〔第二部〕グノーシス主義とはどのような思想なのか(その3)
『ナグ・ハマディ文書』を読む(3)
「ヨハネのアポクリュフォン」
(5)肉体的人間の創造(§58~69)
ヤルダバオートが創造したアダムは動くことができなかった。そのアダムを助けたのが至高神が送り込んだ光輝く者たちであった。その者たちはアダムをよみがえらせ、ヤルダバオートをしのぐまでの力を与えた。それを知ったヤルダバオートとその配下の者は、アダムを捕らえると、物質界全体の底の部分へ投げ込んでしまった。
それを知った至高神はアダムを救うため、 光のエピノイアすなわち「ゾーエー」と呼ばれる者を送り込んだ。ゾーエーはアダムすなわち人(ひと)をプレーローマへ帰昇する道へと導こうとしたのである。光のエピノイアは、ヤルダバオートと彼の配下にあるアルコーンたちに気付かれないように、また、彼らの企てからアダムを守るため、 アダムの中に隠れた。
さて、§58から始まる叙述は、アダムをめぐる人(ひと)、換言すればわれわれ人類そのもの--の始原の物語にほかならない。ヤルダバオートは人(ひと)を自分たちが属する欺瞞的で邪悪な世界に留めようとする。その一方、光のアルコーンは人(ひと)を至高神が統御するプレーローマの秩序の下へ、正しい者であるよう力を尽くす、アダムをめぐり、両者の攻防が繰り広げられる。
なお「ヨハネのアポクリュフォン」におけるこの間の記述は、『旧約聖書 創世記』等および『新約聖書』の一部を踏まえたものである。その該当する個所を参照するため(重複するものを含み)、都度掲載することとする。
§59、 §60を意訳すれば、ヤルダバオートらはアダムを楽園に連れて行って、生命の木の実を食べなさいとアダムに言った。
私(救い主=キリスト)はヤルダバオートらが置いた「生命の木」について、ヨハネにほんとうのことを教えた。ヤルダバオートらは、その実を食べれば安心できるとアダムを騙したのであるが、それは偽りである。なぜなら彼らの歓びは苦く、彼らの麗しさは不法なものだから。彼らの歓びは偽り、彼らの木は憎悪、彼らの実は癒す術のない毒であり、彼らの約束はアダムにとって死であるから。
以下、ヤルダバオートらの「生命の木」の邪悪さが記述されている。
§61 はわかりにくい。ここに登場する「善悪を知る木」とは前出の光のエピノイア、すなわちアダムを助けるために派遣された者のこと。
大貫隆は「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」(東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)において、以下の通りの訳を与えている。《しかし彼らによって通常『善悪を知るため』と呼ばれるあの木から食べてはならぬ、とはっきり彼女に聞いてはならぬという戒めが発せられたのである。何故ならその戒めは、彼(アダム)が彼の完成を見上げて、その完成から自分が失われて裸であることに気付くことがないようにと、彼に敵対するものであったからである。しかし私は彼らがその木から食べるようにさせたのである。》
アダムを騙した蛇は、「ヨハネのアポクリュフォン」ではヤルダバオートに同定される。
ヤルダバオートの反撃である。自分よりも優れた威力を備えたアダムを眠らせて、忘却(悟ることも見ることもできないように)させようとした。
なお、*楽園については、前掲書⑥の「補注・用語解説・索引」P508に興味深い記述があるので紹介しておく。
エデンの園は「東の方」に設けられたとされ、読者には平面の連想を誘う。しかし、新約時代になると、それとは対照的に垂直軸に沿って楽園を、「第三の天」に位置付ける見方があることは、すでにパウロの証言(『新約聖書』「コリント人への第Ⅱの手紙12章1-4」)から知られる。グノーシス主義の神話でも原則として常に垂直軸の見方が前提とされている。〔後略〕(ただし、)その空間的位置付けは(具体的には)よく分からないという。
旧約聖書のエバの創造に当るところの叙述であるが、〔ヤルダバオート〕対〔至高神が遣わせた光のエピノイア〕の確執として描かれる。
女の創造もまた、創世記の記述とは異なり、光のエピノイア(女性神)の影像に似せてヤルダバオートが造った〝まがいもの”にアダムの中に在った霊力を吹き込んだものとして誕生する。そしてアダムは女という者を初めて見ることになる。
アダムが光のエピノイアの働きかけによって目覚め、自分自身の像を認めた。そして、妻と結び合う、すなわちエバと結ばれることを予見し宣言する。するとゾーエー(§57に初出)すなわちは光のエピノイア(ソフィア・ゾーエーとも表記される文書もある)がアダムの下におりてくる。「ゾーエー」とはギリシア語で「永遠の生命」という意味。これまでもヤルダバオートの企てに対抗して働いてきた女性的救済者であり、「生ける者の母」と呼ばれる。
