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1930年代(28)

日本浪曼派(その3)
〈イロニイ〉

保田輿重郎の著作『近代の終焉』のなかに「天平の精神」という小論が収録されている。この小論は、1940年(昭15)11月5日から24日かけて、東京帝室博物館にて開催された、正倉院御物の展示会について言及したものだ。同展示会は、神武天皇即位から2600年を祝した紀元二千六百年記念行事だった。

古代王朝文化への哀惜の情

(正倉院の三倉の収納御物は)いずれも天平文化の絢爛とした奈良の朝廷の盛時の遺品である。その御物の全貌は大倭朝廷時代をへて、咲く花の匂はが如くと歌はれた奈良の都の盛時の風を今によく再現し、単に歴史の徴証たるばかりでなく、又貴重な美術の規矩の至るものと云はれてゐる。(新学社・保田輿重郎文庫P61/原文の漢字は旧字体表記を新字体に変換して表記した。以下、前掲書①という)

保田輿重郎は、華麗な天平文化を絶賛する。しかし――

天平時代は一種強烈な動きの多い時代であった。それは一つの平面的な絢爛ではない。さまざまなものの動きの上にものを集めて開花した大文明であった。我国の原始よりの思想は、神ながらのみちと云ひ、神祇のものとして述べるのだが、我らがそれを文芸の上にあらはれた形で考へるなら、日本武尊より応神天皇頃にかけて一度変はり、その日の悲歌は日本武尊の詩歌及び御遠征によって示されてゐる。しかるに上宮太子推古天皇の朝に政を攝せられ、文運は躍進したのである。太子二十四歳の御年少にて仏陀の教の眼目の経典を講じられたことは、一国の若き太子説法として、仏教宣教の時代に於いても類比稀有な事件ゆゑに、国内の群王諸臣随喜に増して、当時全アジアの散布してゐた仏教僧徒が如何にこれを宣伝したかは、宣教の目的以上に純粋の感激の作用と思はれる。太子はこの名声の高きを以て我国威をさへ重く海外の大国に示されたものであった。(略)
しかし太子ののち、天智天皇、天武天皇の時代はなほ外からきた文化と、固有の文明の間に、かなりのさしひゞきがあった。(略)
聖武天皇が至尊御剃髪の先例を作られたことは、天平の文化を決定したものと云へる一つのことがらであった。しかもこの風は平安京の、嵯峨天皇、淳和天皇に於いて高調に達し、淳和天皇の御大葬の御儀の如く、畏くゆゝしい御事のさまを国史に記録してゐるのである。しかし同じ時代に殆ど古風の精神はなかったか、伴信友翁の如き先人は、平城天皇の御事跡と時代を考証し、その仏教隆盛時代に於けるわが国の大本のみちを明らかにしてゐるのである。(前掲書①P64~65)

《天智天皇、天武天皇の時代はなほ外からきた文化と、固有の文明の間に、かなりのさしひゞきがあった》という文節中の「さしひびき」という問題意識が重要である。保田は、日本がインド起源で中国及び朝鮮を経由して渡来した外来思想である仏教を受容して開花した天平文化の偉大さを賛美する一方、なお屈折して、実はその底では日本古来の「大本のみち」が流れていると強弁する。そして、《遠い文明の御世より伝へられたこの御物のありがたさは、その伝わり方にあった。それらは芸術的にすぐれてゐるといふよりも、むしろその方に於いてはるかな意義をもつものではなかろうか・・・(P62)》とかわす。
 保田にとっての日本文化は、王朝(天皇)の一貫性の下で培われた不変であるカミと同一でなければならない。しかしながら、紀元二千六百年記念行事が外来の仏の影響と様式に則った荘厳な品々の公開であった。このことを受けいれることはかなり難しかったのではなかろうか。

今眼のあたりにこの御物を拝して、個々の御品々における美術的優秀さに加えて、おしなべての調度にまで及ぶ全体としてのこれらの作品を作り、あるひは選定した生活の美学の高度に、私は感嘆を禁じ難く、むしろさういうセンスを比較し語る上では、今日に対する絶望感さへ味つたのである。日本の美観を伝統してきたイデーを考へ、今日に於いてそれらに対するある種の宿命的悲劇を味ひつゝ、しかも転じて明日の日本の新しい文化を理論として構想するときは、その同じ気持から直ちになほ欣しい希望も起りうる。私はつねに古王朝に接するときに、ある絶望と悲観を、いり混つたやうな旋回をするやうな気持で味ふことを禁じ得なかった。(前掲書①P63)

