育館ほどの広さの貯水池で、彼らは週に1度は釣りをした。校舎の北側の溝を掘ればいつでも捕れるミミズを持っていけば、簡単な仕掛けで、鮒やブルーギルやブラックバスが釣れるのだ。誰かが、ウナギも釣れるはずだといっていたが、彼らは見たことがなかった。
へちま池は、ぐるっと葦に囲まれていて、他の釣り人も踏み分けて行くのだろう、幾筋も池の縁に出る道があった。彼らの背の高さを少しだけ超える程度の葦を数メートルかき分けていけば、釣りの足場となる少し開けた場所に出る。

 今日は中間テストが終わった5月末で、リーダー格である青木がいつもの2人に、釣りに行こうと声をかけた。彼らは、中一に同じクラスになり、不良でもスポーツができるわけでもないが、あまり勉強しなくともそこそこの学力だという共通項があることで友達となった。中二でもたまたまクラスが同じで、異性への興味を表現することが不得手なことも3人そろって同じであったために、急速に仲良くなった。
そんな彼らの話題は、クラスの中心的な人物についてであり、学校では言えないような誹謗中傷や無責任な噂を楽しむ場所として、へちま池への釣りが選ばれることになっていった。

 約束の橋のたもとに集合した3人は、行こうぜと声をかけ、池に沿う道路の端に自転車のスタンドを立てた。それから、ちょうど3人が収まり、釣りの実績もあって、周りからもあまり目立たない足場へ、葦をかき分けていった。
そこに膝立ちになり、仕掛けにミミズをつけてからすぐに釣りをはじめた。少し先に餌を沈め、丸や、トウガラシの形をしたウキが安定すると、青木は通学に使う黒のスポーツバッグの小さなポッケからハイライトマイルドを探しだした。
その箱を軽く振って、吸い口を見せてから、周りに勧めた。すぐに手を出し、慣れた手つきで自分のポッケからジッポーを出して火をつけたのが大川だ。
大川は火が付いたままのライターを青木に差し出して、青木のたばこにも火をつけて、ついでに携帯灰皿も差し出した。大川は気は効くのだが、時に頑固で聡さも度が過ぎて、クラスの不興を買う人物だった。

 学活の時間に「みんなの忘れ物を減らすために、帰りの会でお互いに確認をした結果を互いの親に向けた日誌として書いてはどうか」と提案し、「それはよい案ではあるが、時期尚早ではないか」と、煮え切らない教師に対して「時期尚早の根拠は何か」と噛みつき、クラス委員がとりなしたことがあった。

 青木のたばこを見て、一瞬逡巡の様子を見せたが、首を振って断ったのが橋爪だ。青木、大川よりも頭1つ背が高く、学力もこの3名のなかでは一番高い。けれども、スポーツが不得手で鈍重なところがあって、クラスの中心からはよくバカにされていた。
そのわりには誹謗中傷や悪口となると饒舌となり、誰もが考え付かない、絶妙なあだ名を蔑称としてつけるのも得意であった。しかし、橋爪は、その才能を発揮しているのはもっぱら、青木と大川に、へちま池で釣りをしている時に限られていた。

 その日は、梅雨を予感させる、今にも雨が降り、地面を濡らす臭いがただよってきそうな、釣りをするには絶好の日よりであった。1本目のたばこを吸い終わらないうちに、青木のウキにアタリがあった。

 最初につっつくようなアタリが5回ほどあった後、一瞬ウキの動きが止まった。しかし止まったのはわずかな間で、すぐに丸いウキが水の中に引き込まれた。このタイミングを逃さず、青木はアワセをいれて、しっかりと魚をかけた。
竿が曲がり、ウキが空中で踊り、逃げようとする魚の振動をいなすように冷静な面持ちのまま、青木は魚を水面に浮かせた。
15センチほどのブルーギルであった。青木はくわえたばこのまま、針をはずし、池に戻した。青木はこの中では一番釣りがうまいようである。その後も次々と釣りあげていた。

