『長澤延子全詩集』を読む
長澤延子の生と死
長澤延子は享年17歳で服毒により自ら命を絶った夭逝の詩人。あまりに短すぎる生涯だった。本書に収録されているクリハラ冉(くりはら・なみ)が作成した「年譜」および同じく福島泰樹の「解説」を参照しつつ、長澤の短い生涯を辿ってみる。
1932年2月1日、父・竹次-母・タツの長女として桐生にて誕生。
1936年3月、4歳のとき生母タツを喪う。
1937年正月、幼い縊死を試みる。
同年5月、父、再婚
同年6月、 弟、出生
1939年、父、招集
1944年、桐生高等女学校入学(12歳)、父、継母と別れ伯父の家に移り住む。
1945年8月15日、日本帝国無条件降伏(敗戦)
1946年、短歌をつくりだす 。
同年12月、最初の詩「折鶴」をノートに綴る。
1947年2月、15歳、詩、手記をノートに書き続ける。
同年5月、『二十歳のエチュード』(原口統三)発行。
延子(16歳3カ月、女学校5年生)、詩作に火がつく。
※1948年5月~1949年(死没)までの間に全詩129篇のうち106篇を詩作する。
同年9月、延子、『二十歳のエチュード』を読み影響を受ける。
同年10月、自殺未遂
同年、原口への批判・攻撃開始(ノートに書き留めだす)
同年、祖母の死
同年、原口と思想的に訣別
1948年12月、青共〔注〕に加盟。
翌春、養父に共産主義関連の書籍を燃やされる。
このころ、延子、長澤家から軟禁状態にされる(青共拒絶のため)。
1949年3月15日、女学校を卒業。服毒自殺を試みるも失敗。
遺稿「寄港日記」を準備。
同年3月27日、青共メンバー、長澤家より絶縁を誓わされる。
延子、自殺未遂を数回繰り返す。
1949年6月1日、服毒自殺(享年17歳)
本書収録の『海 長澤延子遺稿集/あとがき(高村瑛子)』によると、長澤は兄の影響で早くから読書に親しみ、古今東西の文学作品を読み漁り、女学校一年生のときには詩を好んで読んだりつくったりしていたという。三、四年生になると、ニィチェ・ボオドレエル・ランボオらの影響のもと、長澤独自の詩のスタイルの確立をみたという。高村は書いている。
本書の構成
長澤の詩集が最初に世に出たのは1965年、「私家版遺稿集『海』」(長澤竹次=発行)というかたちだった(筆者は未読)。本書ではそれが冒頭に収められ、『海 長澤延子遺稿集』(以下「遺稿集」という)というふうに本題が改められている。その構成は、▽1946年2月から1949年5月までに創作された詩を年齢別に4編(Ⅰ~Ⅳ)に分けて収録、▽手記および遺稿集を編集した者による〝あとがき″(Ⅴ)、▽〝栞″と名づけられた、長澤に所縁のある者の散文ーーというふうに、6単元で構成されている。
本書「解説」(福島泰樹)によると、「私家版遺稿集『海』」の刊行後の翌年、天声出版より、社主であり編集者である矢牧一宏の手により『友よ 私が死んだからとて』という本題で長澤の詩集は世に出たという。矢牧は1970年8月に『海—友よわたしが死んだからとて』を刊行、71年11月にも同書を再刊行しロングセラーとなり総数十万部を超えた、とある。
次に本書全体の構成であるが、「遺稿集」に続いて「長澤延子全作品」(以下「全作品」という)が収録されている。「全作品」は長澤が残した3冊のノートを全文掲載したもの。本書「解題」の著者・クリハラ冉によると、3冊のノートとは、▽詩集ノート「A」、▽詩集ノート「B」、▽詩集ノート「Note Book」——と題されていて、「A」「B」は長澤がノート表紙に付したアルファベット記号によるが、「Note Book」については、表紙に記号がないため、ずばり「Note Book」と題したという。加えて、手記「A」、手記「B」、遺稿「寄港日誌」、「詩集ノート未収録詩と異稿」が加えられている。長澤の作品以外としては、前出の「解題」(クリハラ冉)、「特別寄稿」(新井淳一、澤地久枝)「解説」(福島泰樹)「年譜」(クリハラ冉)、そして福島泰樹の「跋」で終わる。
長澤延子の詩
(一)外界との違和(15歳)
