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1930年代(最終章)

満州事変90周年(その2)
幻の村

前章で参考とした『幻の村-哀史・満蒙開拓(手塚孝典〔著〕)』(以下「前掲書」)はまことに示唆に富む書である。同書は満蒙開拓団の悲劇を伝えるだけにとどまらない。国家という巨大装置と、そこに所属する微小な個人との関係性を問うている。大なる国の策が動き始めると、小なる個の感性、教養、自負は吹き飛ばされ、それに従順な徒となってしまう。あたかも、見えざる魔手に導かれるかのように。本稿ではそのことにふれ、「1930年代」の最終章とする。

哀史・満蒙開拓

 前掲書は以下の単元にて構成されている。
第一章 沈黙の村
前章で取り上げた通り、長野県河野村の満蒙開拓団の悲劇に係る記述。

第二章 忘れられた少年たち
長野県山ノ内町の満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇を伝える。数えで16~19歳の青少年たちが、敗戦間近、関東軍撤退後のソ連国境地帯の軍事的空白地帯に送り込まれ、侵攻してきたソ連軍に追われ、逃亡中及び収容所で非業の死を遂げた実態が示される。

第三章 帰郷の果て 
第四章 ふたつの祖国に生きる
ともに中国残留孤児問題への論及。開拓団家族はソ連軍の侵攻から逃亡する途中、せめて幼い子供だけは生き延びてほしいと、中国人に子供を預けた。戦後、その子供達が成人し、祖国日本への帰還を希望したのだが、帰還はそう簡単ではなかった。言葉、生活習慣、日本社会の排他性など、帰還した残留孤児たちの日本での生活は厳しかった。2002年に始まった、残留孤児による国家賠償請求訴訟の裁判では帰国した残留日本人の9割(2,211人)が原告となった。長野県では2004年、79人が原告となった。

第五章 幻の村
第一章で登場した河野村において満蒙開拓を推進した当時の河野村村長・胡桃澤盛(くるみざわ・もり)の日記を中心にして、満蒙開拓がいかに推進されたかが詳細に示される。と同時に、戦後、自分が送り出した開拓団の悲惨な結果(73名が集団自決)を知らされた胡桃澤盛が自死を選択した経緯等が示される。

胡桃澤盛の日記

 前掲書に抜粋された盛の日記を読むと、盛のそう長くない人生のなかに、〈1930年代〉が凝縮されていることにはっとさせられる。と同時に、盛の歩んだ進路と日本帝国がアジア太平洋戦争に邁進した過程がぴたりと重なり合っていることに驚愕する。
 21世紀に生きる「われわれ」は、彼の日記により、取り返しのつかない破綻、破滅、悲劇を同時代のように追体験する。満蒙開拓は、日本の近現代史を考える者に重い課題を突き付ける。

(一)長野の農村の自由人

長野県は全国中、満蒙開拓団を最も多く送り出した。開拓民総数は27万人余り。うち長野県は3万3000人と全国一の多さで、さらにその4分の1の8400人が飯田・下伊那郡からであった。この地域から長野県の4分の1以上の渡満者が出ているのは特筆に値する。2013年4月、日本で唯一の「満蒙開拓」に特化した記念館が、長野県阿智村に開館している。(『論文「全国一の開拓民を送り出した長野県」 満蒙開拓平和記念館―戦争と自治体―/自治問題研究所)』)

 前章で書いたとおり、当時、長野県下伊那郡は全国で有数の生糸の生産地帯であった。ところが世界大恐慌の影響で対米輸出が大幅に減少し、同郡の農村の経済の疲弊が進んだ。そんな状況下、日本帝国政府が出した農村政策が皇国農村である。同閣議決定には満蒙開拓には一切触れていない。だが、よく読むと、そこに〈分村〉という二文字があることを前章で確認した。そのことを頭に置いて、胡桃澤盛の日記を追ってみよう。

稲の穂の上を北風がざーと吹いて来て涼しく襟足をかすかに寒く感じせしめる。秋だ。人が稲の間に居るかと時々案山子を見違える。河原はただ黄金の波だ。すべての富は百姓のものだ。(1923年9月22日・盛19歳)
百姓は憐れだ。絹片身伽藍の者は蚕を養う者に有らざるなりと同じく、米飯を食する者は却って百姓ではないのだ。丁度、自分達は泥土の中に入って其の上へ上流階級人間に泥の着かぬ様に肩へ載せてやる様なもんだ。涙が出る。(同年7月26日)
朝、数件の年貢の催促に行く。強い事は云えない。気の毒な感じがし、貰う事が正しくないような気がする。財を作ることが良いか悪いか、筋肉労働によらぬ儲けをなす事の成否等が判らない。(1925年3月20日・盛20歳)
もっと自由に強く、正しく生きるべきだ。今の自分は何を重大なものとして動いて居るだろう・・・!自身にさえ恥ずかしい。土地、金、社会的地位、生活の安定等、そんなものがいざと云う時幾千の価値があるのか。(1926年7月15日・盛23歳)

