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電車のホームで倒れかけた日 | 恋人の話

恋人のことを書く試み 
書こうと思った経緯は以下

日曜の夜、22時半。電車から、転がるように降りて、掲示板になだれかかり、床に座り込んだ。
手にしていたポシェットは、力を失った私の手を離れ、地面に転がる。

酷い腹痛。気を失う直前の感覚。
肩で息をする。腕に爪を立てて耐えようとする。
停車時間の長い駅なのか、電車のドアは開いたままだ。しかし、私が転がり降りた後、誰もおりてくる気配はない。案外、人は不親切だなあ、などと思うことにかろうじて残された意識を使い果たしては片膝を立て、そこに頭を乗せて座る。ポシェットに手を伸ばす気力は、まだない。

ぷしゅう、と音がしてドアが閉まる。電車は私を置いて去って行ってしまった。周りには人はおらず、しんとした駅に取り残される。私は、全身の力が抜けてしまって、立ち上がることができない。

だめだ、助けを。
手を伸ばせば届く距離にあったポシェットをどうにか手元に手繰り寄せ、つい10分前に駅で別れた彼氏に、電話をかける。ワンコール、ツーコール。そういえば、彼氏は、「通知切ってるから電話しても気付けないかも」とついさっき言っていた。コール数を数えて、さん、よん。でない。

電話を切って、ラインを送ることにする。
「たてない」「ごめん、きてくれる?」「ふたつとなりの駅」

1分後に電話がかかってきた。

「どうしたの」という彼に、心配をかけまいと、「なんかさあ、さっきお腹痛くて電車から転がり降りたんだよね、あはは」「ときどきあるやつなんだけどさ」と私は細い声で笑う。
「どういうこと」彼の声はあくまでも真剣だった。私も冷静になって、「ごめん、一人で帰れそうになくて、来てほしい」と伝える。「わかった、すぐいく。」そう聞こえて、電話は切れた。

一息ついて、視線のすこし先に椅子が見えたので、よろよろと向かい、座る。

これまでの人生で、激しい痛みに襲われて気を失ったことは一度や二度ではない。
迷走神経反射性失神。平たく言えば、身体・精神に急激なストレスを負ったときに起きる、失神。それが、起こりやすい。

組体操の練習をしていたとき、技術の授業中、高校へ向かう電車、インフルエンザの予防注射後、カフェでケーキを食べたあと、学期末の朝会中、…。
タイミングは様々だったが、大抵、精神的にも身体的にも参っていて、そこに何かのきっかけが加わったとき、私は倒れてきた。

気を失う瞬間のパニックにも似た感覚を、気を失った後に意識を取り戻すときの深い海から引き上げられる感覚を、何度経験してきたか、わからない。
たのしいものではない。中学生の頃、気を失う直前のパニックの中で、「こんなにつらいことが、これからも続く人生なのか」と絶望したのを、今も覚えている。

しかし、私も23歳。大人になった。
今回は、完全に気を失う前に、電車から降りられた。
症状はあの頃と変わらないけど、私は効く薬を知っている。大丈夫、家に帰れば薬がある。
そう、自分をなだめながら、耐える。

考えてみると、倒れる時の条件はそろっていた。
残業続きで疲弊した体、憂鬱な予定が詰まった次週のことばかりを考えている頭、睡眠不足、生理中。心身ともに疲弊していた。

しばらく椅子に座ってうなだれていると、電車のドアが開く音がして、横に座る人がいた。大きな靴を見て、彼氏だとわかる。顔をあげる。ついさっき一緒に居たときはふざけたことばかり言っていた彼が、真剣な顔をしてそこに居た。「来てくれてありがとう」消え入りそうな声でつぶやく。「うん」と彼は頷く。

肩を借りて、駅を出る。彼氏がタクシー乗り場をみつけてくれ、並ぶ。タクシー乗り場のすぐそばに椅子はなく、「並んでるから、あそこで座ってて」と少し離れたところにある椅子を指さされる。その言葉に甘えて、座りこむ。

私の荷物を持って少し遠くで並ぶ彼氏の後ろ姿に、有難さを噛み締める。私一人では、タクシーを待つのもしんどかっただろう。彼が手に持っていたレジ袋からはキャベツが顔をのぞかせていたから、買い物をした足でそのまま来てくれたのだろう。

十分ほどして、タクシーが来た。
一緒に乗り込み、運転手さんに私の住所を伝える。タクシーが、ゆっくりと走り出す。

道路の起伏で車が揺れるたびに振動が体に伝わってお腹が痛む。差し出してくれた手を握る。

時刻は23:30を回っていた。
彼が私の家まで来たら、帰りの電車はもうない。ふ、と隣を見ると、丁度、彼は空いた左手を器用につかって帰り道の経路検索をしていた。

「そのままこのタクシー乗って帰りなよ、タクシー代は出すから」と私は伝える。「わかった」と返ってくる。ほっとするもつかの間、「でも、タクシー代は大丈夫」と断られるので、私は間髪を入れずに、「じゃあ、今度ちょっと高級なレストランに行こう、私の全奢りで」と言う。
彼氏は「それなら、乗った」と笑う。

20分ほどで、タクシーは私の住む家の前へ到着した。
ここまでの運賃を支払い、運転手さんに少し待っていてくださいと告げて降りる。

「本当に、ありがとう」「うん。家で、ゆっくりしてね」柔らかいハグ。

「じゃあ、またね」「うん」
彼氏はもう一度タクシーに乗り込む。
走り出したタクシーの後ろの窓から手を振ってくれるので、見えなくなるまで小さく手を振り返す。

見送ったあと、決意する。
彼に何かあったときは、どうか、私が、助けられるように。

当日のメモ

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