長澤15歳のときの作。おそらく長澤は家族、学校、友人、社会・・・に違和を強く覚え始めたのではないか。詩集ノート「A」に書かれた「困惑」「喪失」「うき雲」「雲」における詩調が基底音を共有する。現実の生からの遊離ーーふわふわとした漂いの感覚が流れている。それ以前の習作期間を経て、現存在を既成の言葉で規定することができないもどかしさが現われたように思える。
(二)屹立した自己(16歳)
16歳になると、屹立した自己を見定め、外界を拒絶しようとする傾向が現れる。詩題は「Fに」とあるが、おそらく、Fは特別な個人を指すものではないだろう。長澤の観念上の恋人Fに別れを告げたものだとも思わない。彼女の内奥が〈他〉との訣別、拒絶を命じたのだ。
(三)闘争宣言(16歳)
長澤はコミュニズムに接近する。孤立する自己と外界とをつなぐ糸として、コミュニズム運動(青共)に参加する。
「営業方針」(1948.5)という詩では、4節目に/私はプロレタリアの地下運動が好きで/ひねくれた危いことは何でもやった/とあり、5節目第一連は/――神は死んだ――/で始まる。そして6節目の一連目は、/私は無益な労働を好む/ ではじまる。
同じく1948年作になる「告白」では、「営業方針」よりは闘争意欲が減退したようにも思える詩を残す。
長澤と〝コミュニズム″
当時の日本共産党はどのような状況にあったのかといえば、表面的には戦後の民主化の勢いに乗り、全国各地に共産党首長が誕生するなど、党勢拡大期にあった。しかし、当初、GHQが進めていた「日本の民主化・非軍事化」路線は、1947年に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに転換される。日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしたいアメリカ政府の思惑で、対日占領政策が「逆コース」を辿るのである。
日本共産党中央では、GHQの弾圧が予想されるなか、「所感派」と「国際派」の対立構造が明確になりつつあり、党内には緊張が充満していたようだ。しかし、長澤が暮らした桐生を含む共産党地方青年組織の状況を把握できないものの、党中央の対立が桐生に住む長澤の創作活動に強い影響を与えたとは思えない。長澤の詩の中に、コミュニズム関連の言葉が散りばめられるようになり、革命を志向する表現も出るようになる。長澤は、青共をとおした自身のコミュニズム運動、階級闘争とのかかわりを手記に残している。
長澤の青共での活動期間は1948年12月から自殺した1949年5月までの半年程度だろう。「全てを知って」という全てとは、青共の政治・組織・運動路線の限界性を知ったうえで、と換言できる。
《コミュニズムは私が社会を恋しぬくために一つの契機だった》。それが彼女のコミュニズムである。「社会を恋しぬく」とは、筆者の推測だが、大衆とのつながりをもとめて、と換言できないか。長澤は社会から孤立した自己という自覚がありながら、一方で、社会との接点を強く求めようとする欲求があったのだと思う。この両義性のうち後者が青共加盟と運動であり、階級闘争の用語を使用した詩風を生んだ。しかし、コミュニズムに賭けたというのは、青共に賭けたのではなく、長澤が理解し、信じるところの〝コミュニズム″に賭けたのだろう。自死を前提としたコミュニズム運動への投企である。 とはいえ、青共の運動に重きを置いた、別言すればプロパガンダ的な「ハタ」という詩もある。3節目から引用すると、
階級闘争を賛美した詩のようで、長澤が〝それように″つくってしまった感が強く、らしくない。筆者は評価しないのだが、それよりも、長澤が敗戦直後の日本の情況を鋭くとらえた、「サケビ」という詩に注目したい。
國防色のサケビ
「サケビ」は長澤が、日本近現代史の特徴である〈ファシズム-軍国主義-戦争-敗戦〉と〈大衆-古里〉とを通貫した作品であり、彼女の歴史観・社会観における鋭敏な批評精神を感じとることができる。筆者は、「サケビ」が彼女の詩のなかにおける最高傑作の一つだと思っている。
南の海で戦死した息子の絶叫「おっかあ!」は、戦後生まれの筆者には衝撃だった。「天皇陛下 万歳!」ではなかったのか。日本帝国兵士が「天皇陛下 万歳!」と叫んで死んでいったというのは、もしや、戦前回帰を画策する者たちによる虚偽喧伝だったのか。筆者はそう思った。衝撃を放ったあと、長澤は敗戦直後の日本帝国兵士のさまがわりを「國防色」(のリュックともんぺ)で象徴的に表現する。