 盛は、明治時代に商売で富を得て大きくなった名のある地主の家に生まれ、農業学校を出た10代半ばで家業を手伝うようになった。盛の青春はまさに大正デモクラシーの時代、自由な雰囲気のなか、盛は文学青年と思われるほど、豊かな感受性を示している。と同時に、社会の不平等に対し、鋭い眼差しを向けていて、1924年には信南自由大学〔注〕に参加している。(前掲書P156~158)
 そんな盛の私生活に急激な変化が訪れたのが1929年。父親が亡くなり、24歳で家業を継ぐことになる。《当主としての仕事は想像以上に多忙で、時に弱音を吐いたり、強がって見せたり、現実の生活を受けいれようと必死だった。》(同P162)

〔注〕信南自由大学;自由大学構想は、土田杏村らが唱えた「民衆が労働をしつつ生涯学ぶ民衆大学」という理念を掲げる教育運動から生まれた。長野県では広く地域社会に浸透していた。信南では地元の青年たちが自主運営で開講、文学や政治、経済、法律、生物など8講座に講師を招き、夜三時間ほど講義をした。
伊那自由大学の創設の影響をうけ1922年から1926年にかけて、魚沼自由大学(新潟県北魚沼郡堀之内町)、八海自由大学(新潟県南魚沼郡伊米ヶ崎村)、そしてこの信南自由大学(のち伊那自由大学。長野県下伊那郡飯田町)、松本自由大学(長野県松本市)、群馬自由大学(群馬県前橋市)がつぎつぎと創設された。

 盛は22歳で結婚しているが、長男を亡くす。その4年後、妻が妊娠し男の子を出産するが、妻は生まれたばかりの男の子(次男)を伴って入水自殺をする。盛はこの悲劇を含め、母親、弟、父親、長男を立てつづけに失っている。そして妻の死後半年で、亡き妻の妹と再婚する。(前掲書P164~165)
 こうした盛の私生活の悲劇的展開が以後の思考・行動にどのように影響したのか、それともしなかったのか――については、前掲書では確言できないが、情報として記しておく。

(二)日中戦争本格化と盛の心の変化
 世界恐慌の影響を受けて、河野村が社会不安に陥っていく様子を盛は日記に書き留めている。桑畑への投資により、すぐに他の作物の栽培に切り替えることもできない。《働く程に損が立つとは不思議にさえ思われる》(P166)。その一方で、養蚕業が好調だったとき、同村の農民たちは好況の熱に浮かれ、不動産へ借金投資した者も少なくなかった。彼らは返済もせず、見通しも立てず放置していたという。盛は呆れて《百姓の経済的無自覚を覚まさねばならぬ。来年は来年はと何年待ったのか。遂に農村の亡びる日が来る》(同上)と。
 盛はこうした状況のなか、29歳のときに村会議員に当選し、村の舵取りを担っていく。農村経済の脆弱さを目の当たりにした盛は、目指すべき村の形を模索する。蚕糸の価格回復に見切りをつけ、独自に小麦などの増産に取り組み、自給以上の収量を得て、利益を生むようになった。著者の手塚孝典は次のように書いている。《(盛は)自らの手腕に自負を覚え、手応えを感じていた。この世の中で、正しく生きたいと願い、貧しい農民の境遇に心を寄せていた盛の人生は、その願いの強さ故に、少しずつ狂い始めていく。》(同P168)
 盛の価値観、生き方を変えたのは、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とした日中戦争の本格化だった。盛の日記に変化が現れる。

日支関係漸次悪化、重大化しつつあり。世相の流転予断し得べくもないが、数年前の社会情勢に比して幾分の安定を見つ々あるが今日再び国際的危機を深めるは喜ぶべき事でない。戦時に於ける農村の位置はどうなるのか。〔中略〕東洋の平和を招来すること々もならば私達は如何なる犠牲にも甘んじて国家の為に働かねばならぬ。(1937年7月14日・盛33歳)
夜、南京陥落の提灯行列をなす。盛んな行列だった。終了後、公会堂にて夜宴を開く。(1937年12月15日)
皇軍は今や上海、南京を抜き、徐州、九江を陥し、今や漢口の陥落も目前に迫っている。東洋永遠平和確立の為め陣没せる英霊に感謝の念を捧ぐる。(1938年8月14日・盛34歳)