 この記述を筆者なりに解釈すると――日本が外来の思想の影響を受けることは残念ながらあった、そしていま現在も、明治維新の文明開化から始まってそのような状況にある。しかし、日本人はそうした状況にあっても日本の伝統を守りとおしてきたのである。(自分は)そのような葛藤を続けてきた日本の王朝に宿命的悲劇を感じてしまう。王朝の文化(歴史)に接するとき、絶望と悲観の入り混じった旋回のような気持ちを感じざるを得ない――
 天平時代の王朝が統治のイデオロギーとして、あるいは国家鎮護のテクノロジーとして、日本古来のカミから外来の仏へと軸足を移したことは明らかである。保田にはそれでも、古代のカミに依拠して文化活動を続けた宮廷人や知識人がいたことを確認し、それゆえにその風が今日まで伝承されたことのほうを寿ぐのである。
 日本文化が異文化との交流により変位しつつ、独自の成熟を経て、2600年はともかくとして、現代に至ったことを保田がしらないわけがない。保田輿重郎の文化観は一見、狭隘で独善的ではあるのだけれど、保田にとって重要なのはそこではない。保田は日本の王朝の葛藤をあわれとして受け止め、絶望し悲嘆してみせるのである。《私はつねに古王朝に接するときに、ある絶望と悲観を、いり混つたやうな旋回をするやうな気持で味ふことを禁じ得なかった》とはずいぶんと、ある意味では不遜ともいえる述懐ではないだろうか。

直感的共感――若者の日本浪曼派体験
 日本浪曼派が浪曼派としての自覚を明確にもって出発したのは1931年(昭6)の満州事変だったといわれる。翌年、保田輿重郎を中心に同人雑誌『コギト』が発行される。この雑誌は芸術雑誌であって、極右的、国粋的要素はなかったのだが、当時の若きインテリゲンチャたちは、前出のとおり晦渋で韜晦的な保田のわかりにくい文体に惹かれていく。そのあたりの体験を橋川文三は次のように述べている。

(どうして保田が読まれたのかというと)それは第一には、その文章は論理的にはよくつかめないけれども、とにかく保田はわれわれのいいたいことをいっているという直感がまず働くわけです。われわれがいいたいこととは何なのかというと、われわれを取り巻いている現状の中で大きな顔をしている現在の制度、それは「近代」という名前で総括されるものですけれど、われわれを取り巻いている「近代」というシステムのもつ欺瞞性なり矮小性というものを保田はいろんな言葉でいっているんだな、という直感なんです。(中略)たとえば政治権力というものの浸透、その支配の網の目のような組織がわれわれ自身をつかんでいる。そして、それが全体として、戦争という方向にわれわれ自身を引っぱっていこうとしている。そういうイメージがみえるわけなんです。みえるけれども、われわれはそれをどうすることもできないわけです。(略)われわれはそこで無力感を感じざるをえないわけです。しかし、このシステムというのはおかしいという直感だけは消えないわけです。保田のあの呪文みたいな、また詩のような文章からわれわれが読みとったものは、すべてわれわれを取り巻いていてしかもそれがわれわれの生命を要求する戦争という体制全体、そしてそれを支えている官僚制とか、あるいは近代的な文化のシステム、そういったすべてがいかがわしいんだ、ということを謎めいた、あるいは呪文めいた言葉で繰返し繰返し説いているということです。そこにわれわれをひきつけるものがあったわけです。(「講演・日本浪曼派と現代(橋川文三)」『転位と終末』収録P95、以下前掲書②という)

 自身を取り巻く情況が思いもよらない方向に転位しているとき、それを合理的に説明する言説をいくら聞かされようとも、腑に落ちることはない。なぜならば、幾多の説明には情況を変える力がないからである。そのようなとき、よくわからないが安心を与えるもの、超越的なものに心を惹かれる。
 日本浪曼派の誕生から60年余のちの世紀末、ヨーガのような瞑想と超能力獲得を売り物にした新興宗教が若者の心をとらえ、この宗教結社が体制転覆を目指したサリン・テロを敢行したことは記憶に新しい。その教祖の言葉や経典は宗教と呼ぶほどの哲理をもたないものだったが、サンスクリット語、自然食品、脳波に電波を送信して安らぎを得るとされるデバイスを提供して、若者の心をとらえた。このようなエネルギーを無視することは難しい。そのときの日本はバブル経済が崩壊し、金満下の熱狂が去ったあと、数えきれないほどのモラルハザードが各所で発覚していた。純粋な若者ほど、なにかに救いを求めざるをえなっかた時代だった。

方法としての〈イロニイ〉
 橋川文三は前掲の講演の中で、知識人の武器としての知識の権威がまったく曖昧なものとしかみえなくなった時代に、浪曼派が提示したのが—―マルクス主義や弁証法ではなく――〈イロニイ〉という方法だったという。橋川は、ある程度マルクス主義の知的教養をもっていた人間なら、〈イロニイ〉を受けつけることはなかったとしながらも、当時の橋川のような世代においては、それに共感を感ずるような立場にあった、と当時を振り返っている。
 橋川は〈イロニイ〉を次のように定義する。