「國防色」とはいうまでもなく、日本帝国とその軍国主義だ。帝国の兵士たちは「天皇陛下、万歳!」と叫んで徹底抗戦すると思われた。ところが無条件降伏を機に、それまで天皇のために命を賭して戦ったといわれる帝国の兵士たちは銃を置き、リュック・サックの中の弾薬を捨て、カラにしたその中に自分と家族のための食料を詰め込み、隊列をなして歩いていく。かわり果てた帝国の兵士の姿は、日本が「みにくく敗れ去った」象徴だ。そのような光景は1945年8月15日からわずか数日後、否、数時間後に始まったのかもしれない。そう、その光景は、「記憶の中ににじみ重なった空爆の匂いが 歪みつゝ 鼻孔に立ち上っ た」ときから幾日もいく時間もたっていなかったかもしれない。
青年吉本が目撃した敗戦と日本帝国の兵士たち
詩人・思想家の吉本隆明(1924~ 2012)は、 長澤が詩にうたった、敗戦直後の「あまりにもみにくく敗れ去っ」た日本帝国とその兵士の姿を長澤と全く変わらない視点でながめていた。
戦時中、軍国少年だったと自称する吉本は、日本帝国の支配層が自分たちの勢力温存のために戦争をやめるといったところで、大衆(末端の兵士たち、および、吉本自身)はそれに従うことなく戦い続けると信じていたという。ところが、兵士たちがとった行動は長澤の詩と寸分違わぬものだった。
あゝ古里のワラブキ屋根よ
1945年8月15日、日本帝国の敗戦、長澤13歳、吉本21歳。前者は、/自分等が先祖代々生れ/あかい血潮を受けついで育ったこの日本が/あまりにもみにくく敗れ去っても、/正しいと思っていた夛くのことが/あまりにも見事にひっくりかえっても。/何時も/何時も/喘がされている民衆の肉体は叫ぶのだ、/生命のある日々への逞しい愛着を/その愛着との闘いを。/ と、大衆(兵士)の転向を愛着をもって受け止め、生命ある日々への逞しい愛着すなわち「大衆が生きる」ための行動として容認する。
一方、後者は、「自覚的敗北、大衆の敗北の構造」だと厳しく受け止め、以降、戦前、戦中、戦後における政治・社会・文学・思想について考えめぐらす道を歩み、その著作物と発言は、日本の戦後社会に強い影響を与えた。
長澤は敗戦とそれがもたらした国土の荒廃、困窮、社会の大転換をいかにもおおらかに受け止めているように思える。「どんなことになろうとも、大衆は生きていく」という信念のようなものだ。ワラブキ屋根(が象徴する郷愁)が原子爆弾でも壊れなかった、というのは被爆地、広島・長崎では通用しないだろうが、詩の表現としては成立する。彼女の古里である桐生は米軍による大空襲の被害がほとんどなかったからだろうが、それでもワラブキ屋根が焼失しなかったという表現は、自然の生命力とそれに紐づけられた生活者大衆の生きんとするエネルギーの象徴としてはふさわしい。それらの詩句から、筆者は長澤が知的エリートであることを拒否しようとする資質の持主だったのではないか、と感じる。
だから気になるのは、4連目の/自分等が先祖代々生れ/あかい血潮を受けついで育ったこの日本が/あまりにもみにくく敗れ去っても、/正しいと思っていた夛くのことが/あまりにも見事にひっくりかえっても。/何時も 何時も/喘がされている民衆の肉体は叫ぶのだ、/生命のある日々への逞しい愛着を/その愛着と闘いを/ の表現である。
これらの表現に対して、けっきょくのところ、長澤には政治的視点が欠けているのではないか、日本帝国の軍国主義を論理的に批判できていない、正しいとされたことがひっくり返ったならば、それまで正しいと言ってきた者に反省をもとめるべきではないのか。また、「先祖」「あかい血潮」つまり、明治期天皇制度を肯定しているのではないか、戦争と敗戦の責任を問う姿勢をもちえなかったのではないのか――と、そのような批判をすることもできるかもしれない。
しかし当時15歳だった長澤にとって重要だったのは、民衆の肉体であり、逞しい生命への愛着のほうだった。長澤のコミュニズムとは、彼女がいうところの民衆――生活者、大衆、市井のひと、工場で働く人、田畑を耕す人・・・いってみれば、額に汗して働く人なのではないか。前出の「告白」でも、/私の心は最高の孤独をいだき/民衆の中にとびこんでいく/ で締めくくられている。
