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グノーシス主義を考える(4)

〔第二部〕グノーシス主義とはどのような思想なのか(その3)


『ナグ・ハマディ文書』を読む(3)

「ヨハネのアポクリュフォン」

(5)肉体的人間の創造(§58~69)

 ヤルダバオートが創造したアダムは動くことができなかった。そのアダムを助けたのが至高神が送り込んだ光輝く者たちであった。その者たちはアダムをよみがえらせ、ヤルダバオートをしのぐまでの力を与えた。それを知ったヤルダバオートとその配下の者は、アダムを捕らえると、物質界全体の底の部分へ投げ込んでしまった。
 それを知った至高神はアダムを救うため、 光のエピノイアすなわち「ゾーエー」と呼ばれる者を送り込んだ。ゾーエーはアダムすなわち人(ひと)をプレーローマへ帰昇する道へと導こうとしたのである。光のエピノイアは、ヤルダバオートと彼の配下にあるアルコーンたちに気付かれないように、また、彼らの企てからアダムを守るため、 アダムの中に隠れた。
 さて、§58から始まる叙述は、アダムをめぐる人(ひと)、換言すればわれわれ人類そのもの--の始原の物語にほかならない。ヤルダバオートは人(ひと)を自分たちが属する欺瞞的で邪悪な世界に留めようとする。その一方、光のアルコーンは人(ひと)を至高神が統御するプレーローマの秩序の下へ、正しい者であるよう力を尽くす、アダムをめぐり、両者の攻防が繰り広げられる。
 なお「ヨハネのアポクリュフォン」におけるこの間の記述は、『旧約聖書  創世記』等および『新約聖書』の一部を踏まえたものである。その該当する個所を参照するため(重複するものを含み)、都度掲載することとする。

§58 肉体の牢獄
すると、かの人間が、彼の中に在る光の影のゆえに現れてきた。そして彼の思考は彼を造った者たちすべてよりも高まった。彼らは、驚いて天を見上げると、彼の思考が高くなっているのを見た。そこで彼らは全諸力の群れおよび全天使の群れと協議した。彼らは互いに打ち合い、大いなる震動を巻き起こした。そして彼らは彼を死の影の中へ連れ込んだ。それは土と水を火と風から再び造り出すためであった。とはすなわち、物質--これは暗闇の無知のことである--と欲望と模倣の霊から。これこそ身体のこしらえ物の洞窟であり、人間の上に強盗たちが着せ付けたもの。忘却の鎖である。そしてこれが死ぬのが常の人間となったのである。これが最初に下降してきたものであり、最初の分裂である。しかしやがて彼の中に在ることになる光のエピノイア、彼女が彼の思考を呼び覚ますであろう。 

ナグ・ハマディ文書抄

§59 楽園への追放
そしてアルコーンたちは彼を連れ去り、楽園〔*〕の中に置いた。そして彼らは彼に、『食べよ』と言った。これはすなわち、安心して、という意味である。なぜなら、彼らの歓び〔創2-15,3-23~24ほか〕は苦く、彼らの麗しさは不法なものだからである。さて、彼らの歓びは偽りであり、彼らの木は瀆神であり、彼らの実は癒しがたい毒であり、彼らの確約は死である。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
2-15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
3-23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕やされた。
2-24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

旧約聖書

§60 「生命の木」
彼らの「生命の木」、それを彼らは楽園の中央に置いた〔創2-8〕。その彼らの生命の奥義が一体何であるのか、私は君に教えよう。それはすなわち、彼らが互いに交わした協議のことである。それはすなわち、彼らの霊のことである。それは根が苦く、その枝は死である。その影は憎しみであり、その業の中に宿るものは欺瞞である。そして、その芽吹きは邪悪の香油、その実は死である。その種子は欲望であり、暗闇の中に芽を出す。それを食べる者たち、彼らの住処は陰府である。そして暗黒が彼らの安らぎの場所である。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
2-8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

旧約聖書

§61 「善悪を知る木」
しかし彼らによって「善悪を知る木」〔創2-9〕と呼ばれたもの、これはすなわち光のエピノイアのことである。彼らは彼の面前に留まっていた。それは彼が彼のプレーローマを見上げて、自分の醜悪な形の裸を知ることがないようにするためであった。しかし、私は彼らを立て直し、食べるようにさせたのである。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
2-9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良よいすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた

旧約聖書

§62 蛇
そこで、私は救い主に言った、「主よ、アダムに教えて食べさせたのは、蛇ではなかったのですか〔創3-4〕」救い主は微笑みながら言った。「蛇は彼らに、滅びへの欲望の生殖行為の邪悪さから取って食べるように教えたのである。というのも、それが彼(=蛇=ヤルダバオート)にとって役立つものとなるためにそうしたのである。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
3-4 へびは女に言った、「あなたがたは決っして死ぬことはないでしょう」。