著者(手塚孝典)は次のように補足している。

盛は、満州事変による国際的緊張がようやく解けつつあった情勢で、戦争を望んではいない。心を動かしたのは「東洋の安定」という理想であり、そのために必要な「平和のための戦争」という論理だった。そこにある矛盾への内省は失われ、国家への奉仕を誓う思考へと組み込まれていく。
 ただ、国策となった満蒙開拓団の送出には慎重な姿勢を示している。(前掲書P169)

(三)盛、河野村の村長に就任
 1940年、盛は36歳の若さで河野村の村長に就任する。下伊那郡内の最年少の誕生は郡内の話題を呼び、新聞は‶口も八丁手も八丁という破棄縦横の才子ではないが真面目で新体制下諸般革新を要する時青年胡桃澤氏の登場は独り河野(村)と云わず各方面に期待をつながれている″と書き立てたという。
 この新聞の書きぶりは気になる。まず「才子ではないが真面目」という表現。そして、「新体制諸般革新を要する時」の二箇所だ。後者の〈新体制〉とは言うまでもなく、総力戦体制のこと。その体制づくりの動きを当時、「革新」と称していた。そして、前者の表現には、総力戦体制に異を唱えず、言われたことを真面目に務める者が望ましいとする、軍国ファシズムに都合の良い人間像が謳われている。
 若き新村長の胡桃澤盛はそんな人物だ、と当時の新聞は見透かしているかのようだ。なお、村長就任の直前、日本の政界に大政翼賛会が発足(1940年10月12日)し、新体制運動推進を目的とし、全政党が解散してそれに加わった。

(四)紀元二千六百年祝賀行事
 1940年11月、盛の最初の大仕事が紀元二千六百年の祝賀行事への出席だった。全国から5万5千人、長野県内から781人、下伊那から39人が参加した。そのときの日記である。

近衛首相の御先導にて天皇陛下、金光厚相御先導にて皇后陛下後参着。金屏風を背に玉座につかせ賜う。目の当たり拝する両陛下の御姿。首相の祝詞、陛下勅語を賜い、十一時二十五分近衛首相の発生にて陛下の万歳三唱に和し全参列者、全国の、否世界に在る同胞等しく万歳を三唱し、聖代に生を受けし喜を高らかに唱う。我民族のみの持つ矜だ。(1940年11月10日・盛36歳)

 1942年、拓務省が「満洲国開拓第二期五箇年計画要綱」を発表する。全国で12カ所の満州開拓特別指導部を選定、長野県では下伊那郡が指定された。下伊那では既に7集団1,810戸を送り出していたが、さらに5年間で9集団2千戸を送出するよう指示される。盛が村長を務める河野村は、総戸数517戸のうち、過剰農家は109戸、分村する開拓団の戸数は50戸と示された。《盛は開拓団の送出について準備委員会を作り議論を進めていくが、依然として、慎重姿勢を崩していない。(前掲書P174)

(五)天皇の一言と満蒙移民推進
 盛が満蒙開拓団発出に前向きになったのは、1943年4月12日に開催された全国知事会における出来事だった。知事会に出席した郡山義夫長野県知事が席上、天皇から「長野県民の満州開拓移民の状況はどうか」と下問された。それまで全国で最も多くの開拓民を送り出していた実績が認められたのだ。郡山長野県知事は「目下満州にある県民は、開拓に懸命の努力をしておりますが、県におきましても、その後続部隊の養成錬成に万全を期しておる次第であります」と答えた。たった一言、天皇のこの言葉を最高の名誉として、市町村長宛に奮闘を呼びかけた。
 「開拓事業の進展に、一層の奮闘努力を致し、以て、大御心に応え奉らんことを、期すべし」と。(前掲書175~176)

(六)戦争遂行のための皇国農村
 ときを同じくして、国が皇国農村の建設施策を発表したことは前章にて書いた。県も皇国農村の条件である分村移民の送出を畳み掛ける。1943年の戦況は日本軍の敗色濃厚が見えていた。そのときの盛の日記。