『二十歳のエチュード』
原口統三の『二十歳のエチュード』が長澤に与えた影響を無視することはできない。長澤は16歳のときに同書を読んでいたようだ。
原口統三は、一高三年在学中(1946年10月)に入水自殺を遂げた(享年19歳)。生前に執筆していた『二十歳のエチュード』が、死後編集され、1948年に遺著として刊行された。長澤は『二十歳のエチュード』と原口についての感想および評価をノートに書きつけているばかりか、原口へのオマージュとも思える詩を残している。
詩題の下に、原口統三(の遺著から)の引用、《別離の時とはまことにある・・・朝が来たら/友よ/君等は僕の名を忘れて立ち去るだろう 原口統三》と付されている(写真)。長澤の詩は、自分が死んだことを悲しむことは無用だ、ほっといてくれ、という強い表現を繰り返す。そして、私の死に最もふさわしいのは忘却だときつくいう。詩の最後には再び、別離の時とはまことにある/朝が来たら――君等は僕の名を忘れて立ち去るだろう と、『二十歳のエチュード』引用が繰り返されて終わる。
長澤が原口から強い影響を受けたことを示すこの詩がつくられたのは、1948年7月だから、前出の年譜に従えば、1949年9月に試みた自殺(結果は失敗)のほぼ一年前にあたる。前出の年譜によると、長澤は女学校卒業のころから身辺整理を始め、ノートに作品を書き写すなどしていたというから、長澤が死へと傾斜したのは、原口の遺著に影響されたものと推測できる。
では、長澤が受けた影響とは何だったのか。筆者としては、原口についての詳論を別稿としたいので、ここでは簡単にふれておくにとどめたい。
【原口統三 略年譜】
1927(昭2)年1月14日、旧朝鮮京城生まれ
1939年、旧満州奉天一中入学
1941年、旧関東州大連一中第三学年編入。上級生清岡卓行を知る。多読乱読
1944年、大連一中卒業。
同年4月、旧第一高等学校文科丙類入学。
入学後は一高寄宿寮にて孤独な生活を送る。
1945年8月15日、日本帝国無条件降伏(敗戦)
1946年3月頃から筆を折り、自殺を公言し荷物を売って生活に資す。
夏、北海道始め、中部・近畿地方を旅行。その間、屡々赤城山に登る。10月2日、赤城山にて自殺未遂
1946年10月25日深夜、神奈川県逗子海岸にて入水。享年19歳10カ月。
(『二十歳のエチュード』角川文庫版P198より)
原口は最初、詩人を志したことが知られているが、彼の作品については、彼自身が自殺する直前に焼却処分してしまったので残っていないので、いつごろから詩作を開始したのかはわからない。旧制一高入学後、西欧の思想・文学の影響を受けたことがうかがえ、遺著中に、ボードレール、ランボー、ヴァレリー、パスカル、ニーチェ、ベルグソンらの引用が散見される。とりわけフランス象徴派の影響を強く受けたように思われる。しかしながら、それらの文学者・思想家には、自死を賛美する傾向はみられない。彼らが原口の死とは直接にも間接にも関係しないと筆者は考えている。
原口には、対象化した自我と当為との乖離に悩んでいたのではないか。当為とは彼自身の表現によると〝純潔さ″である。次に、表現(観念)と存在との乖離も許しがたかったようだ。しかしながら、自己対象化した〈自分〉が自我のすべてではない。フロイド、ラカン、ユングをもちだすまでもなく、自己対象化しえた「自分自身」は氷山の一角である。また、マルクスは『ドイツイデオロギー』のなかで、《意識(Bewusstsein)とは決して意識的存在(das bewusste Sein)以外のものではありえず、そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。(岩波文庫版/P32)、《意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。(同/P33)》、《意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるあるほかない。(同/P38)》と書いている。
