1930年代(30)
満州事変90周年(その1)
満蒙移民の悲劇
拙稿の執筆を開始した昨年(2021)は満州事変から90年に当たっていた。90はまるい数字ではあるけれど、周年事業にはなじまない。あと10年経過すれば100周年にあたる。そんなこともあり満州事変90周年に係る事業・報道等は、管見のかぎりではあるが、目立たなかったように思う。
そんななか、『幻の村――哀史・満蒙開拓』(手塚孝典〔著〕早稲田新書)及び『101歳からの手紙~満洲事変と満洲国~〔先川祐次・三浦英之〕〈ウエブサイトwithnews〉』が目に留まった。前者は、満蒙で自決した開拓民の報を受けて満蒙開拓を推進した村の有力者が自殺した経緯等を取材した、迫真のドキュメンタリーである。後者は、御年101歳の満洲国総務庁の元官吏・先川祐次が、満州事変から90年のときを迎え、当時の内実をつづった「手紙」を親交のある朝日新聞の三浦英之記者に寄せたもの。どちらも、「満州国」とはなんだったのかを伝える貴重な資料である。
本題の「1930年代」を超えた問題ではあるが、「満州国」建国に伴う、満蒙移民について考えてみることにした。
1930年代は満州事変ではじまった
歴史の転換点というものはある。それまでのさまざまな要因が結晶化してその事象が現れるにしても、〈起きたこと〉が歴史に刻まれる。1931年(昭6)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で日本の関東軍が爆破事件を起こした。そのことが、日本近現代史における転換点だったと筆者は考えている。ここで、重複するが1930年代を年表で振り返ってみる。
満州事変の翌年(1932)、あたかも堰を切ったように、日本を揺るがす不穏な事件が続発し、その流れはほぼ一直線に1941年の真珠湾奇襲攻撃によるアメリカとの開戦に至る。快進撃を続けるようにみえた日本軍であったが、1942年、ミッドウェー海戦の敗北を機に日本軍はアメリカを中心とした連合軍の反撃にあい撤退につぐ撤退を繰り返したあげく、国土は焦土と化し、320万近くの戦死者を出して1945年、連合軍に無条件降伏した。
「満州国」と満蒙開拓団
「満州国」を「建国」した日本帝国政府は、満蒙開拓移民を積極的に推進しようとした。農本主義者の加藤完治〔注1〕が移住責任者となり、満州拓殖公社〔注2〕が業務を担った。大陸政策の要であり、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとしても遂行されたという。1931年(昭6)の満州事変から1945年(昭20)の敗戦までの期間に、満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総数は、日本各地から27万人に達した。
しかし、関東軍の期待に反して、満蒙への移民数の伸びは、はかばかしくはなかった。とりわけ、前出の『幻の村』(以下「前掲書」という)が扱っている長野県等の養蚕が盛んだった農村部は、1929年の大恐慌によりアメリカへの生糸輸出が大打撃を受け、現金収入の道を絶たれたため窮乏化が進んだが、それでも、冬場に零下30度を記録するような異国・満蒙に移住を決意する農民は少なかった。さらに日中戦争の長期化、大規模化に伴い、戦時体制・軍需産業拡大が農村部にまで波及し、農村は「職工農家」に転じ、生活の安定も図れるようになっていた。
日本帝国における満蒙開拓移民政策
「満州国」への移民政策の変遷を前掲書に従って、追ってみよう。その本題にある〈沈黙の村〉とは、長野県南部に位置する河野村(現在は市町村合併に伴い豊丘村と改称)のことだ。同村を含む一市三町十村は飯田下伊那と総称され、連合組織を作り自治体が連携して公益サービスを分担するなど、広域的な行政運営をしている地域だという。(前掲書P17)
前出のとおり、満州事変後の1932年から3年余り、関東軍は大量の移民を送るよう日本政府に圧力をかける。しかしこれには慎重論が強く、最初の移民は軍主導により、国内在郷軍人会を介して、試験移民、武装移民を「満州国」に送り出していた。彼らが軍からもらい受けた土地、家屋は関東軍が現地の住民からただ同然に奪ったものだったため、現地住民からの襲撃にあい、開拓民に死傷者を出し、集団移民は難しい局面を迎えていた。
1936年2月、2.26事件により、満州移民に慎重だった高橋是清大蔵大臣らが暗殺され、満州移民への軍の発言力が増した。同年、政府は「二〇ヵ年百万戸送出計画」を閣議決定。20年で百万戸世帯を満州へ送る計画を国策として進めることとなる。「満州国」の人口五千万人のうち一割を日本人で占め、支配を確固たるものにしようとの計算だった。こうして満州開拓団は国を挙げての大事業となる。
それでも、満州移民は政府の思惑通りに進捗しなかった。前出のとおり、異国への移住を決めるほど、農村の疲弊が進んでいなかったところが多かったためだ。(同書P21~22)
皇国農村の導入
1942年(昭17)、太平洋戦争開戦により、日本本土及び「満州国」でも食糧増産が急務となるなか、政府は「大東亜建設ニ伴フ人口及民族政策ノ根本趣旨ニ即応シ日満ヲ通ズル主要食糧自給力ノ充実確保ヲ実現スル」――戦争遂行のための農村、すなわち、皇国農村確立促進〔注3〕のための政策を打ち出す。
「満洲国開拓第二期五箇年計画要綱」