アダムと女はプロノイア(この場合は天から遣わされた救済者の意)によって「完全な認識を味わった」とあるその認識とは、グノーシス(ギリシア語で認識の意)に達した、とでも表現できるだろうか。自分の霊的な本質を認識するかどうかによって個々人の救済がかかっているというのが、グノーシス主義の神髄であるからである。グノーシス=認識=知識はほぼ同義。プロノイアは鷲の姿で堕落したアダムと女を眠りから醒まさせたところ、二人は自分たちの裸の姿に気付いたのである。
またもやヤルダバオート(第一のアルコーン)の反撃が開始されたのである。
『旧約聖書』では、蛇に騙されて禁断の木の実を食べた女(エバ)は、主なる神によって楽園を追放されるのだが、「ヨハネのアポクリュフォン」では、覚醒し認識に達したアダムと女(エバ)をヤルダバオートが楽園に追放し暗闇に覆ってしまうという筋書きになっている。
ますます無知を増大させ(狼藉を重ねようとする)ヤルダバオートに気付いた万物のエピノイアは助けを求め、エバから生命を抜き取った。そのとき、ヤルダバオートがエバを凌辱し妊娠させ、エローイムすなわちエローヒム(旧約聖書で「神」を意味する普通名詞)とヤウェすなわちヤハウェ(旧約聖書の神の固有名詞)が産まれた。ヤルダバオートは二人をカインとアベルと呼んだ。
「ヨハネのアポクリュフォン」では、人類の生殖がヤルダバオートという無知なる造物神によって始まりいまに至っていると説く。さらに欲望の生殖すなわち性欲をアダム(およびエバ)に植え付けたとも。
そればかりではない。ヤルダバオートは交接により肉体の像すなわち霊に劣後する物質による生誕をつくりあげて、自分の霊をその中に入り込ませ、(ヤルダバオートの配下にある)二人のアルコーンを使って洞窟(目に見える現実世界のこと。プラトンの『国家』からの譬え)を支配するようにしたのである。
再びセツの登場である。「ヨハネのアポクリュフォン」では、§25に初出する。その説明を繰り返せば、グノーシス主義の一派が、創世記に出てくるセツ(セトという表記もある)に神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫と見做したことが確認されているというが、「セツ派」の歴史的実態はよくわかっていないらしい。
(§66 で)アダムが本質(完全なる認識)の模像を知ったとき、彼は「人の子」の模像を生み出し、それを霊界にある種族に倣ってセツと呼んだ。同様に、あの別の母親すなわちプロノイアが彼女の霊を、彼女に似た女の姿で、プレーローマにある者の影像として、下方へ送った。それは影像が住むべき霊界(場所)を用意するためである。
そしてアダムは第一のアルコーンすなわちヤルダバオートによって、彼らに忘却の水を飲ませた。それは彼らがどこに由来する者であることを知ることがないようにするためである。そのことは、セツの種子(子孫)がしばらく置かれた状態であるのだが、セツの子孫はその間も働いていて、聖なるアイオーン(霊界)から霊が到来するならば、その霊がセツの種子(子孫)を立て直し、プレーローマの欠乏(とはすなわち、ソフィアの過失から生じたその内部に生じたこれまで伝えられた混乱した事態=ヤルダバオートの誕生→「つくり物」あるいは牢獄としての下方の世界および肉体の派生)を癒すため、全プレーローマが聖なるもの、欠けのないものとなるためである」。
「ヨハネのアポクリュフォン」
(6)終末論(§70~75)
重複するが、§44 で説明したように、グノーシス主義における終末とは、プレーローマの中に生じた過失の結果として物質的世界の中に散らされた神的本質(霊、光、力)が、再び回収されてプレーローマに回帰し、万物の安息が回復されることをいう。その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なものは「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は「世界大火」によって焼き尽くされるという記述もある。(『ナグハマディ文書 写本2 この世の起源について』)
ここからの叙述は、地上の者(すなわち人類)に向けて、救済の道を説く。人(ひと)がグノーシス(完全なる認識)を自得し、邪悪さに満ちた地上から、聖なるプレーローマへ再び帰昇する道である。ヨハネと救い主(キリスト)と問答形式で展開する。
救い主(キリスト)は答えて、救われる者について説明する。
〝救われる者は揺らぐことのない種族に由来する者で、生命の霊が彼らの上に到来する者たちは、その力と共に在り、救われ、完全な者となるであろう。
彼らは不滅性以外には気を配らず、怒り、妬み、そねみ、欲望、そしてあらゆる物に対する飽くことのない貪欲を離れて、不滅性について思い量るであろう。ただ肉という実体以外を除いては、何一つ捕らえられるものはないでろう。