〈イロニイ〉というのは・・・無力なる者が自己を知的に強力なる者であると主張しようとするときに用いられる一種の弁証法なんです。・・・要するに「弱虫の強がり」なんです。つまり、本来何事もなす力をもたない、何かちゃんとしたことがらを遂行する能力をもたない人間が、一種の知的な自慰のためにつくりだした虚構の弁証法といっていいわけです。この方法によりますと、どんな不美人でも「自分は美人である」と主張することができます。どんな頭の悪い人間でも「俺は知的な天才である」と思いこむことができるわけです。また、もっと極端に〈イロニイ〉の方法を展開できるわけです。たとえば、自分が女であっても、男と思いこむこともできるわけです。
そういうように、非常に奇妙奇天烈な一種の退廃的弁証法が〈イロニイ〉であるわけです。ただそういう側面が当時戦争が迫ろうとする混沌とした大情況の中で、自分の知的な無能感を感じざるをえなかった私(橋川文三)達少年にとっては魅力があったわけです。・・・要するにそれは精神の一種の病気から生まれる知的な自己欺瞞、つまり非常に病的ですけど、知的には相当洗練された自己認識の方法が〈イロニイ〉であったわけです。(前掲書②P108)

 このような橋川の〈イロニイ〉に係る定義は、かなり思い切ったものである。ちなみに、橋川の著である『日本浪曼派批判序説』(以下、前掲書③という)においては、かなり厳格な定義づけを行っているので紹介しておこう。
 橋川は、日本浪曼派が誕生する20年以上も前に、それを醸成するに足る日本の社会的・思想的諸情況を的確に言い当てていた石川啄木に注目する。そして、石川啄木の「硝子窓」(初出:「新小説」1910・明43年6月)の次の言説を引用する。
 《「何か面白い事は無いかねえ」という言葉は不吉な言葉だ。此二三年來、文學の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何囘この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顏さへ見れば、さう言はずにゐられない樣な氣がする事もあつた。・・・「何か面白い事は無いか!それは凡ての人間の心に流れている深い浪曼主義の嘆息だ。」》

私(=橋川文三)はこのような心情をその後五十年にわたる形成過程を含めて、総体としての我国中間層の基本的意識構造であると考えるか、そのような意識の大正期を通じての幻想的な解放と内攻、そして大正末=昭和初年のプロレタリア・共産主義運動というもう一つのトータルな試みとその挫折ののちに、啄木の場合と同じ心理的実質に支えられながら、それと著しく異なった文明批評形式としての日本ロマン派が生まれたものと考える。そのさい、もっとも根本的な(殆ど認識論ないしメタフィジックの次元における倒錯)差別となったものは、啄木の文明批判が「時代閉塞の現状」のもとに、「強権〔=国家〕」、純粋自然主義〔=中間層的意識〕の最後及び明日の考察〔=抵抗〕というまさに現代的な構想をふくんだのにたいし、日本ロマン派の文明批判は、あたかも我国の「強権」が、まさにファシズムとして自己を悪無限的に再編成せねばならなかったことに対応するように、「無限の自己否定」の志向としてのみ(即ちイロニイとしてのみ)自己を主張するという悲劇に終わったことである。(中略)
・・・啄木が感じた時代の「性急な思想」の中には、いうまでもなく国民的規模におけるある無力感が現れていたが、ただそれは純粋なイロニイとして現れるまでにいたらなかったのに対し、日本ロマン派の場合には、時代の挫折感は中間層の規模の拡大に対応して拡大され、したがって、その無力感はより過激とならざるをえなかったということである。いわばその表白は、「自己自身の無力の深刻に正当な荘厳な告白」「自己自身に対する嘲笑」(ハルトマン)というイロニイのレベルにまで激化したということである。・・・(日本浪漫派は)我国における強権の発展過程と、それにたいする反体制的底流の相互関係の中に位置づけてしかるべき・・・と考えられるのである。
イロニイについては「イロニイとはわれわれの政治的不自由の表現である」(「ドイツ・ロマン派」)というハイネの端的な規定があるが、何よりもその心情の古典的な批判はヘーゲルのそれであろう。
「・・・現実の絶対者への渇望を抱きながらも、しかも非現実的であり空虚である—―よし内面的な純粋性は保たれているにせよ――というこの状態のなかから、病的な憧憬と美的狂熱が生まれてくる。」(『美学講義』)
(略)このような古典的ロマンティック批判の方法が、初めてそのまま適用されるまでに成熟した我国のロマン主義が、実は昭和十年代のそれであったと私は考えるのである。(前掲書③P59~62)

 日本の古代王朝に対する"病的な憧憬と美的熱狂″こそ、保田輿重郎、すなわち日本浪曼派そのものではないだろうか。(続く)

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