アントニオ・グラムシは、マルクスを踏まえて、《「人間の本性」とは「社会的諸関係の総体」であるというのが、かくては最も満足のできる答えである。なぜなら、この答えは、生成の観念、人間は生成する存在であって、社会的諸関係の変化に応じてたえず変化していくという観念をふくんでいるからであり、「人間一般」なるものを否定しているからである。じじつ、社会的諸関係は相手をたがいに前提しあっているさまざまな人間集団によって表現される。そして、その統一性は、弁証法的なものであって、形式的なものではない。(『新編 現代の君主』ちくま学芸文庫版P21)》
また、角川文庫版『二十歳のエチュード』の冒頭に、哲学者でフランス文学者の森有生( 1911~ 1976)が、原口統三とその自死について「立ち去る者」という小論を寄せている。
原口は、長澤(1932.2.1生まれだから)より5歳年上という年齢の差異がある。原口が表現活動に入ったのは不明だが、それでも両者の入口と出口は外形的に酷似している。長澤が原口の遺著に惹かれたのは、原口の遺著に散りばめられたフランス象徴詩の原文引用や哲学者・文学者の言説に対する批評・批判に憧憬を抱いたのではないかとも想像できる。ところが、前出のとおり、長澤は原口批判を開始する。原口の遺著に心惹かれた長澤が突如攻撃に転換した経緯については、前出の福島泰樹の「解説」に詳述されている。なので、本稿では長澤の原口批判を本書から、引用・再引用するにとどめる。
敗北の、未来が閉ざされた瞑い日々の中
学生時代、中央大学で新左翼革命運動に参加した久保木宗一は、本書同封の小冊子 栞 に「未明、降りしきる霙の中を」と題する短文を寄せている。新左翼党派による東大安田講堂攻防戦とほぼ同時的・自然発生的に惹起した対機動隊陽動戦「神田カルチェラタン解放闘争」を闘ったという久保木はそのときの状況を、長澤の詩「星屑」を引用しつつ、ロマンティックに再現している。
久保木は長澤と同じ桐生の出身で、後年、長澤が残した詩作ノートのコピーの発掘などに尽力した詩人である。新左翼運動が敗走局面を迎え、行き場を失った久保木が古本屋で出会ったのが『友よ 私が死んだからとて』と題された長澤の詩集だったという。久保木はその詩集について次のように書いている。
〈久保木〉が〈長澤の詩〉を振り返ったこの言説は、革命的政治運動の挫折によってもたらされた感傷的記憶と、三人の友の自死という経験を加えたものである。そのような情況にあって、若くして青共に加盟し自死を選んだ詩人をロマン主義的に受容したのも自然な流れといえよう。しかし、長澤を革命的ロマン主義者の系譜に入れこむことは躊躇しなければならない。久保木の長澤との出会いは個別的であり、長澤を評価する普遍的位相とは相いれない。
久保木が引用した「星屑」において長澤が使った語句を選別してみると、〈裂傷の血を凍らせる〉〈霧の身ぶるい〉〈素肌〉〈裸形の私〉〈赤いプロレタリアの旗(に包まれ)去っていく〉〈血の抱擁を忘却し〉〈泳ぐ塑像〉〈息絶つ私のねぐら〉が印象に残る。長澤が息絶つことを強く意識したときの心象はモノトーンであり、その反対の赤い色をした〈裂傷の血〉は凍り、〈血の抱擁〉は忘却し、〈赤いプロレタリアの旗〉は去る。赤という色彩の中でもっとも鮮烈な色がすべて褪せ、泳ぐ塑像は色彩を持たない息絶つ私のねぐらだという。これほどまでに暗い情景を言語化とすることは、長澤の内部で、〈死〉がモノトーンの世界として結像していっていることを意味しているように思える。
自殺の主因は「わからない」
長澤の自殺の主因はわからない。表現の行き詰まりと生の行き詰まりとに相関性があるのかどうか。そもそも長澤に創作の行き詰まりの意識があったのかどうか。また、自死の理由づけとして、長澤は継母と折り合いが悪かったため、伯父の家に事実上、放逐されたのではないか、そのことを悩んでいたのではないかという説もある。さらに、長澤の青共加盟を嫌う「家」が彼女を精神病棟に隔離したのではないかという憶測もある。コミュニズム関連の書物を燃やされたりするような事案もあったようだ。こうした「家」との確執も無視できないのかもしれない。