旧約聖書

 §59、 §60を意訳すれば、ヤルダバオートらはアダムを楽園に連れて行って、生命の木の実を食べなさいとアダムに言った。
 私(救い主=キリスト)はヤルダバオートらが置いた「生命の木」について、ヨハネにほんとうのことを教えた。ヤルダバオートらは、その実を食べれば安心できるとアダムを騙したのであるが、それは偽りである。なぜなら彼らの歓びは苦く、彼らの麗しさは不法なものだから。彼らの歓びは偽り、彼らの木は憎悪、彼らの実は癒す術のない毒であり、彼らの約束はアダムにとって死であるから。
 以下、ヤルダバオートらの「生命の木」の邪悪さが記述されている。
 §61 はわかりにくい。ここに登場する「善悪を知る木」とは前出の光のエピノイア、すなわちアダムを助けるために派遣された者のこと。
 大貫隆は「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」(東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)において、以下の通りの訳を与えている。《しかし彼らによって通常『善悪を知るため』と呼ばれるあの木から食べてはならぬ、とはっきり彼女に聞いてはならぬという戒めが発せられたのである。何故ならその戒めは、彼(アダム)が彼の完成を見上げて、その完成から自分が失われて裸であることに気付くことがないようにと、彼に敵対するものであったからである。しかし私は彼らがその木から食べるようにさせたのである。》
 アダムを騙した蛇は、「ヨハネのアポクリュフォン」ではヤルダバオートに同定される。

§63 忘却
ところが彼は、彼(アダム)が光のエピノイアのゆえに自分に対して不従順であることに気が付いた。それ(エピノイア)が彼の中に在って、彼を思考において第一のアルコーンより優れた者としたのである。そして彼は彼によって彼(アダム)に与えられたあの力を取り戻したいと思った。
「彼はアダムの上に忘却をもたらした」。
そこで、私は救い主に言った、「忘却とは何のことですか」。
すると、彼は言った、「それはモーゼが書き記し、君がそれを聞いたようにではなくーーというのは、彼は彼の第一の書で、『彼は彼を眠らせた』(創世記2-21)と言っていたからであるーーむしろ彼(アダム)の知覚において(そうしたのである)。それは実にあの預言者を通してこう言った通りである。『私は彼の心を重くしよう。それは彼が悟ることも見ることもないためである。(84イザヤ6-10) 

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
2-21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた

旧約聖書

イザヤ書
6-10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである

旧約聖書

 ヤルダバオートの反撃である。自分よりも優れた威力を備えたアダムを眠らせて、忘却(悟ることも見ることもできないように)させようとした。
 なお、*楽園については、前掲書⑥の「補注・用語解説・索引」P508に興味深い記述があるので紹介しておく。
 エデンの園は「東の方」に設けられたとされ、読者には平面の連想を誘う。しかし、新約時代になると、それとは対照的に垂直軸に沿って楽園を、「第三の天」に位置付ける見方があることは、すでにパウロの証言(『新約聖書』「コリント人への第Ⅱの手紙12章1-4」)から知られる。グノーシス主義の神話でも原則として常に垂直軸の見方が前提とされている。〔後略〕(ただし、)その空間的位置付けは(具体的には)よく分からないという。

コリント人への第Ⅱの手紙12章
1 わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう
2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた——それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである
3 この人が——それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである——
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている

新約聖書

§64 女の創造
その時、光のエピノイアが彼(アダム)の中に身を隠した。そして第一のアルコーンは彼女を彼(アダム)のあばら骨から取り出すことを欲した。しかし、光のエピノイアは捕らえ難き者である。闇が彼女を追いかけたが、捕らえることはできなかった。(ヨハネ1-5)そこで彼は彼(アダム)の力の一部を彼(アダム)の中から抜き取った。そして彼はもう一つ別のこしらえ物を、彼に現れたエピノイアの像に従って、女の形で造った。そして彼はその人間(アダム)の力から取った一部を、女性性のこしらえ物の中へ移した。そしてそれはモーセが『彼のあばら骨』と言った(86創世記2-21,22)ようにではなかった。すると彼(アダム)は自分のそばにその女を見た。

ナグ・ハマディ文書抄

ヨハネの第一の手紙
第1章の5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない

新約聖書

創世記
2-21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
2-22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた

旧約聖書

 旧約聖書のエバの創造に当るところの叙述であるが、〔ヤルダバオート〕対〔至高神が遣わせた光のエピノイア〕の確執として描かれる。
 女の創造もまた、創世記の記述とは異なり、光のエピノイア(女性神)の影像に似せてヤルダバオートが造った〝まがいもの”にアダムの中に在った霊力を吹き込んだものとして誕生する。そしてアダムは女という者を初めて見ることになる。

§65 「すべて生ける者の母」
すると、その瞬間に光のエピノイアが現れて、彼の心の上に置かれていた被いを取り去った。すると彼は闇の酩酊から目覚め、彼の像を知った。そして言った、『これこそ私の骨、私の肉の肉。それゆえに人は父と母を離れて、妻と結び合い、二人は一つの肉となるであろう』。なぜなら、彼に彼の伴侶が送られるであろうから。《そして彼は父と母を離れて妻と結び合い、二人は一つの肉となるであろう。なぜなら、彼に彼の伴侶が送られるであろうから。彼は父と母を離れ》
しかし、われらの姉妹である「知恵」、彼女が自らの欠乏を立て直すために、悪意なしに下ってきた。このゆえに彼女は「ゾーエー」、とはすなわち、「生ける者の母」と呼ばれた。

