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1930年代(27)

日本浪曼派(その2)
昭和の精神史の根本様式

かなり間が空いてしまった。前章では筆者の拙い日本浪曼派体験を書いた。その精神史的類型としては、戦後民主主義の危機的情況に連動した革命運動の高揚と挫折があり、それらの体験的帰結として、日本浪曼派再考という受け皿が用意されていたように思う。ところで、日本浪曼派と総力戦の論理にはどのような関係があったのか、日本浪曼派がわが邦を破局へと進めた思想的根源なのかどうかーー探る必要がある。

昭和の精神史を決定した基本的体験の型
 橋川文三は『日本浪曼派批判序説』(以下「前掲書」①)において次のように書いている。

昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本ロマン派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在(筆者註;1960年当時)の五十代、四十代、三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ないし対偶の関係がある。この三者は、精神的類型の立場からみれば、等価である。
第二に、こうしたいわば原体験としての日本ロマン派は敗戦の衝撃によって亡びたとされているが、それは事実としても正しくないばかりでなく、この種のロマン主義、この種の民族主義を醗酵させた母体としての心性は、とくに三十代以下の世代に、広汎に認められる。
第三に、戦後におけるウルトラ・ナショナリズムの思想史・精神史的究明は、主として「軍国支配者の精神形態」というテーマに集中され、もしくは「青年将校」の心理と行動様式の分析に集中された。(講談社文芸文庫P15~16)》

 橋川はそう述べた後、戦後におけるウルトラ・ナショナリズムの思想史・精神史の究明として丸山真男の「超国家主義の論理と心理」を挙げ、同論文が《最初の透徹した照明》《精密な論理的見透しを与えたもの》と絶賛しながらも、《日本ロマン派に関する限り、私などの実際の経験からいっても、これをファシスト・イデオローグとするには、なお幾つかの中間項の挿入と基準概念の修正を必要とする》として、丸山の究明に留保をつけている。
 橋川によると、保田輿重郎が軍隊に入ったところ、《その高名な国粋主義への貢献と皇軍賛美の努力にもかかわらず、ひどく不器用にいためつけられたというエピソードを思い浮かべる》といい、彼らは単純な志士型のエトスの持ち主と見ることは大いに不十分であり、「官僚型」の人間でもないとし、《概して日本ロマン派のなかの「純粋」な連中には権力衝動が欠け、合理的・市民的行動様式にも不適格であった》と書いている。

近代の超克
 日本浪曼派とファシスト・イデオロギーの混同の主因は、シンポジウム「近代の超克」が与えた強烈な印象からだと思われる。1930年代が終わった直後の1942年9月と10月の『文学界』に、シンポジウム「近代の超克」が連載された。「近代の超克」は、竹内好によれば〔注1〕、「総力戦の論理」をつくりだすため当時の日本を代表する、①「文学界」グループ、②京都学派、③日本ロマン派ーー3つの要素を組み合わせたものだと説明される。

〔注1〕;『フランスの誘惑』渡邊一民〔著〕。以下「前掲書②」

 このシンポジウムの参加者は以下のとおり。役職名は当時。論文タイトルは1943年創元社版に収録されたものを記した。

・西谷啓治;京都学派の哲学者。京都帝国大学助教授。論文『「近代の超克」私論』を執筆。
・諸井三郎;音楽評論家。東洋音楽学校・東京高等音楽院講師。論文『吾々の立場から』を執筆。
・鈴木成高;京都学派の西洋史家。京都帝大助教授。
・菊池正士;物理学者。大阪帝国大学教授。論文『科学の超克について』を執筆。
・下村寅太郎;京都学派の科学史家。東京文理科大学教授。論文『近代の超克の方向』を執筆。
・吉満義彦;哲学者・カトリック神学者。東京帝国大学講師。論文『近代超克の神学的根拠』を執筆。
・小林秀雄:文学界同人の文芸評論家。明治大学教授。
・亀井勝一郎;かつ日本浪曼派に参加し、文学界同人の文芸評論家。論文『現代精神に関する覚書』を執筆。
・林房雄;文学界同人の文芸評論家。論文『勤王の心』を執筆。
・三好達治;文学界同人の詩人。明大講師。論文『略記』を執筆。
・津村秀夫;映画評論家。朝日新聞記者。文部省専門委員。論文『何を破るべきか』を執筆。
・中村光夫;文学界同人の文芸評論家。論文『「近代」への疑惑」』を執筆。
・河上徹太郎;文学界同人の文芸評論家。論文『「近代の超克」結語』を執筆。(Wikipediaより)

 日本浪曼派に属していたのは亀井勝一郎ただ一人だったのだが、前出の竹内の指摘のとおり、日本浪曼派と「総力戦の論理」は切り離せない関係だと思われてきた。その理由としては、渡邊一民が挙げた(前掲書②)、亀井と林の以下の言説のためだと思われる。

[亀井勝一郎]
我々が「近代」という西洋の末期文化をうけた日から、徐々に精神の深部を犯してきた文明の生態――あらゆる空想と饒舌を生みながら速やかに流転していくこのものが、私には最大の敵であると思われる。〔・・・〕この魔力に比すれば、今日謂う英米の敵性思想などとるに足らぬものなのだ。〔・・・〕現在我々の戦いつつある戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいへば近代文明のもたらしたかゝる精神の疫病の根本治療である。(現代精神に関する覚書)

大正から昭和に教育を受け、いろいろな思想上の問題などを経験して来て、さて現在になってふりかへってみたとき、どこに根本の弱点があったかというふと、一口でいへばそれが無信仰の時代だったといふことです。神々から追放された人間の悲惨――さういふ言葉で言いあらはしてもよいと思ふのです。(シンポジウム発言)

[林房雄]
文明開化といふものは、明治維新後に於けるヨーロッパ文化の採用と、その結果としてのヨーロッパへの屈服であると思ひます」(同発言)
文明開化とともに、日本人は伝統と血統の尊さを忘れた・・・神の否定、人間獣化、合理主義、主我主義、個人主義の行きつく道は、当然『神国日本』の否定である。
(そうしたものをもたらしたのが)明治中期以降の文学であり、(日本の現代文学者が)青年をあやまり、国をあやまった。(そして現下の緊急時として)我が罪業の深さを知り、個と私の一切を捨てて日本の神の前にひざまずいた境地に生まれた勤皇、その心のみが、まことの愛国者、まことの憂国家をつくる。(リポート「勤皇の心」)

 なお、「近代の超克」が開催された1942年7月23・24日の1カ月前、日本海軍はミッドウェー沖海戦で初めて敗北を喫して南太平洋侵攻作戦を放棄、シンポジウムの二週間のち米軍によるガダルカナル島上陸作戦が始まった(前掲書②)。
 すなわち、亀井、林の勇ましい発言とは裏腹に、彼らが信仰して止まない神や勤皇の精神で武装された不敗のはずの日本帝国軍隊は一敗地にまみれていたのである。《日本の西洋にたいする優位という絶対的確信のもとに開催されたこのシンポジウムは、第二次大戦における勝者と敗者の入れかわる、まさにその分岐点に時間的には位置していたのである(前掲書②)》
 「近代の超克」に代表される総力戦の論理と日本浪曼派を混同しないという前提で以降、その論を進めていく所存である。(続く)

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