日本浪曼派(その3)
〈イロニイ〉
保田輿重郎の著作『近代の終焉』のなかに「天平の精神」という小論が収録されている。この小論は、1940年(昭15)11月5日から24日かけて、東京帝室博物館にて開催された、正倉院御物の展示会について言及したものだ。同展示会は、神武天皇即位から2600年を祝した紀元二千六百年記念行事だった。
古代王朝文化への哀惜の情
保田輿重郎は、華麗な天平文化を絶賛する。しかし――
《天智天皇、天武天皇の時代はなほ外からきた文化と、固有の文明の間に、かなりのさしひゞきがあった》という文節中の「さしひびき」という問題意識が重要である。保田は、日本がインド起源で中国及び朝鮮を経由して渡来した外来思想である仏教を受容して開花した天平文化の偉大さを賛美する一方、なお屈折して、実はその底では日本古来の「大本のみち」が流れていると強弁する。そして、《遠い文明の御世より伝へられたこの御物のありがたさは、その伝わり方にあった。それらは芸術的にすぐれてゐるといふよりも、むしろその方に於いてはるかな意義をもつものではなかろうか・・・(P62)》とかわす。
保田にとっての日本文化は、王朝(天皇)の一貫性の下で培われた不変であるカミと同一でなければならない。しかしながら、紀元二千六百年記念行事が外来の仏の影響と様式に則った荘厳な品々の公開であった。このことを受けいれることはかなり難しかったのではなかろうか。
この記述を筆者なりに解釈すると――日本が外来の思想の影響を受けることは残念ながらあった、そしていま現在も、明治維新の文明開化から始まってそのような状況にある。しかし、日本人はそうした状況にあっても日本の伝統を守りとおしてきたのである。(自分は)そのような葛藤を続けてきた日本の王朝に宿命的悲劇を感じてしまう。王朝の文化(歴史)に接するとき、絶望と悲観の入り混じった旋回のような気持ちを感じざるを得ない――
天平時代の王朝が統治のイデオロギーとして、あるいは国家鎮護のテクノロジーとして、日本古来のカミから外来の仏へと軸足を移したことは明らかである。保田にはそれでも、古代のカミに依拠して文化活動を続けた宮廷人や知識人がいたことを確認し、それゆえにその風が今日まで伝承されたことのほうを寿ぐのである。
日本文化が異文化との交流により変位しつつ、独自の成熟を経て、2600年はともかくとして、現代に至ったことを保田がしらないわけがない。保田輿重郎の文化観は一見、狭隘で独善的ではあるのだけれど、保田にとって重要なのはそこではない。保田は日本の王朝の葛藤をあわれとして受け止め、絶望し悲嘆してみせるのである。《私はつねに古王朝に接するときに、ある絶望と悲観を、いり混つたやうな旋回をするやうな気持で味ふことを禁じ得なかった》とはずいぶんと、ある意味では不遜ともいえる述懐ではないだろうか。
直感的共感――若者の日本浪曼派体験
日本浪曼派が浪曼派としての自覚を明確にもって出発したのは1931年(昭6)の満州事変だったといわれる。翌年、保田輿重郎を中心に同人雑誌『コギト』が発行される。この雑誌は芸術雑誌であって、極右的、国粋的要素はなかったのだが、当時の若きインテリゲンチャたちは、前出のとおり晦渋で韜晦的な保田のわかりにくい文体に惹かれていく。そのあたりの体験を橋川文三は次のように述べている。
自身を取り巻く情況が思いもよらない方向に転位しているとき、それを合理的に説明する言説をいくら聞かされようとも、腑に落ちることはない。なぜならば、幾多の説明には情況を変える力がないからである。そのようなとき、よくわからないが安心を与えるもの、超越的なものに心を惹かれる。
日本浪曼派の誕生から60年余のちの世紀末、ヨーガのような瞑想と超能力獲得を売り物にした新興宗教が若者の心をとらえ、この宗教結社が体制転覆を目指したサリン・テロを敢行したことは記憶に新しい。その教祖の言葉や経典は宗教と呼ぶほどの哲理をもたないものだったが、サンスクリット語、自然食品、脳波に電波を送信して安らぎを得るとされるデバイスを提供して、若者の心をとらえた。このようなエネルギーを無視することは難しい。そのときの日本はバブル経済が崩壊し、金満下の熱狂が去ったあと、数えきれないほどのモラルハザードが各所で発覚していた。純粋な若者ほど、なにかに救いを求めざるをえなっかた時代だった。
方法としての〈イロニイ〉
橋川文三は前掲の講演の中で、知識人の武器としての知識の権威がまったく曖昧なものとしかみえなくなった時代に、浪曼派が提示したのが—―マルクス主義や弁証法ではなく――〈イロニイ〉という方法だったという。橋川は、ある程度マルクス主義の知的教養をもっていた人間なら、〈イロニイ〉を受けつけることはなかったとしながらも、当時の橋川のような世代においては、それに共感を感ずるような立場にあった、と当時を振り返っている。
橋川は〈イロニイ〉を次のように定義する。
このような橋川の〈イロニイ〉に係る定義は、かなり思い切ったものである。ちなみに、橋川の著である『日本浪曼派批判序説』(以下、前掲書③という)においては、かなり厳格な定義づけを行っているので紹介しておこう。
橋川は、日本浪曼派が誕生する20年以上も前に、それを醸成するに足る日本の社会的・思想的諸情況を的確に言い当てていた石川啄木に注目する。そして、石川啄木の「硝子窓」(初出:「新小説」1910・明43年6月)の次の言説を引用する。
《「何か面白い事は無いかねえ」という言葉は不吉な言葉だ。此二三年來、文學の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何囘この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顏さへ見れば、さう言はずにゐられない樣な氣がする事もあつた。・・・「何か面白い事は無いか!それは凡ての人間の心に流れている深い浪曼主義の嘆息だ。」》
日本の古代王朝に対する"病的な憧憬と美的熱狂″こそ、保田輿重郎、すなわち日本浪曼派そのものではないだろうか。(続く)