閣議決定された「皇国農村確立促進ニ関スル件」には満蒙移住については書かれていない。皇国農村についてさらに詳しくみてみよう。以下の記述は、『論文「戦時下の満洲移民と日本の農村」(我孫子麟〔著〕村落社会研究5巻―1号_9)』を参考とした。
1940年、第二次近衛内閣が「基本国策要綱」の「3.国内態勢刷新」を発表。そのなかで「農業及び農家ノ安定発展ニ関スル根本方針」が重視される。その具体的目標は、翌年発表された「人口政策確立要綱」と1942年の「主要農産物対策要綱」によって示された。前者は東亜共栄圏の建設・発展のために人口政策を樹立し、増進と配置を図ることが要務とされた。農村については「最モ優秀ナル兵力及労力ノ供給源タル現状ニ鑑ミ、内地農業人口ノ一定数ノ維持ヲ図ルト共ニ、日満支ヲ通ジテ内地人人口ノ四割ハ之ヲ農業ニ確保スル」としていた。こうして農村・農家は日満支をつうじて確保されるべきものとなった。
同要綱は直ちに、「満洲国開拓第二期五箇年計画要綱」に取り入れられる。すなわち開拓政策は「東亜共栄圏ニ於ケル大和民族ノ配置ノ基本国策ニ照応シ・・・日満両国ノ一体的重要国策タル使命ヲ更ニ昂揚シ、特ニ日本内地人開拓民ヲ中核トスル民族協和東亜防衛満洲農業ノ改良及増産ヲ指向シテ」策定された。
前出の「皇国農村確立促進ニ関スル件」の「要領第一、三項」に分村事業が取り上げられている(該当箇所を太字表記)。すなわち、「分村計画ヲ樹立シ開拓民創出ノ促進ヲ図ルハ、当該部落ノ農業新組織(注:日本建設農村のうち標準農村のこと)建設上緊要ノ事項タルトトモニ満洲開拓内地開発事業ニ伴フ入植計画ノ実行ヲ進捗セシムル所以」として、分村計画を標準農村建設の不可欠の事業とみたのである。このように、皇国農村確立のための農村再編成は、標準農村の建設として計画され、標準農村の建設計画には分村計画が含まれることになった。満州開拓の大目標はこうした農村体制の上に立って訴求されたのである。
皇国農村から排除(分村)された農村が満蒙移民に
わかりやすく言えば、皇国農村とは農村・農業強化のため、自立的かつ生産力のある農家(標準農村)を整備することにより、戦時下における農業生産の向上を目指すことと換言できる。皇国農村の認定を受ければ農地整備等に係る補助が受けられる。そのためには、生産力が低い農家等を分村と称して、標準農村から排除した。排除された農村は農業の継続が不可能になり、その受け皿として、満蒙移住の選択が推奨(=強要)されたのである。
前掲書では、《県が補助金を出して食糧増産などを目的に、戦争遂行のために農村を整備する。ただ、いくつかの条件を満たすことが必要で、その一つが分村移民だった。(前掲書P31)》と説明されているが、分村というのは、標準農村からの追い出しを意味する。
こうした日本帝国の冷酷な排除政策を知ってか知らずか、1943年10月、前掲書の長野県下伊那郡は政府が重点的に開拓団を進めるための特別指導郡に選定されると同時に、同郡河野村は村の事業として分村移民を進めることを決意する。同年末、河野村は皇国農村の指定を受けるとともに、農村整備事業が始まる。(前掲書P32)
農村整備という一見もっともらしい政策名の裏側に、満蒙移民を選択せざるを得ないような罠が仕掛けられていたのであり、かくも詐欺的政策を「皇国農村」と名づけたのである。
敗戦7カ月前に開拓団家族が満蒙に移住
悲劇の設定はそれだけにとどまらない。なんと、1944年5月、日本敗戦の1年余前に同村開拓団の本隊が「満州国」に渡航し、1945年1月、開拓団家族が満州へ渡る。同年5月、日本の敗戦が濃厚となったことから、大本営が満州の四分の三の放棄を決定。関東軍の主力を南方戦線へ移動。満州開拓移民の子供を除く男性が根こそぎ兵役に招集される。開拓団にいけば兵役はない、という政府の約束は反故にされる。同年7月、敗戦の1カ月前に及んで大東亜省(満蒙開拓管轄)が「現戦局下における満洲開拓政策緊急措置要綱」を発出し開拓団の送出中止を決定する。
同年8月9日、ドイツ降伏のあとを受けて、ソ連がヤルタ協定密約に基づき、満州へ軍事侵攻。日ソ不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告。同年8月9日、関東軍、満州から撤退、開拓民は置き去りにされる。同年8月15日、開拓民に日本敗戦の報が届く。以降、開拓団は現地中国人による報復攻撃にさらされることになる。(前掲書P35~37)
置き去りにされた開拓団の悲劇
追い詰められた開拓団のあいだの悲劇はそれですまなかった。集団的狂気にまといつかれた開拓団は自決の雰囲気に包まれていく。《捕虜になって命乞いするよりは、潔く死を選ぶことが尊い生き方だと教えられてきた。天皇の赤子たるもの、辱めを受けるよりは死を選べと》。《関東軍が終戦間際に「関東軍は盤石の安きにある。国境付近の開拓団は安心して生業に励め。必ず開拓団の団員は田畑を守って農産物の栽培に一生懸命やってくれ」とラジオ放送で指令をやっておきながら、開拓団の男を全部召集して女と子どもと年寄りだけ残して、どうにもならない。だから関東軍はでたらめだっていうんだ。戦争しても武器も何もない、開拓団の者を召集しても、ただ穴掘っているだけ。そして残った者は、みんな死んじゃった。そういうことがなければこんな惨めな死に方はなかった》。戦後、「満蒙開拓を語り継ぐ会」のテープには、このような証言が残されたという。(前掲書P40~41)
河野村の開拓団は死ぬために満蒙に渡ったようなものだ。(続く)
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