ナグ・ハマディ文書抄

 アダムが光のエピノイアの働きかけによって目覚め、自分自身の像を認めた。そして、妻と結び合う、すなわちエバと結ばれることを予見し宣言する。するとゾーエー(§57に初出)すなわちは光のエピノイア(ソフィア・ゾーエーとも表記される文書もある)がアダムの下におりてくる。「ゾーエー」とはギリシア語で「永遠の生命」という意味。これまでもヤルダバオートの企てに対抗して働いてきた女性的救済者であり、「生ける者の母」と呼ばれる。

§66 エピノイアの啓示
天(高きところ)からの委任のプロノイアによって。そして彼女によって彼らは完全なる認識を味わった。私は鷲の姿で知識の木ーーとはすなわち、純粋なる光のプロノイアに由来するエピノイアのことであるーーの上に現れた。それは私が彼らを教え、彼らを眠りの深みから呼び覚ますためであった。なぜなら、二人(アダムと女と)も堕落の中にあったからである。すると彼らは自分たちの裸に気が付いた。エピノイアが輝きながら、彼らの思考を立て直すために現れた。

ナグ・ハマディ文書抄

 アダムと女はプロノイア(この場合は天から遣わされた救済者の意)によって「完全な認識を味わった」とあるその認識とは、グノーシス(ギリシア語で認識の意)に達した、とでも表現できるだろうか。自分の霊的な本質を認識するかどうかによって個々人の救済がかかっているというのが、グノーシス主義の神髄であるからである。グノーシス=認識=知識はほぼ同義。プロノイアは鷲の姿で堕落したアダムと女を眠りから醒まさせたところ、二人は自分たちの裸の姿に気付いたのである。

§67 楽園からの追放
しかし、ヤルダバオートは、彼らが自分から離反したことに気付いたとき、彼の地を呪った。彼はその女が、彼女の夫のために身を整えているのを見た。彼は、聖なる決定によって(その時)すでに生じていた奥義を知らないままに、彼女を支配していた(創世記3-16)。しかし、彼らは彼(ヤルダバオート)を非難することを恐れた。ところが彼は彼の天使たちに、彼の中にあった無知をさらけ出してしまった。そして彼は彼ら(アダムと女)を楽園から追放した。そして、彼は彼らを暗黒の闇で覆った。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
3-16 16 (主なる神は)つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう。

旧約聖書

§68 性欲の誕生
そして第一のアルコーンは、アダムと共に若い女が立っているのを、また、生命の光のエピノイアが彼女の中に現れたのを見た。そしてヤルダバオートは無知でいっぱいになった。
しかし、万物のプロノイアは、(これに)気が付いたとき、何人かの者を送り出した。そして彼らはエバから生命を抜き取った。
それから第一のアルコーンが彼女を辱めた。そして彼女によって、一番目と二番目の二人の息子、すなわちエローイムとヤウェをもうけた。エローイ(ム)の方は熊の顔をした者、ヤウェの方は猫の顔付をした者である。その一方は義なる者であるが、他方は不義なる者である。彼はヤェウェの方を人風の上に据え、エローイムの方を水と土の上に据えた。これら(二人)はカインとアベル(創世記4)の名で呼んだ。その際彼は自分の狡猾さを見ていたのである。実に今日にいたるまで、この第一のアルコーンによって、(男女の性的)交接が存続して来た。そして彼が欲望の生殖をアダムのそれの中に植え付けたのである。そこで、彼は交接によって、肉体の像での生誕を呼び起こし、彼らに自分の模倣の霊を分与した。ところで、その二人のアルコーンを彼はいくつかの要素の上に立てて、彼らが洞窟を支配するようにした。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
4-1~26
1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3~26(略)

旧約聖書

 またもやヤルダバオート(第一のアルコーン)の反撃が開始されたのである。
 『旧約聖書』では、蛇に騙されて禁断の木の実を食べた女(エバ)は、主なる神によって楽園を追放されるのだが、「ヨハネのアポクリュフォン」では、覚醒し認識に達したアダムと女(エバ)をヤルダバオートが楽園に追放し暗闇に覆ってしまうという筋書きになっている。
 ますます無知を増大させ(狼藉を重ねようとする)ヤルダバオートに気付いた万物のエピノイアは助けを求め、エバから生命を抜き取った。そのとき、ヤルダバオートがエバを凌辱し妊娠させ、エローイムすなわちエローヒム(旧約聖書で「神」を意味する普通名詞)とヤウェすなわちヤハウェ(旧約聖書の神の固有名詞)が産まれた。ヤルダバオートは二人をカインとアベルと呼んだ。
 「ヨハネのアポクリュフォン」では、人類の生殖がヤルダバオートという無知なる造物神によって始まりいまに至っていると説く。さらに欲望の生殖すなわち性欲をアダム(およびエバ)に植え付けたとも。
 そればかりではない。ヤルダバオートは交接により肉体の像すなわち霊に劣後する物質による生誕をつくりあげて、自分の霊をその中に入り込ませ、(ヤルダバオートの配下にある)二人のアルコーンを使って洞窟(目に見える現実世界のこと。プラトンの『国家』からの譬え)を支配するようにしたのである。