皇国農村建設の為め標準村指定全国に於いて三百三件、内県内は最も多く十三ヶ村。本郡は三ヶ村にて河野、上郷、山本。確定の上は、強力に押し切って国家の要請と本村は百年の繁栄の基礎を築く可く奮然起つのである。(1943年9月28日・盛39歳)

 著者の手塚孝典の補足である。

すでに分村した大日向村や富士見村は、県内でも一目置かれる存在になっている。分村すれば、国からの優遇措置もある。道路整備への補助金など、村にとっては、大きな魅力だった。盛の迷いは消えていた。(前掲書P178)

 そして、盛は河野村の分村、満蒙移住に向けて具体的に動き出す。

開拓団建設の件。ハルピン郊外平房へ筒井氏の計画に基づいて、村の事業として送出計画を進める事に胎を定める。斯く決意してみると、それだけの広い視野が開け、朧げ乍らも出来得るとの信念が湧く。安息のみを願っていては今の時局を乗りきれない。俺も男だ。他の何処の村長にも劣らない、否勝れた指導者として飛躍しよう。(1943年10月21日・盛39歳)

(七)夢幻に終わった「満州」
 1944年3月、盛は開拓団の先導隊とともに入植地を視察するため満州を訪れる。朝鮮の釜山から陸路、新京へ向かっている。

朝、奉天通過。窓外白雪に覆る。広漠たる大平原。(1944年3月19日・盛39歳)
新京市の東方小高い丘を越えた次の盆地。村の東にも小高い丘があり、地は肥沃。家も却々いい。(同年同月24日)
一時間歩いて見たが、丘を越え低地を超えても同じ事。広い。峠の頭で見ると家の前に大国旗がひるがえって居る。い々村だ。原住民代表をも招きて懇談会を催す。母村々長として、丁さんの通訳で母村の状況、分村を作るに到りたる動機、経過、将来の理想、官公署並に原住民の協力を要望す。其の後、男ばかりの宴会。お客様の帰られた後、伊那節で気勢を挙げる。(同年同月26日)

 盛の視察後の1944年8月、河野村開拓団は入植式を開いている。分村の建設が順調に進んでいることに盛は期待を寄せているというが、日本帝国を取り巻く事態は深刻だった。一月前にはサイパン島の日本軍が全滅、9月にはビルマの皇軍全滅、テニヤン玉砕など、戦況の悪化が盛の日記にも綴られているという。以下、著者(手塚孝典)の補足である。

(そんなおり、)1945年の1月には、開拓団の家族60人を送り出している。3月には念願だった農道の起工式を迎え、「多年の懸案一挙に解決せんとす」と喜びを隠さない。4月には、食糧などの供出で成果を挙げ、長野県から優良村として表彰されている。》(前掲書P184) 

 しかし、盛が1944年に満州の大地に夢想した「村」、そして、皇国農村制度で整備が進められようとしていく古里、長野・河野村は、日本帝国の敗戦と同時に、夢幻のように消えてしまうのである。

(八)敗戦そして盛の自死
 敗戦から1年近くが経過した1946年、盛のもとに、盛が満州へ送り出した河野村開拓団の悲報が次々と届けられるようになる。そして盛は、同年、自ら命を絶った。日記の最後のページは破られていて、そこには遺書があったとみられているが、誰が破ったかもその行方もわからないという。だが、当時の新聞がそこにあった最後の言葉を伝えていた。

開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳ない。
あとの面倒が見られぬことが心残りだ。
財産や家は開拓民にかいほうしてやってくれ。
(前掲書P190~191)

皇国農村(分村)、天皇の下問、忖度

 満蒙開拓団は徴用とか強制移住というものではない。前出のとおり、皇国農村の閣議決定にある〈分村〉の二文字が要綱におとされ具体化し、農村助成制度の見返りとして、国と県が移住を奨励し、それに呼応した村が自ら選択したかたちになっている。長野県知事に語った天皇の言葉も「満州へ行け」ではなかった。戦後、満蒙開拓団の引揚者は、「進んで満州に出かけて行った」と差別にさえあったという。今般の表現で言えば「自己責任」だろうか。
 しかし、河野村の満蒙移住の経緯をみてわかるとおり、天皇の下問があり、長野県知事がそれを忖度し県下に移住の大号令を発し、村を良くしようとする意欲的な村長が率先して開拓団を送出した。ときはなんと敗戦直前である。かかる不合理的選択はいまになれば糾弾されようが、当時は移住の成功をだれも疑わなかったのである。