 彼ら3人は、八王子市立葛山中学、2年A組のクラスメイトである。2年A組の中心的な人物は、佐々木。少し不良っぽく、授業中に先生をちゃかし、みなの笑いを取ったりもする。背が高い上に見た目もよく、さらにサッカーもできるとあって、女子の人気も高い。
しかし、キレると恐ろしいという噂があって、慣れ慣れしくはされない存在でもあった。また、佐々木は親兄弟の話題をしたことがなく、家に行ったという人の話も聞かなかったため、プライベートはまったくの謎とされていた。そんなところも人気が出る要素となっていたのかもしれない。

 数匹釣りあげた青木は竿を置き、今度は石を池に投げ始めた。手首のスナップをきかせて平らな石を投げ、水面をジャンプさせる「水切り」だ。大川や橋爪も一緒になって投げ、ジャンプの回数を競っていたが、次第に飽きた3人は、今度は大きな石を池に放り投げ始めた。
石が大きければ大きいほど、着水の時の音も大きい。グレープフルーツほどの石を、ドボンと投げ入れた時に、池の対岸の葦の向こう側から怒号が響いた。

「何やってんだてめえら!!!」

 どうやら中学生たちの投げた石で、釣りを邪魔された釣り人が激高したらしい。葦をかき分け姿をあらわしたのは、50歳か60歳くらいほどのおじさんだった。

「てめえら、、ばかやろう! とっちめてやる!」と言っておじさんは翻って葦に分け入っていった。焦ったのは彼ら3人である。おじさんが言ったせりふからすると、こちら側にやってきて怒られるかもしれない。青木が素早く竿をまとめて持ち、あとの2人に声をかけて逃げ始めた。
橋爪がぼやく
「あのじじい、きたねぇし、なんなんだよ。ブルーギル食って生活してんじゃねーの?」
「まじかよ」青木と大川が顔を見合わせ笑う。
橋爪の悪口は中学生には面白いらしい。さらに橋爪が上乗せする。
「あいつさ、なんか尾藤イサオに似てねーか?」
「尾藤イサオ?」
「そう、尾藤イサオ。あのきたねぇリーゼントの感じ。そっくりじゃね?」
青木と大川は走りながら同意する。「たしかに」。
「だからあいつはビトーってことで!」
橋爪は叫び、3人は自転車に乗ってへちま池を離れようとした。

 その時、ビトーが姿を現した。
徒歩ではなく、原チャリに乗って来たので、3人にとっては想いのほか早かったらしい。
3人は一気に全速力で自転車を漕ぐ。

「やべぇ!」

 ビトーは赤い原チャリに乗っていた。30メートルくらいは離れていたものの、原チャリであれば程なく追いつく距離である。
葦の生える曲がった道を立ち漕ぎで必死で走る。追いつかれたら何をされるかわからない。
しかし赤い原チャリは、すぐに追いつくというより、じわじわと執拗に距離を詰めてきた。新しいタイプの原チャリではなく、派手にスピードが出るわけではないようだ。3人の5メートルくらい後ろまで追いついたビトーは、そのままの距離を保ちながら、ひたすら怒号を放ち続けた。

「てめえら、ぶっころしてやる! おい!とまれ!」

 もちろん3人は止まらず、漕ぎ続ける他はない。漕いで漕いでさんざん漕ぎ続けて300メートルくらいは走っただろうか。ビトーは追うことをやめ、スピードダウンし、停車した。

 それを見た3人は少し余裕が出たのか、「ビトー!かかってこいよ!」と情けない遠吠えをし、そのまま走って行った。

 翌朝、3人はいつも通り登校し、昨日の出来事について話している。
「ビトー、あいつマジできしょいよな。もしあいつに捕まったら、犯されるんじゃねーの?」と橋爪。
「そういえば、ビトーの原チャ、ダサかったよな。見た?あれ薔薇だぜ」青木が言うと、「やっぱり犯されるじゃーん。薔薇のビトーに」と橋爪が笑いをとる。
大川は冷静な様子で「ビトーがもしホームレスだとすると、原チャは盗んだものかもしれねーな。今度見かけたら、警察に行ったほうがよくねーか?」と続けた。
「まじめか」と茶化す橋爪に大川は「だって、もう薔薇で追いかけられたくねーじゃん。歩きなら、俺らのチャリで余裕だろ?」と話を落ち着かせた。

