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イチゴのないショートケーキは、ただのショートケーキか

有名な映画のフレーズがある。

「・・・飛ばねぇ豚はただの豚だ」

映画『紅の豚』(宮崎駿監督)より

間違いない。100人いたら100人が同意するだろう。アドリア海を颯爽と飛行する豚はこの世にいない。現実は「ただの豚」だらけだ。

では、もう1つ、ここに命題を提示してみたい。

イチゴのないショートケーキは、ただのショートケーキか

……この真偽は難しい。100人いたら100人それぞれの答えが返ってきそうだ。独自のスイーツ論を語り出す人もいるだろう。

これについては考えるよりも、1枚の写真を見たほうが早いかもしれない。

イチゴのないショートケーキだ。見た瞬間、思わずハッとしてしまった。

……これは……ショートケーキ……ではない……!!

かろうじてクリーム層の中にイチゴの薄切りらしきものが見える。でも、これを見て「あ、美味しそうなショートケーキだね」とはならない。「ショートケーキ」を名乗るには圧倒的な欠落感がある。

あえて別の名前をつけるなら「クリームスポンジケーキ」だ。ちょっとダサい。少しオシャレに盛って「クレーム・ド・ジェノワーズ」。しかし見た目の雰囲気とミスマッチしている。禅の世界に振り切ったパティシエがつけそうな名前だ。「ストロベリーレス・ショートケーキ」でもいいが「なんでないの?」とお客さんに言われる。間違いなく言われる。イチゴの入荷が間に合わなかった時の苦肉の策っぽい名前だ。

ショートケーキといえば、やっぱりこれである。

なんだ、この安心感。おかえり、ストロベリー。

イチゴのないショートケーキなんて考えられない。
お前のいない人生なんて考えられない。
ストロベリーフィールズ・フォーエバー。

この2つの写真を撮りたいがため、先日、初対面で会う人の前で、恥ずかしげもなくショートケーキセットを注文した。

店員さんがショートケーキをテーブルに置くと、僕はおもむろにイチゴを取り外して写真を撮り始めた。相手の珈琲カップを持つ手が止まっていた。初対面の人の前ではあまりおすすめできない行為だ。

そもそも、どうして、この写真を撮ろうと思ったかというと、以前、糸井重里さんが「ほぼ日」で語っていた言葉をふと思い出したからだ。

人にものを伝えようと思った時、何かが足りないと思ったら、ショートケーキのイチゴにあたるものが何かを考えた方がいい

糸井重里さんの言葉(ほぼ日)より

言葉の真意は本人ではないとわからないが、言わんとすることは何となくわかる。何かを伝えようと思ったら、人を惹きつける「何か」が必要なのだ。それはつまり「華」とか「驚き」みたいなものだと理解した。

ところ変わって、今、表参道の交差点では、BMWのポップアップエキシビジョンが開催されている。そのポップアップの一番の目玉ともいえる、竹のオブジェ。先日のnoteでも紹介した友人のフラワーアーティスト田中  孝幸がこれを手がけた。

葛飾北斎の「富嶽三十六景」の波しぶきを竹で表現したらしい。これはすごい。特大の「イチゴ」だ。多くの行き交う人が立ち止まり、写真を撮っていく。その光景をみた時、ハッとした。

何が「イチゴ」かは最後は受け手が見いだすものなのだ。

田中自身も「イチゴ」をつくるつもりで挑んだに違いないが、人の気を引かなければそれは「自己満足」であって「イチゴ」じゃない。

そう考えると、イチゴのないショートケーキだって、イチゴが大嫌いでクリームとスポンジケーキが大好きな人にとっては、それはもう、十分、立派なショートケーキなのだ。

ややこしい表現だが「イチゴのないショートケーキ」の状態こそが、ある人にとっての最高の「イチゴ」の場合もあるのだ。

ごめんよ「クリームスポンジケーキ」、「クレーム・ド・ジェノワーズ」、「ストロベリーレス・ショートケーキ」。君たちは何も間違ってない。売れるかもしれない。いや、きっと売れるだろう。売れてほしい。

イチゴのないショートケーキは、ただのショートケーキではない。それはきっと、誰かにとっての特別なショートケーキだ。

と、自分なりの結論というか、オチみたいなところまでたどり着いた気分だが、ここまで書いてみて、ふと気づいた。

‥‥あ、このnoteの記事自体に肝心の「イチゴ」的なものがない。

自分で自分の首を締めてしまった典型である。「紅の豚」の引用あたりが僕の中のテンションのピークだった。出落ちだった。

イチゴって、そう簡単に実は結ばないんですね。でも、だからこそ、一層輝きを放つんでしょうね。いつか僕もあなたも満足できるような特大のイチゴnoteを書いてみたい。

今日はイチゴのないショートケーキ好きの方のための回ということで、お気に召していただけたら幸いです笑

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