総力戦を進めた〈革新派〉の末路ーー日本型近代の終焉

 胡桃澤盛の日記は、青春時代、大正デモクラシーを享受した長野の自由人が、1930年代、満州事変から始まった中国侵略戦争・アジア太平洋戦争へと進んでいく日本帝国の動きに同期していく過程を描きだしたものである。それは日本帝国の総力戦に向けた〈革新派〉の動きに、個が否応なくからめとられていく過程でもある。それを換言すれば、明治維新から始まった文明開化、すなわち、日本帝国の近代化の末路であり、日本浪曼派が嫌悪した日本型「近代」の終焉にほかならない。
 いまを生きるすべての日本人は、自由人がいとも簡単に、軍国ファシズムに従順なる者に変容してしまった事実を見定め、かつ、敗戦間近に村人を満蒙に移住させてしまう不条理を考え続ける必要がある。20世紀の戦争、すなわち総力戦とは、国民一人一人が加害者であり被害者であることを強いるものであったことを忘れてはいけない。
 あったことを記録するのが歴史の第一歩である。後年の者が「歴史戦」などとほざくのは論外である。歴史は修正されてはならない。胡桃澤盛の日記がそのことを如実に語っているではないか(完)

あとがき

 前章にて紹介した、『101歳からの手紙~満州事変と満州国~』の最終章にこんな記述がある。‶終戦後に決行された「阿片密輸計画」”と題された小論である。
《私(先川祐次)が戦後に携わった「満蒙同胞援護会」の任務には、機密性の極めて高いものも含まれていた。
これは私が直接担当した事案ではなかったが、同胞援護会の別の部署では、満州国の元参事官が中心となり、戦時中に奉天の倉庫に「軍用物資」として保管されていた大量の阿片(アヘン)を朝鮮半島の仁川港から佐賀県の呼子港へと運び、横浜港から外国へと売却して、その資金を引き揚げ費用などに充てる計画が進められていた。
阿片の総量は「14トン」だったと記憶している。当時、阿片の価値は金塊と同じと言われ、極めて重要な「軍事物資」だった。》
 編集担当者の裏づけ取材によると、実際に決行されたことが確認されている。しかしーー《1946年の初めごろだったと思うが、機帆船で九州から横浜港へと輸送中、和歌山県の港で「物資」が米軍に押さえられ、計画が頓挫した。事件後、我々の同僚が長崎刑務所に収監された。》
 「満州国」を包む闇は、戦後世代が知る以上に深い。
 満蒙移民の悲劇はここに紹介したものだけにとどまらない。前掲書にもある満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇もわすれてはならないし、中国残留孤児問題はいまや、忘れられた感がある。今般、多くの書籍・記録集等が満蒙開拓団の悲劇を伝えている。学ぶ機会はいくらでもある。満蒙開拓団の悲劇に「歴史戦」はない。

〔主要参照・参考文献〕
・橋川文三『昭和維新試論』 ebookjapan
・橋川文三『日本浪曼派批判序説』 講談社学芸文庫
・橋川文三 講演「日本浪曼派と現代」(『転位と終末』収録)明治大学出版研究会
・保田輿重郎 新学社保田輿重郎文庫 
・山口昌男『「挫折」の昭和史』 岩波書店
・手塚孝典『幻の村-哀史・満蒙開拓』早稲田大学出版部
・先川祐次・三浦英之 『101歳からの手紙~満洲事変と満洲国~』 withnews(website)
・自治問題研究所 論文「全国一の開拓民を送り出した長野県」 満蒙開拓平和記念館―戦争と自治体―
・我孫子麟 論文「戦時下の満洲移民と日本の農村」
・渡邊一民『フランスの誘惑―近代日本精神史試論』岩波書店
・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社
・アンドレ・ヴィオリス 『1932年の大日本帝国――あるフランス人記者の記録』草思社
・中塚明『日本人の明治観をただす』高文研
・紀田順一郎『東京の下層社会-明治から終戦まで』筑摩書房
・大倉幸宏『昔はよかったと言うけれど』新評論
・松原岩五郎『最暗黒の東京』岩波書店
・横山源之助『日本の下層社会』岩波書店
・横山源之助『下層社会探訪集』岩波書店
・長山靖生 解説『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡(保阪正康著)』 ちくまweb
・滝沢誠『権藤成卿 その人と思想―昭和維新運動の思想的源流』ぺりかん社
・白井聡『国体論 菊と星条旗』集英社
・Wikipedia

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