 このやりとりを聞いていたクラスの周りの連中も面白がり、いつの間にか「薔薇のビトー」は、怖いホームレスとして、語られるようになっていった。中学生の噂は無責任なもので、生でブルーギルを食らい、そのために寄生虫にたくさんたかられているとか、少年を追い掛け回して痴漢するとか、リーゼントは元ヤンキーの証で、シンナーやガスパン遊びで頭がおかしくなったまま年老いたとか、勝手なストーリーをみなが作って笑っていた。

 3人が追いかけ回されてから2週間ほどたったある日のことだった。青木は家の用事のために自転車で走っていた時、ある民家のカーポートに、赤い薔薇が止まっているのを見かけた。

 あれは、あの薔薇に違いない。

 色褪せたような赤色、ビトーの薔薇だ。そう主張する青木に、大川や橋爪だけでなくクラスの連中も色めき立った。いよいよビトーの正体がつかめるかもしれない。寄生虫にたかられているのか? 痴漢をするのか? 元ヤンキーで頭がおかしいのか?だが、本当にビトーの薔薇かについて誰もが決定打を出せないでいた。

「とりあえず。確かめに行けば、お前らも俺を信用できるだろ」と青木が言い、追い掛け回された当事者である、大川、橋爪らとともに、その日のうちに見に行くことになった。

 3人は自転車で、葛山中の西側にある坂をくだり、5分ほど行ったところ。ぎりぎり校区内ではあるが、造成を予定されている山林のそばに数件固まって建っている、古い住宅に向かった。6時を過ぎているが、まだ夕暮れの途中で、3人とも自転車の電灯はつけていなかった。

 青木は、少し離れたところに自転車を停め、ある住宅を指さした。大川と橋爪はゆっくり静かに近づくと、カーポートの門扉のそばまで寄り、じっくりと原チャリを見てから、急いで自転車を漕ぎながら戻ってきた。青木もUターンをして、その場から離れていく。
少し離れたところで、3人は確信に満ちた表情でうなづきあった。

ーー間違いない。

 さらに新たな事実として、その家は「佐々木」であることも分かった。

 翌日の休み時間、3人の周りには、珍しくクラスの連中が集まった。紛れもないビトーの薔薇であること。そしてビトーの姓は佐々木であることが語られ、がやがやと適当で無責任な憶測が飛び交い、その都度、笑いとなり揮発していった。そして、そのまま次の授業が始まれば大抵は忘れられてしまうような、他愛もない話であるはずだった。橋爪があることに気づくまでは。

「もしかして、佐々木って、うちのクラスの佐々木んちか? あいつもヤンキーだからな、あるかもしれなくね?」と橋爪が言い出した。

 たまたまその場にいなかった佐々木のことだったため、周囲はひそひそ声となるも、新たな仮説が生まれた瞬間に、すこし熱を帯びた様子となる。
「俺、佐々木がやばい家の出だって聞いたことがある」と誰かが言えば、親に佐々木と遊ぶなとされたという話も周囲に複数の同意をもって迎えられた。
「佐々木、ぜったい家のことしゃべらないからな。ビトーみたいなのが自分の親で恥ずかしくて言えねーんだよ」大川の一言には説得力があった。

「まじか」「まじかよ」との驚きがひき波のようにすうっと引いて、「あいつやべーな!」「ビトーの子どもかよ!」「きしょくね?」という、根拠がないが強い力を持つ感想の波が、周囲をあっという間に支配してしまった。

 その日から、突然に佐々木のことをクラスの連中が避け始めることになった。
何人かの佐々木と親しい友達は、真偽のほどを問い合わせたが、決して住んでいる場所や、親の話はせず、あまりしつこいと、殴りかかるふりさえして威嚇をした。肯定も否定もしない佐々木の様子に、ますます周囲は確定事項として面白がった。
佐々木にも寄生虫がいる。父親であるビトーに犯されているなど、心なく残酷な嘘の話ばかりが広がっていった。