さて、本書に特別寄稿「双生児めいて」を寄せた澤地久枝は、
と、大胆な推測を書いているが、たった一枚の写真でなにを言っているのであろうか。筆者には下種の勘ぐりとしか思えない。俗というよりも「低俗」であり、ルッキズムであり、長澤の自死を貶める暴論である。
「瞬間の王」
長澤より9歳ほど年長の谷川雁(1923.12~1995.2) は、1954年、第一詩集「大地の商人」を刊行し、1960年「定本谷川雁詩集」を刊行した後、「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」と宣言して、以後詩作を永遠に封印した。 谷川雁は詩人としては6年を超えなかった。喩を用いて内外界をイメージする作業の限界、言語表現の臨界点の自覚が詩人に訪れたとて不思議はない。
「瞬間の王」が死んだにもかかわらず、この宣言は妙に明るく、外にあふれでる希望を感じさせる。そんな谷川は、詩を「瞬間の王」といい、《自己の内なる敵としての詩を殺そうとする努力が、人々のいわゆる「詩」の形をとらざるを得ないのは、苦い当然である》と詩作の核心をついている。
長澤は――
谷川も長澤も「瞬間」という言葉を用いている。谷川にとっての「瞬間」は詩作を通じて自己を支配した「王」であった。一方、長澤にとってのそれは、生きているという、まさにその瞬間だった。瞬間の反対語は永遠または永続である。いままさに生きている(瞬間、瞬間の)自分を殺すのではなく、その反対すなわち〈生きていた〉ということ、瞬間を積み重ねて生きながらえている存在自体を抹消するということのようだ。生まれて来た時から死ぬ気で生まれたのに、生きてしまった、その自分(の歴史)を予定どおり消す(殺す)ということなのだろうか。だから宿命とは、裏で小指一本位の握手をしたわけだ。
谷川は「瞬間の王」を自ら殺したのか、それとも不意にそれが死んでしまったのか不明だが、いずれにしてもその死を自覚できたがゆえに生き続けることができた。そして、「人々は詩人ではなくなった一人の男をわすれることができる」といいながら、人々から忘れられることがなかった。「瞬間の王」の死によって、谷川は外にあふれでたのに対して、長澤は「瞬間の王」も「自らの命」もそのどちらもみずから絶ってしまった。そして、詩人であることを忘れられた。詩人・長澤延子が復活したのは、没後15年を経った頃であった。しかも「全詩集」としてその創作活動の全容が整えられたのが本書であり、なんと2021年の6月のこと、没後72年の年限を要した。
おわりに
筆者は本書の刊行をもって、長澤延子を知った。いまから半世紀余り前に彼女の詩集が注目され、多くの読者を獲得していたことを当時、知らなかった。なお、思潮社が発行する現代詩文庫は若者が詩に親しむゲートウエイのようなものだったはずだが、同社のウエブサイトを検索してみたが、刊行されていないようだ。
福島泰樹の「解説」を読むと、本書のように完成に近いかたちで長澤延子の全詩篇、全手記が世に出るに当たっては、複数の関係者の努力、尽力と、そして偶然が重なってのことだということを知った。なかで、親族の理解と協力がなければ、より困難な作業と時間を要したと思われる。しかも長澤の創作活動は戦争末期から敗戦直後という、日本における未曽有の荒廃期にあたる。そんな時期に長澤の手書きのノートがコピーであれ、ほぼすべて保管されていたということは、まさに奇跡のように思えるのだが、長澤の親族、友人諸氏、詩を愛する編集者諸氏、桐生という文化度の高い風土性などが重なり合って困難が克服され、本書に結実したのだと理解した。
そのうえで筆者の勝手な注文を僭越ながら述べるならば、本書は長澤延子の遺産継承の到達点であると同時に通過点だと思う。次なる課題は、こんにちの日本人、とりわけ若い世代にその詩を、その手記を、読んでもらうことだと思う。享年17歳という若さで高度に日本語を駆使して詩をつくり、コミュニズムにコミットし、そして死と向き合い、挙句自死を選択してしまった才能に一人でも多くのひとにふれてほしいと願う。〔完〕
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