§69 セツとその子孫
さて、アダムが彼自身の「第一の認識」の摸像を知ったとき(創世記4-25)、彼は「人の子」の模像を生み出した。彼はそれをアイオーンにある種族に倣ってセツと呼んだ。同様にあの別の母親が彼女の霊を、彼女に似た女の姿で、また、プレーローマにある者の影像として、下方へ送った。それはやがて下ってくるべきアイオーンのために、住むべき場所を彼女が用意するためであった。
そして、彼は第一のアルコーンによって彼らに忘却の水を飲ませた。それは彼らが自分たちがどこから由来する者であるかを知ることがないようにするためであった。そしてこれがすなわち、(セツ)の種子がしばらくの間置かれれていた状態であったが、それ(種子)はその間も働いていた。それは、聖なるアイオーンから霊が到来するならば、その霊がそれ(種子)を立て直し、欠乏から癒すことになるため、(そうして)全プレーローマが聖なるもの、また、欠けのないものとなるためである」。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
4-25 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産うみ、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」。

旧約聖書

 再びセツの登場である。「ヨハネのアポクリュフォン」では、§25に初出する。その説明を繰り返せば、グノーシス主義の一派が、創世記に出てくるセツ(セトという表記もある)に神話論的あるいは救済論的に重要な役割を負わせ、自分たちをその子孫と見做したことが確認されているというが、「セツ派」の歴史的実態はよくわかっていないらしい。
 (§66 で)アダムが本質(完全なる認識)の模像を知ったとき、彼は「人の子」の模像を生み出し、それを霊界にある種族に倣ってセツと呼んだ。同様に、あの別の母親すなわちプロノイアが彼女の霊を、彼女に似た女の姿で、プレーローマにある者の影像として、下方へ送った。それは影像が住むべき霊界(場所)を用意するためである。
 そしてアダムは第一のアルコーンすなわちヤルダバオートによって、彼らに忘却の水を飲ませた。それは彼らがどこに由来する者であることを知ることがないようにするためである。そのことは、セツの種子(子孫)がしばらく置かれた状態であるのだが、セツの子孫はその間も働いていて、聖なるアイオーン(霊界)から霊が到来するならば、その霊がセツの種子(子孫)を立て直し、プレーローマの欠乏(とはすなわち、ソフィアの過失から生じたその内部に生じたこれまで伝えられた混乱した事態=ヤルダバオートの誕生→「つくり物」あるいは牢獄としての下方の世界および肉体の派生)を癒すため、全プレーローマが聖なるもの、欠けのないものとなるためである」。

「ヨハネのアポクリュフォン」

(6)終末論(§70~75)

 重複するが、§44 で説明したように、グノーシス主義における終末とは、プレーローマの中に生じた過失の結果として物質的世界の中に散らされた神的本質(霊、光、力)が、再び回収されてプレーローマに回帰し、万物の安息が回復されることをいう。その際、霊的なものはプレーローマに入るが、心魂的なものは「中間の場所」に移動し、残された物質的世界は「世界大火」によって焼き尽くされるという記述もある。(『ナグハマディ文書 写本2 この世の起源について』)
 ここからの叙述は、地上の者(すなわち人類)に向けて、救済の道を説く。人(ひと)がグノーシス(完全なる認識)を自得し、邪悪さに満ちた地上から、聖なるプレーローマへ再び帰昇する道である。ヨハネと救い主(キリスト)と問答形式で展開する。

§70 人間の相違なる運命
そこで、私は救い主に言った、「主よ、すべての(人間の)魂が混じりなく光へと救われれるのですか」。
彼は答えて、私に言った、「大いなる事柄が(今や)君の考えに上ってきた。というのは、揺らぐことのない種族に由来する者たち以外にそれ(らの事柄)を現すことは難しいからである。生命の霊がその上に到来し、あの力と共に在ることとなる者たちは救われ、完全なる者たちとなることであろう。そして彼らは大いなるものにふさわしい者となるであろう。その際、彼らはただ不滅性以外のことには何一つ気を配らず、それ以後、怒り、妬み、そねみ、欲望、そしてあらゆる物に対する飽くことなき貪欲を離れて、それ(不滅性)について思い量るであろう。そして彼らが身に負っている肉の実体以外には何一つ彼らを捕らえるものはないであろう。彼らは(彼らを)受け入れる者たちによって訪ねられる時を待ち望んでいるのである。実際、子の種族の者たちは不朽の永遠の生命と(そこへの)召命にふさわしい者たちであり、すべてに耐え、すべてを忍ぶであろう。それは彼らが善きものを完成し、永遠の生命を嗣ぐためである」。

ナグ・ハマディ文書抄

 救い主(キリスト)は答えて、救われる者について説明する。
 〝救われる者は揺らぐことのない種族に由来する者で、生命の霊が彼らの上に到来する者たちは、その力と共に在り、救われ、完全な者となるであろう。 
 彼らは不滅性以外には気を配らず、怒り、妬み、そねみ、欲望、そしてあらゆる物に対する飽くことのない貪欲を離れて、不滅性について思い量るであろう。ただ肉という実体以外を除いては、何一つ捕らえられるものはないでろう。
 というのは、彼らは何時、自分たちの魂が肉体から引き上げられて迎えの者たちによって永遠かつ不朽の生命と(そこへの)召命の尊厳さの中に受け入れられることになるのか、その時を待ち望む間は、それ(肉体)を用いるのである。その際には、彼らは戦いを勝ち抜き、永遠の生命を嗣ぐために、あらゆることに耐え、すべてを忍ぶであろう″と。