 それまで、クラスの中心人物で人気者であった佐々木の没落は早かった。
3日もすると、周囲からは無視され、残酷な噂にさらされ、ビトーの息子と呼ばれはじめる。一週間たった日には、とうとう連中のひそひそ話にブチ切れ、机を投げ学校を飛び出ていってしまった。そして、それきり登校することはなかった。
あまりにも脆かった佐々木に、みんなが鼻しらんでしまい、ビトー、ビトーの息子の噂は急速にしぼんでしまった。

 その週の土曜日に事件は起こった。

 時間は午後9時過ぎ。消防自動車が何台もサイレンをけたたましく鳴らしながら、葛山中のほうへ向かっていった。救急車も駆けつけているようだ。青木は部屋で読んでいた本を置き、ちょっと見てくると家族にいって、自転車に乗った。
葛山中から、西側の坂を下る。これは、ビトーの家の方角である。いやな感じを、うずうずと下腹部に感じながら消防車の光を目掛けて行くと、そこはやはりビトーの家であった。

 まだ規制線が近くにしか張られておらず、駆け付けた青木やほかの野次馬たちからも、カーポートにおかれた、原チャリが燃えている様がよく見えた。
原チャリ、つまりビトーの薔薇からは火柱が高くあがり、カーポートの樹脂製の屋根が溶け落ちていた。その火は鮮やかすぎるほどの赤色で、周囲の家の壁をまるで真夏の夕焼けの太陽のようにメラメラと照らしていた。
 溶けた屋根の樹脂が引火した状態で雫となって落ちる際に、ヒューヒューと音が鳴っているのが聞こえた。青木は目を見開き、その場から動けない様子で立ち尽くしていた。
やがて規制線が整理され、青木も遠くに押しのけられた。火柱は、消防車からの噴水のような水が始まってから、すぐに多量な煙となったが、やはり青木はその場から動けずにいた。

 ビトーの薔薇は燃えてしまった。

 翌日、校区内で起こった火事の噂話で、クラスの連中は盛り上がっていた。
しかし青木、大川、橋爪の3人はその輪には入らなかった。
「俺たちのせいで、ビトーの原チャリは放火されたんじゃねーのか」青木は、落ち込み気味に言うと、大川は言い返した。
「なんで、そう言い切れる?たまたまビトーってあだ名をつけて喜んでただけだろ?誰かが火をつけたかもしれないが、それは俺たちのせいじゃない。火をつけたやつの罪でしかないから。気にすんな」

 ーー誰かが、火をつけた。火をつけたやつの罪だ。

 橋爪は「もうビトーが原チャリで追いかけてくることもねーだろ? それだけで、儲けもんだろう」と気にしていない風であった。

 数日後、青木の家に警察がやってきた。
佐々木のことで、話を聞かせてほしいとのことだった。先週の土曜日、佐々木と会ったか?と聞かれたときに、青木はオウム返しに尋ねた。
「それって、佐々木君が原チャリを燃やしたってことですか?」
「その捜査中なんだよね。でも、おじさんたちは、まだ何にも言えない。佐々木君についての情報を集めているだけだよ。犯人が誰だなんて、まだ何もわからないんだ」警察はそう言うと、佐々木の様子は最近どうだったか?佐々木はタバコを吸っていたか?ジッポーを持っていたか?などと質問を続けた。青木はすべて曖昧に答えた。

 大川、橋爪の家にも警察は来たとのことだった。
大川は「確実に疑われているよな。ジッポーで火をつけたってことなのかな」とつぶやき、青木はため息をつく。
「俺らが疑われてるわけじゃねーよ。かんけいねーって。それより今日ひさびさに釣りでも行こうぜ」橋爪が声をかけた。

 いつものように約束の橋のたもとに集合した3人は、へちま池に向かい、池沿いの道路に自転車のスタンドを立てたところだった。

「てめえら!やっと見つけたぞこら!!」

 突然、汚いリーゼントのビトーが、赤い原チャリに乗って表れた。

 間違いない。
つい数週間前に追いかけられた、ビトーと、ビトーの赤い薔薇であった。


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