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アーカイブ資料の公開

[本稿は、令和2年8月、都庁内に配信したブログ内容です]

 建設局では、局内で個別に保管、保存してあった貴重な設計原図などの土木史料や、昭和初め頃を中心とした道路、橋梁、公園、河川の設計図面等を、アーカイブ資料として一元的に収集、保管しています(図-1)。古いものとしては、「東京市道路誌」(昭和14年)や「本邦道路橋集覧」(昭和3年)があり、当時の道路事業や土木技術の状況を詳細に把握することができます(「アーカイブ資料の例」参照)。
 これらのアーカイブ資料については、局ホームページの「歴史資料館」でも約60点の写真を一般に公開しています(写真-1)。また、設計原図などの史料や、解説を付した写真パネルを「橋と土木展」や「くらしと測量・地図展」等で展示するなど、土木技術や土木構造等に親しんでもらう取組みを行っています。

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 本稿では膨大なアーカイブ資料の中から、大正時代に架けられた橋梁のうち、19世紀後半のヨーロッパの建築様式を取り入れた「四谷見附橋」と、江戸時代の庶民風俗を取り入れた「親父橋」という、対照的なデザインを持つ2つの橋梁をピックアップし、ご紹介します。

■ 四谷見附橋 ~ネオ・バロック様式の橋梁デザイン~
 現在四ツ谷駅前にある四谷見附橋が架かるところは、江戸時代は江戸城の外濠であり、近くには江戸城内と城外とを隔てる「四谷(見附)門」がありました。
 「見附(みつけ)」とは、戦時は見張りと防衛の要となり、平時は城下に出入りする人や物資、いわゆる「入鉄砲出女(いりでっぽうでおんな)」を見張る場所を言います。四谷見附の北には市ヶ谷見附、南には喰違(くいちがい)見附があり、江戸城防衛の要衝でした(図-2)。

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 明治時代に入ると、四谷見附の南にある赤坂離宮(現在の迎賓館)が、宮殿建築としては現在も国内唯一のネオ・バロック様式(※1)で建築されました(明治42年完成)。一方で、外濠を埋め立てて開業した甲武鉄道(現JR中央線)を跨ぐ、四谷見附橋を新たに架橋する際、赤坂離宮に至る道路としてネオ・バロック様式の高欄(こうらん)、橋灯(きょうとう)などで装飾されることになりました(図-3)。四谷見附橋は橋長37.2m、幅員22mの鋼アーチ橋として、大正2年(1913)9月に竣功しました。
 四谷見附橋の構造設計は樺島正義(かばしままさよし)らが、高欄と橋灯の装飾設計は田島穧造(たしませいぞう)が手がけました。両氏とも東京市に勤め、他に新大橋、鍛冶橋等の設計に携わっています。なお、樺島は東京市を退職した後は、日本最初期の橋梁コンサルタントの一つである樺島事務所を開設し、橋梁技術の向上に貢献しました。
(※1)ネオ・バロック様式…バロック様式の復興と位置付けられる建築様式で、帝国的ナショナリズムの象徴として19世紀後半の欧州を中心に流行した。 

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 四谷見附橋は平成3年(1991)10月に架替えられましたが、その際、長年にわたって地域のシンボルとして親しまれてきた名橋として惜しむ声が高まり、高欄や橋灯は新しい橋に極力再利用して、旧橋のイメージを保全することになりました(写真-2)。

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 また、旧橋のアーチ等上部構造は多摩ニュータウンの八王子市別所長池地区に移設され、ネオ・バロック様式の意匠も再現された上で、長池見附橋として平成5年(1993)11月に完成しています(写真-3)。

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■ 親父橋(親仁橋、親慈橋)~花魁の簪を模した橋灯~
 日本橋川の支流、東堀留川に架かっていた「親父橋(おやじばし)」(図-4)が、史実上最初に架けられたのは元和3年(1617)のことです。
 橋名の「親父」とは、「おやぢ」と親しみを込め呼ばれていた遊郭の惣名主(そうなぬし)、庄司甚右衛門が、元吉原への通路として幕府に願い出て架橋したことが由来のようです。(江戸の考証家、斎藤月岑(げっしん)が著した『武江年表』による。)

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 なお、「親父橋」は文献によっては、「親仁橋」「親慈橋」と標記されているものもあります。
 親父橋は大正14年(1925)に橋長32.2m、幅員22mのプレートガーダー橋(※2)に架替えられましたが、その際江戸時代における架橋の経緯から、橋灯花魁の簪(かんざし)をモチーフにデザインされました(図-5)。関東大震災の復興事業として、設計は内務省復興局の成瀬勝武、正子重三(まさごじゅうぞう)が手がけています。
 残念ながら、昭和24年(1949)の東堀留川埋め立てに伴い、本橋は撤去され現存しません。
(※2)プレートガーダー橋…「I」形に組み上げた鋼材を桁として渡した、単純な形式の鉄橋の種類で、現在でも多く用いられている。

 同じく東堀留川にあった小網橋(図-4)は、昭和2年(1927)に架け替えられる以前は「思案橋」という名称でした。こちらも親父橋同様、甚右衛門の尽力により架けられたと伝えられ、橋名は「遊郭に行こうか見世物小屋に行こうか」思案したことから名付けられたと言われています。
本稿のテーマから外れてしまいますが、江戸時代の橋名は市井の人々の洒落っ気から名付けられたものが多くあり、全く興味が尽きません。

~ アーカイブ資料の例 ~

1.「東京市道路誌」(東京市役所、昭和14年3月)
 東京市の道路の成立経緯や市の道路整備・改良事業、維持修繕、当時の道路法規に至るまで詳細に記述した図書。下記引用は植樹帯の項で、右ページには四谷駅前広場の、左ページには日本橋際の植樹帯施設の状況が示されている。

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2.「本邦道路橋集覧」(内務省土木試験所、昭和3年3月)
 橋梁整備にあたって構造形式の検討や概算工費の把握に資することを目的に、全国190橋の写真や一般図、諸元を収集整理した図書。下記引用の左ページ下の写真と右ページの記述は相生大橋(現在の相生橋)のもので、他の橋梁も同様に取り纏められている。

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