§71 人間の相違なる運命(つづき)
私は彼に言った、「主よ、その上に生命の霊が下ってきた魂で、これらのことをしなかった魂は・・・
・・・すなわち、霊が。彼らはどのような場合にも救われるであろう。そして、この者たちは脱出するであろう。なぜなら、その力は(なるほど)すべての人間の上に到来するであろう。というのも、その力なしには誰一人立つことができないからである。しかし、彼らが生み出されると、また、生命の霊が増すならば、その時には、力が到来するのが常であり、その魂を強めるものである。そして、それ(その魂)を悪の業の中へと迷わせることは誰にもできないものである。だが、あの模倣の霊がその上に到来する者たちは、これ(その霊)によって誘惑されて迷うようになるのが常である。

ナグ・ハマディ文書抄

 冒頭の一節はわかりにくい。前出の「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」(大貫隆〔著〕東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)を参照すると、《私は主(キリスト)に、「救いに与えるようにと、あの力と生命の霊がその中に入った魂でも、もしこのようにしなかった場合は、彼らはどうなるのですか》とある。その回答として、キリストは、どのような場合にも救われるであろう、その力はすべての人(ひと)の上に到来するであろう。その力がなければ誰も立つことができないからである〔後略〕。
 ただし、あの模倣の霊(ヤルダバオートの部下の天使たちがエピノイアに似せて創り出し、人(ひと)の娘たちを誘惑して、子供を産ませる力)によって誘惑されて迷うようになるのが常である。

§72 人間の相違なる運命(つづき)
そこで、私は言った、「主よ、それでは、この者たちの魂ですが、それらは彼の肉を離れた後、どこへゆくことになるのですか」。
すると、かれは微笑んで私に言った、「その力が内側で、忌むべき霊(=模倣の霊)よりも増大することとなる魂、この魂は強い。そしてそれは悪を離れるものである。また、不朽なる者の訪れによって救われ、永遠の安息へとと受け入れられるものである。

ナグ・ハマディ文書抄

 救い主の回答の冒頭の「この者たちの魂」のこの者とは、〝魂の上に生命の霊が到来した者たち”のことで、〝模倣の霊が到来した者たち”のことではない。

§73 人間の相違なる運命(つづき)
そこで、私は言った、「主よ、では自分たちが誰に属するものなのか認識しなかった者たちについては、彼らの魂は一体どこへゆくのですか」。
すると彼は私に言った、「その者たちの場合は、彼らが迷った際に、忌むべき霊が彼らの中で増大してしまったのである。そして、それはその魂を抑えつけて、悪の業へと引きずってゆき、忘却へと投げ捨てるものである。そして、それ(魂)は、(そこから)抜け出てきた後は、あの(第一の)アルコーンによって存在するようになった諸力たちの手に渡される。そして彼らはそれ(魂)を鎖に繋ぎ、牢獄に投げ込み、あちこち連れて動き回る。それ(魂)が忘却から目を覚まし、認識受け取る時まで。そしてそれは、もしそのようにして完全な者となるならば、救われるのである」。

ナグ・ハマディ文書抄

 グノーシス(完全なる認識)に達しなかった魂の行方を問うたヨハネに対し、救い主(キリスト)は、忌むべき霊が増大し、悪の業へと引きずられた魂は、ヤルダバオートの手下の天使たちに渡され、彼らによって鎖に繋がれ、牢獄に投げ込まれる、と説く。ただし、その魂が忘却から目を覚まし、グノーシス(本質の認識)を受け取るならば、救われると。

§74 人間の相違なる運命(つづき)
そこで、私は言った、「主よ、それではどのようにして魂は少しずつ小さくなって、母親、あるいは夫の自然(の身体)の中へ戻ったのですか」。私がこのことを彼に尋ねると、その時彼は喜んだ。そして私に言った、「君は実に幸いである。君は(今や)理解したのだから。その魂は、生命の霊を内に宿した別の魂の後に従わせられるものである。それ(その魂)はこれ(生命の霊)によって救われ、また別の肉の中へ投げ込まれることはない。

ナグ・ハマディ文書抄

 魂すなわち心魂的人間は、その肉体と等身大だと考えられているので、このような問いとなる。

§75 人間の相違なる運命(つづき)
そして私は言った、「主よ、確かに認識はしたものの、道を逸れてしまった者たち、彼らの魂は一体どこへゆくのですか」。
その時、彼は私に言った。「貧困の天使たちが行くであろう場所へ、その場所へと彼らは迎えられるであろう。すなわちそれは、悔い改めが存在しない場所である。そして彼らは(そこに)拘禁されているであろう。霊に逆らった者たちが拷問を受け、永遠の刑罰によって処罰される日まで(マタイ12-32 マコ3-29 ルカ12-10)。