というのは、彼らは何時、自分たちの魂が肉体から引き上げられて迎えの者たちによって永遠かつ不朽の生命と(そこへの)召命の尊厳さの中に受け入れられることになるのか、その時を待ち望む間は、それ(肉体)を用いるのである。その際には、彼らは戦いを勝ち抜き、永遠の生命を嗣ぐために、あらゆることに耐え、すべてを忍ぶであろう″と。
冒頭の一節はわかりにくい。前出の「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」(大貫隆〔著〕東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)を参照すると、《私は主(キリスト)に、「救いに与えるようにと、あの力と生命の霊がその中に入った魂でも、もしこのようにしなかった場合は、彼らはどうなるのですか》とある。その回答として、キリストは、どのような場合にも救われるであろう、その力はすべての人(ひと)の上に到来するであろう。その力がなければ誰も立つことができないからである〔後略〕。
ただし、あの模倣の霊(ヤルダバオートの部下の天使たちがエピノイアに似せて創り出し、人(ひと)の娘たちを誘惑して、子供を産ませる力)によって誘惑されて迷うようになるのが常である。
救い主の回答の冒頭の「この者たちの魂」のこの者とは、〝魂の上に生命の霊が到来した者たち”のことで、〝模倣の霊が到来した者たち”のことではない。
グノーシス(完全なる認識)に達しなかった魂の行方を問うたヨハネに対し、救い主(キリスト)は、忌むべき霊が増大し、悪の業へと引きずられた魂は、ヤルダバオートの手下の天使たちに渡され、彼らによって鎖に繋がれ、牢獄に投げ込まれる、と説く。ただし、その魂が忘却から目を覚まし、グノーシス(本質の認識)を受け取るならば、救われると。
魂すなわち心魂的人間は、その肉体と等身大だと考えられているので、このような問いとなる。
「ヨハネのアポクリュフォン」
(7)補論・模倣の霊について(§76~79)
忌むべき霊(宿命)に勝る光のプロノイアのエピノイアが完全なる啓示(原啓示)を呼び覚ましたにもかかわらず、模倣の霊すなわち第一のアルコーン(ヤルダバオート)は、光のプロノイアの方が自分より勝り多くを思考するということに気付いたとき、それを捕らえようと欲した。なぜなら、ヤルダバオートは(無知だから)、彼らを支配することができないということを知らなかったからである。(だから、そこから忌むべき霊がやってきてしまったのだ)。なお〈・・・〉の部分は写本に欠損はないが、内容的に一定量の本文が失われていると推定される箇所だという。(前掲書⑥注104/P220)
そして、以降、忌むべき霊(宿命)が論じられる。
第一のアルコーン(ヤルダバオート)は彼に支配下にある霊と協議し、彼らは知恵と順に姦淫を犯し、宿命という打撃を生み出した。この宿命は彼らが互いに変転し合っているがゆえに、それまでの宿命よりも苛酷で強力であり、邪悪・暴力・呪詛・忘却とあらゆる困難さを命令し重大な罪とおそれが生じようとしてきた。そして、全被造物の上にいる神を知ることがないようにするため、全被造物を盲目にしようとした。そして忘却の鎖のため、全被造物の罪を隠そうと謀ろうとした。宿命が万物の上に君臨するよう全被造物を拘束した。
前掲書⑥注(106)/P220によると、「模倣の霊」(忌むべき霊)の起源がノアの時代にあったとされ、ユダヤ教の中にも、旧約聖書と新約聖書の中間時代以来、善霊と悪霊の起源をやはりノア時代に遡らせる伝承があるという。
創世記では主が人を造ったことを悔いたのだが、「ヨハネのアポクリュフォン」ではヤルダバオートがそのことを悔いたことになっている。そればかりではない。創世記ではノアが方舟をつくりそれに乗って洪水を逃れたのだが、ノアばかりか、揺らぐことのない種族も、光の雲で身を隠したことになっている。
このセクションで注目すべきは、《全被造物は世界の基が据えられたときから今に至るまで、永遠に奴隷とされてきた》、そして《全被造物の心は閉ざされてしまい、忌むべき霊の頑なさによって頑なにされて今日に至っている》という叙述である。
これまでみてきたとおり、ヤルダバオートの誕生以来、彼と至高神とのあいだでは幾度となく善と悪をめぐる攻防が繰り広げられてきた。にもかかわらず、彼が引き起こした大洪水を経てもなお、世界の基が据えられたときから今に至るまで、全被造物は彼の忌むべき霊の呪縛から解き放たれていないと認めているのである。人類は、忌むべき霊から解放されていないのである。ならば、当然、人類が善に向かうべき、すなわちグノーシス(完全なる認識)を会得する道筋が示されなければならない。
「ヨハネのアポクリュフォン」
(8)プロノイアの自己啓示(§80)
「ヨハネのアポクリュフォン」
(9)エピローグと署名(§81)
