見出し画像

1930年代(26)

日本浪曼派(その1)
「わたし」の日本浪曼派体験

本稿より、1930年代に活性化した日本浪曼派を取り上げる。日本浪曼派とは、保田與重郎(1910~ 1981)らを中心に近代批判と古代賛歌を支柱とした「日本の伝統への回帰」を志向した文学者グループの名称である。同派の表現世界は、文学にとどまらず、1930年代におけるわが邦の精神的・文化的潮流を代表するものの一つでもある。

日本浪曼派とは奇怪な悪夢だった
 『日本浪曼派批判序説』(以下「前掲書」)という名著を残した橋川文三(1922~1983)は、その書出しの部分で、同派について次のように論言している。

・・・一般的には、この特異なウルトラ・ナショナリストの文学グループは、むしろ戦後は忘れられていた。それはあの戦争とファシズムの時代の奇怪な悪夢として、あるいはその悪夢の中に生まれたおぞましい神がかりの現象として、いまさら思い出すのも胸くそ悪いような錯乱の記憶として、文学史の片すみにおき去りにされている。(前掲書・講談社学芸文庫版P9)

 橋川がいう「あの戦争」とはもちろん、アジア・太平洋戦争を指す。およそ15年にわたった「あの戦争」による犠牲者は軍人・民間人を合わせて310万人以上といわれる。橋川が前掲書を世に送り出した1960年当時における日本人にとって、日本浪曼派の記憶とは、あの戦争とファシズムに匹敵する悪夢であり、思い出したくもない記憶だったということになる。換言すれば、日本浪曼派とは、310万人が命を落とした「あの戦争」と同等の重みをもった負の遺産ということになる。であるならば、それを欠落した1930年代論はあり得ない。苦手な日本文学という領域ではあるが、いまを考える手掛かりとして、このアポリアに挑戦してみることにする。

筆者の日本浪曼派体験
 橋川が前掲書を世に出したのが1960年。それからおよそ10年を経た後、日本浪曼派再評価の動きが高まった。おぞましい悪夢を蘇らせたのは、当時、反体制革命運動の興隆に同調して顕現した社会革命派によるものだった。政治運動を牽引したのは反日共系の新左翼と呼ばれる学生を中心とした党派であったが、彼等に同伴した社会革命派が日本的情念を再評価し、日本浪曼派を議論の俎上にのせたのである。そしてもちろん、橋川の前掲書がなかったならば、そのときの再評価の動きも起こりえなかったであろう。
 1970年、明治大学第20回和泉祭において、同祭本部の企画により、橋川文三による基調講演「日本浪曼派と現代」及び大久保典夫・磯田光一・桶谷秀昭・村上一郎による座談会「日本的情念の原点」が開催されている〔注〕。このような世相の影響により、筆者は保田輿重郎を読んだのである。

〔注〕同講演と同座談会については、明治大学出版会により『転位と終末』として単行本化されている。なお、『転位と終末』には、「吉本隆明による講演『国家論ノート(学習院大学土曜講座講演)』及び同『「擬制の終焉」以後十年(共産同叛旗派編集委員会政治集会)』が併せて収録されている。

 日本浪曼派が活動・台頭したのが1930年代、橋川が前掲書を世に出したのが1960年、そしてその再評価が1970年である。1930年代については筆者がいま書き続けているとおり、日本帝国の分岐点であった。また、1960年は日米安保条約をめぐり、国民が真っ二つに分かれて対立を激化させた、これまた戦後日本の分岐点であった。そして、1970年前後は――学生による運動という象徴的な動きであったという留保を要するものの――日本の高度成長期とそれ以降を画す分岐点であったように思われる。日本浪曼派とは、わが邦の分岐点に現れ、そしてよみがえる悪夢なのだろうか。

日本浪曼派との出会い
 筆者が初めて保田輿重郎(『日本の橋』)に触れたときの印象は、「よくわからなかった」に尽きる。同書に満たされた古代から近世にわたる日本文学の素養が筆者には備わっていなかったからであるが、それだけでなく、論理的な進行がみられないと思われたからでもある。たとえば、名古屋熱田の精進川に架けられた裁断橋の銘文について書かれた箇所である。

・・・裁断橋は、もう昔のあとをとヾめないが、その橋の青銅擬宝珠は今もはじめのまヽのものを残し、その一つに美しい銘文が鏤められてゐるのである。・・・和文の方は名文の第一と語りたいほどに日頃愛誦に耐へないものである。

てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ぢんほりをきん助と申、十八になりたる子をたヽせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はヽの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏給へや、卅三年のくやう也。(『日本の橋』/講談社学術文庫P82~83)

 銘文の引用を受けて保田輿重郎は次のように書く。

銘文はこれだけの短いものである。小田原陣に豊臣秀吉に従って出陣戦没した堀尾金助という若武者の三十三回忌の供養のために、母が架けたという意味をかき誌したものだが、短いなかにきりつめた内容を語って、しかも芸術的気品の表現に成功してゐる点申し分なく、なほさらこの銘文は象徴的な意味に於いても深く架橋者の美しい心情とその本質としてもつ悲しい精神を陰影し表情してゐるのである。(同書P83)

そして保田輿重郎は、日本の橋が此岸と彼岸を架けるものという持論を踏まえつつ、《此岸より彼岸へ越えてゆくゆききに、たヾ情思のゆゑにと歌はれたその人々の交通を思ひ、それのもつ永劫の悲哀のゆゑに、「かなしみのあまりに」と語るこの女性の声は、たヾに日本に秀れた橋の文学の唯一のものといふのみでなく、その女性の声こそこの世にありがたい純粋の声が、一つと巧まなくして至上叡智をあらはしたものであろう。》と、この銘文を絶賛するのである。
 主君のために若くして命を落とした息子を憐れむために橋を架し、その擬宝珠に銘を刻んだ母親の思いを保田輿重郎が賛美することを批判するつもりはない。しかしながら、それを《日本に秀れた橋の文学の唯一のものといふのみでなく、その女性の声こそこの世にありがたい純粋の声が、一つと巧まなくして至上叡智をあらはしたものであろう。》というふうに普遍化するところに危うさを感じてしまうのである。筆者のように戦後の反戦平和を踏まえた社会科の教科書『明るい社会』で育った人間においては、主君のために若くして命を落としたわが息子のような悲劇を再び繰り返さないためにどうしたらいいのか――と、この銘文を読むのである。至上叡智として絶対化するのではなく、主君のための戦争を繰り返さない思考を巡らそうと、素朴に企画してしまうのである。
 かくして筆者は、保田輿重郎と日本浪曼派に一線を画し、以来、そこに戻ることはきょうのきょうまで、なかったのである。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?