ナグ・ハマディ文書抄

マタイ伝
12-32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
マルコ伝
3-29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。
ルカ伝
12-10 また、人の子に言い逆う者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

新約聖書

「ヨハネのアポクリュフォン」

(7)補論・模倣の霊について(§76~79) 

§76 模倣の霊の起源について
そこで、私は言った、「主よ、その忌むべき霊は一体どこからやってきたのですか」。
すると、彼は私に言った、「憐みに富む母父、あらゆるかたちを備えた聖なる霊、情け深く、君たち共に労する者、とはすなわち、光のプロノイアのエピノイアことである〈・・・〉。そして彼は完全なる種族の種子とその思考、また、人間の永遠の光を呼び覚ました。
第一のアルコーンは、彼らが高さにおいて彼より勝り、彼より多くを思考するということに気が付いたとき、彼らの思考力を捕らえようと欲した。その際彼は、彼らが思考において彼よりも高いということ、また、彼らを支配することはできないだろうということを知らなかったのである。

ナグ・ハマディ文書抄

 忌むべき霊(宿命)に勝る光のプロノイアのエピノイアが完全なる啓示(原啓示)を呼び覚ましたにもかかわらず、模倣の霊すなわち第一のアルコーン(ヤルダバオート)は、光のプロノイアの方が自分より勝り多くを思考するということに気付いたとき、それを捕らえようと欲した。なぜなら、ヤルダバオートは(無知だから)、彼らを支配することができないということを知らなかったからである。(だから、そこから忌むべき霊がやってきてしまったのだ)。なお〈・・・〉の部分は写本に欠損はないが、内容的に一定量の本文が失われていると推定される箇所だという。(前掲書⑥注104/P220)
 そして、以降、忌むべき霊(宿命)が論じられる。

§77 宿命
彼は彼の諸力たち、すなわち彼の勢力たちと協議した。そして彼らは「知恵」と互いに(順に)姦淫を犯した。彼らによって宿命の打撃が生み出された。
これ(宿命)はすなわち、変転する究極の鎖である。そして、それがどのような性質《性質》のものであるわけは、彼らが互いに変転し合っているためである。そして、それ(宿命)は、神々と天使たちと悪霊たちとすべての世代が今日まで混ぜ合わせてきた宿命よりも、さらに過酷で強力である。なぜなら、かの宿命からこそあらゆる邪悪と暴力と呪詛と忘却のあらゆる困難な命令と重大な罪と大いなるおそれが生じてきたからである。そして、このようにして全被造物が盲目とされた。それは彼ら(=全被造物)が彼らの上にいる神を知るに至ることがないためであった。また、忘却の鎖のゆえに彼らの罪は彼らに隠されたままであった。なぜなら、彼らは、それ(宿命)が万物の上に支配することによって、度量と時間と時点に縛られたからである。 

ナグ・ハマディ文書抄

 第一のアルコーン(ヤルダバオート)は彼に支配下にある霊と協議し、彼らは知恵と順に姦淫を犯し、宿命という打撃を生み出した。この宿命は彼らが互いに変転し合っているがゆえに、それまでの宿命よりも苛酷で強力であり、邪悪・暴力・呪詛・忘却とあらゆる困難さを命令し重大な罪とおそれが生じようとしてきた。そして、全被造物の上にいる神を知ることがないようにするため、全被造物を盲目にしようとした。そして忘却の鎖のため、全被造物の罪を隠そうと謀ろうとした。宿命が万物の上に君臨するよう全被造物を拘束した。

§78 ノアの洪水
そして彼は彼によって生じたあらゆるものを悔いた(創世記6-6)。再び彼は人間の業(わざ)の上に洪水をもたらすことに決めた(同6-17)。しかし、プロノイアの光の大いなる者がノアに教えた。彼(ノア)はすべての子孫ーーとはすなわち、人の子らのことであるーーに(そのことを)告げ知らせたが、彼のことを知らない者たちは、彼に耳を貸さなかった。それはモーゼが『彼らは方舟に身を隠した(創世記6-17)』と言ったようにではなく、むしろ彼らはある場所に身を隠したのである。ただ、ノア一人だけではなく、むしろ揺らぐことのない種族の多くの人間たちもある場所へゆき、(そこで)光の雲で身を隠したのである。そして彼(ノア)は彼の権威を認識した。そしてあの光からの者が彼と共にいた。それは彼らを照らした者である。なぜなら、全地の上に彼(ヤルダバオート)が暗闇をもたらしていたからである。

ナグ・ハマディ文書抄

創世記
6-6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め
6-17 わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅し去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。

旧約聖書

 前掲書⑥注(106)/P220によると、「模倣の霊」(忌むべき霊)の起源がノアの時代にあったとされ、ユダヤ教の中にも、旧約聖書と新約聖書の中間時代以来、善霊と悪霊の起源をやはりノア時代に遡らせる伝承があるという。
 創世記では主が人を造ったことを悔いたのだが、「ヨハネのアポクリュフォン」ではヤルダバオートがそのことを悔いたことになっている。そればかりではない。創世記ではノアが方舟をつくりそれに乗って洪水を逃れたのだが、ノアばかりか、揺らぐことのない種族も、光の雲で身を隠したことになっている。