「ヨハネのアポクリュフォン」はプロノイアの自己啓示で終わる。プロノイアはここまでみてきたとおり、プレーローマの欠損(混乱)を鎮めるため至高神の代理のような形で、ヤルダバオートの奸計陰謀を阻止しようと奔走した。§80 においてその経緯を振り返りつつ、人類がグノーシス(完全なる認識)に向かうべきことを説く。肉体の牢獄、牢獄の鎖、深き眠り、貧困の天使、混沌の悪霊、陰府の内側、宿命、死・・・等にとらわれた人類がそこから解き放たれ、プレーローマへ、換言すれば闇から光へ昇天する道である。
だがしかし、(光の)プロノイアの実体は「ヨハネのアポクリュフォン」を読み通したこの段階でも、筆者にはつかめないままである。処女なる霊の思考、人類を栄光の場(プレーローマ)へ立て直す者であるというのだが、人(ひと)はどうしたら、栄光の場へ上昇することができるのだろうか。グノーシス(かんぜんなる認識)を獲得するには、どうしたらいいのか。人(ひと)はその内面において、貧困の天使や混沌の悪霊と対峙し、それらを精神的かつ肉体的に否定していけばいいのか。
救い主は「起き上がれ」「思い起こせ」「立ち戻れ」「・・・から身をまもれ」「・・・に気をつけなさい」という。そして自身は完全なるアイオーンへと帰昇してしまう。
おわりに
「ヨハネのアポクリュフォン」の精読をもって、『グノーシス主義を考える」という試論をひとまず終了することとする。この一篇がグノーシス主義のすべてというわけではもちろんないのだが、グノーシス主義のおおよその輪郭をつかめたと思うからである。
さて、この試論を書こうとしたきっかけは、〔第一部〕冒頭に引用した、ニーチェの一節からだった。彼は、正統派キリスト教が新約聖書と旧約聖書をともに「聖書」とし、「典籍そのもの」としたことに疑問を呈した。それが彼のいうように、ヨーロッパの文献界が良心に負うべき最大の破廉恥であり、「精神に背く罪」であるかどうかは別として、人類史に残された最大の疑問の一つとも思える。
そのことを換言すれば、青木健がいう、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるようになったことの不可解さにも通じる。青木はーーイエスの一代記(新約聖書)は、彼を救世主(キリスト)だと認めるかぎりにおいては、普遍性があるが、その前編である『旧約聖書』はユダヤ人の歴史である。エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人など、ユダヤ人に匹敵する長い歴史を有する人びとが、どういうわけか彼ら自らの神話を忘却し、代わりにユダヤ人の神話と歴史をもって普遍的な人類史だと確信するにいたってしまったのはなぜなのかと。
旧約の時代と新約の時代のあいだに、いかような思想的・精神的変動があったのか、なかったのか。そのあいだの歴史を抹殺したとしたら、歴史修正主義だともいえるのではないか。およそ2000年前における東部地中海世界の人々はなにを目指そうとしていたのか。そんな素朴な疑問をめぐらすことが、グノーシス主義に興味を覚えた経緯だった。と同時に、グノーシス主義が宗教界の表舞台から消えたのはなぜなのか、その主因の一端でもうかがえたらばと思った次第であるが、それを知る道のりははるかに遠い。
それでも、筆者が自覚する最重要の筆者にとっての課題は、グノーシス主義と現代宗教の関係の解明であり、そのキイ・マンとして、カール・グスタフ・ユングが挙げられよう。グノーシス主義を巡る旅はさらに遠い。〔完〕
参照文献
『善悪の彼岸』フリードリッヒ・ニーチェ 岩波文庫
『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』大田俊寛 春秋社
『古代オリエントの宗教』青木健 講談社現代新書
『『古代都市』フェステル・ド・クーランジュ 白水社
『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』ピーター・ブラウン 刀水書房
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』筒井賢治 講談社選書メチエ
『フーコー・コレクション2』ミシエル・フーコー ちくま学芸文庫
『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治〔編訳〕岩波文庫
『旧約聖書』
『新約聖書』
「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」大貫隆 東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)
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