§79 人間の娘たちとの姦淫
そして彼は彼の勢力たちと共に協議した。彼は彼の天使たちを人間の娘たちのもとへ送った。それは彼らが彼女らから(何人かを)自分たちのために取って、子孫を生じさせて、享楽するためであった。彼らは初め成功しなかった。彼らは成功しなかったので、今や再び互いに集まって、もう一度協議した。彼らは(上から)下ってきたあの霊の姿に似せて忌むべき霊を造り出した。それはそれによって魂を汚すためであった。そして天使たちは彼女らの配偶者の姿に従ってその姿を変え、彼女たちを暗闇の霊ーーそれは彼らが彼女らの上に混ぜ合わせたものであるーーと悪意でいっぱいにした。彼らは金、銀、贈り物、銅、鉄、金属およびあらゆる種類の善き物を持参した。そして、彼らは彼らの後に付き従った人間たちを大いなる不安の中へ陥れ、多くの迷いの中へ引きずり込んだ。彼ら(人間たち)は何の安楽も得ぬまま年老いてしまった。彼らは死んでしまった。彼らは何一つ心理を見いださず、真理の神を認識していなかった。そして、このようにして全被造物は世界の基が据えられたときから今に至るまで、永遠に奴隷とされてきた。そして彼らは女たちを取って、暗闇から、彼らの霊のかたちに従って、子供を生ませた。そして、彼らの心は閉ざされてしまい、忌むべき霊の頑なさによって頑なにされて今日に至っている。

ナグ・ハマディ文書抄

 このセクションで注目すべきは、《全被造物は世界の基が据えられたときから今に至るまで、永遠に奴隷とされてきた》、そして《全被造物の心は閉ざされてしまい、忌むべき霊の頑なさによって頑なにされて今日に至っている》という叙述である。
 これまでみてきたとおり、ヤルダバオートの誕生以来、彼と至高神とのあいだでは幾度となく善と悪をめぐる攻防が繰り広げられてきた。にもかかわらず、彼が引き起こした大洪水を経てもなお、世界の基が据えられたときから今に至るまで、全被造物は彼の忌むべき霊の呪縛から解き放たれていないと認めているのである。人類は、忌むべき霊から解放されていないのである。ならば、当然、人類が善に向かうべき、すなわちグノーシス(完全なる認識)を会得する道筋が示されなければならない。

「ヨハネのアポクリュフォン」

(8)プロノイアの自己啓示(§80)

§80 プロノイアの自己啓示
さて今や私が、すなわち、万物の完全なるプロノイアが私の子孫たちの間に姿を変えた。
なぜなら、私は太初に存在し、すべての行く道を行ったのだから。なぜなら、私は光りの豊満であるから。私はプレーローマの想起である。しかし、私は大いなる暗闇の中を歩んだ。私は(それに)耐えて、牢獄の中央まで進んだ。すると、混沌の底が揺れ動いた。そして、私は彼らの邪悪のゆえに、彼らから身を隠した。彼らは私に気が付かなかった。
再び私は二度目に内側へ向きを変えた。私は道を進み、光の領域から歩み出た。すなわち、プロノイアの想起であるこの私が。私は暗闇の真ん中へ、陰府の内側へ入っていった。私の定めを尋ね求めて。すると、混沌の底が揺れ動き、混沌の中にいる者たちの上にも落ちかかって、彼らを滅ぼさんばかりになった。そこで私はもう一度私の光の根本へと駆け昇った。彼らが時の満ちる前に滅ぼされることがないように。
なおも三度目の道を進んだ。光の中に在る光であるこの私が。プロノイアの想起であるこの私が。それは暗闇の真ん中へ、陰府の内側へやって来るためであった。私は自分の顔を彼らのアイオーンの完成の光で満たした。そして、私は彼らの牢獄ーーとはすなわち、肉体という牢獄のことであるーーの真ん中へ入っていった。そして言った、『聞く者よ、深き眠りから起き上がれ!』。すると、彼は泣いた。そして重い涙を流した。彼はそれ(涙)を拭い去って、言った、『わが名を呼ぶのはだれか。また、この希望は一体どこからやってきたのか。私は牢獄の鎖に繋がれているというのに』。そこで私は言った、『私は純粋なる光のプロノイアである。私は処女なる霊の思考である。この方(処女なる霊)は君を栄光の場所へ立て直す者である。起き上がれ、そして思い起こせ。なぜなら、君はすでに聞いた者なのだから。そして君の根っこーーとはすなわち、この私、憐みに富む者のことであるーーに立ち戻れ。貧困の天使と混沌の悪霊たち、また、すべて君にまとわりつく者たちから身を守れ。そして、深い眠りと陰府の内側の覆いに気をつけていなさい』。それから私は彼を立ち上がらせ、水の中の光の中、五つの封印で封印した。それは死がこの時より後、彼の上に支配することがないためであった。
そして見よ、今や私は完全なるアイオーンへと昇って行こうとしている。

ナグ・ハマディ文書抄

「ヨハネのアポクリュフォン」

(9)エピローグと署名(§81)

§81 エピローグと署名
私はすでにあらゆることを君の耳に入れ終えたが、それは君がそれを書き留めて、君の霊の仲間たちに密かに伝えるためである。なぜなら、これは揺らぐことのない種族の奥義だからである」。そして救い主は彼にこれらのことを与えて、書き留めさせ、しっかりと預け置かせた。そして彼は彼に言った。「これらのことを贈り物、あるいは食べ物、あるいは飲み物、あるいは着物、あるいは他に何かこの種の物と引き換えに与える者は誰であれ呪われよ」。
そしてこれらのことを密かに彼(ヨハネ)に与えられた。すると彼は直ちに彼の前から消え去った。そして彼(ヨハネ)は彼の仲間の弟子たちのもとへ行き、彼に救い主が告げ知らせたことを彼らに伝えた。イエス・キリストが。アーメン。

ナグ・ハマディ文書抄

 「ヨハネのアポクリュフォン」はプロノイアの自己啓示で終わる。プロノイアはここまでみてきたとおり、プレーローマの欠損(混乱)を鎮めるため至高神の代理のような形で、ヤルダバオートの奸計陰謀を阻止しようと奔走した。§80 においてその経緯を振り返りつつ、人類がグノーシス(完全なる認識)に向かうべきことを説く。肉体の牢獄、牢獄の鎖、深き眠り、貧困の天使、混沌の悪霊、陰府の内側、宿命、死・・・等にとらわれた人類がそこから解き放たれ、プレーローマへ、換言すれば闇から光へ昇天する道である。
 だがしかし、(光の)プロノイアの実体は「ヨハネのアポクリュフォン」を読み通したこの段階でも、筆者にはつかめないままである。処女なる霊の思考、人類を栄光の場(プレーローマ)へ立て直す者であるというのだが、人(ひと)はどうしたら、栄光の場へ上昇することができるのだろうか。グノーシス(かんぜんなる認識)を獲得するには、どうしたらいいのか。人(ひと)はその内面において、貧困の天使や混沌の悪霊と対峙し、それらを精神的かつ肉体的に否定していけばいいのか。
 救い主は「起き上がれ」「思い起こせ」「立ち戻れ」「・・・から身をまもれ」「・・・に気をつけなさい」という。そして自身は完全なるアイオーンへと帰昇してしまう。

おわりに

 「ヨハネのアポクリュフォン」の精読をもって、『グノーシス主義を考える」という試論をひとまず終了することとする。この一篇がグノーシス主義のすべてというわけではもちろんないのだが、グノーシス主義のおおよその輪郭をつかめたと思うからである。
 さて、この試論を書こうとしたきっかけは、〔第一部〕冒頭に引用した、ニーチェの一節からだった。彼は、正統派キリスト教が新約聖書と旧約聖書をともに「聖書」とし、「典籍そのもの」としたことに疑問を呈した。それが彼のいうように、ヨーロッパの文献界が良心に負うべき最大の破廉恥であり、「精神に背く罪」であるかどうかは別として、人類史に残された最大の疑問の一つとも思える。
 そのことを換言すれば、青木健がいう、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるようになったことの不可解さにも通じる。青木はーーイエスの一代記(新約聖書)は、彼を救世主(キリスト)だと認めるかぎりにおいては、普遍性があるが、その前編である『旧約聖書』はユダヤ人の歴史である。エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人など、ユダヤ人に匹敵する長い歴史を有する人びとが、どういうわけか彼ら自らの神話を忘却し、代わりにユダヤ人の神話と歴史をもって普遍的な人類史だと確信するにいたってしまったのはなぜなのかと。
 旧約の時代と新約の時代のあいだに、いかような思想的・精神的変動があったのか、なかったのか。そのあいだの歴史を抹殺したとしたら、歴史修正主義だともいえるのではないか。およそ2000年前における東部地中海世界の人々はなにを目指そうとしていたのか。そんな素朴な疑問をめぐらすことが、グノーシス主義に興味を覚えた経緯だった。と同時に、グノーシス主義が宗教界の表舞台から消えたのはなぜなのか、その主因の一端でもうかがえたらばと思った次第であるが、それを知る道のりははるかに遠い。
 それでも、筆者が自覚する最重要の筆者にとっての課題は、グノーシス主義と現代宗教の関係の解明であり、そのキイ・マンとして、カール・グスタフ・ユングが挙げられよう。グノーシス主義を巡る旅はさらに遠い。〔完〕

参照文献

『善悪の彼岸』フリードリッヒ・ニーチェ 岩波文庫
『グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション』大田俊寛 春秋社
『古代オリエントの宗教』青木健 講談社現代新書
『『古代都市』フェステル・ド・クーランジュ 白水社
『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜ、キリスト教化したか?』ピーター・ブラウン 刀水書房
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』筒井賢治 講談社選書メチエ
『フーコー・コレクション2』ミシエル・フーコー ちくま学芸文庫
『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治〔編訳〕岩波文庫
『旧約聖書』
『新約聖書』
「ヨハネのアポクリュフォン(ベルリン写本)-翻訳と註」大貫隆 東京女子大学紀要論集 39 (1), 63-85, 1988-09-10)
Wikipedia

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