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構造のない構造(再投稿)

二十世紀の哲学は、実は主観性への偏りが見受けられる。フッサールの現象学や、その批判者であるハイデガーも、純粋意識や世界内存在と言っている。

戦後の哲学では、主観性を批判的に捉えたとしても、単なる主観のないせん妄症のような意識障害のことを哲学と言っていた。

反哲学というのも主観を否定した後の主観に過ぎず、主観主義の二十世紀哲学の範囲内に留まっていた。戦後の哲学は、外部の他者との見えない関わりを直覚するための感性を持っていなかった。

反哲学は、学ばざるに満たない哲学になってしまった。論理的であるという論理の限界は、言葉を失った反哲学においては、救いのない、衝動的な無量の無感情だったのである。反哲学は技術以前つまり常識以前の特性を失った無目的な盲目的意志の段階に退行してしまっていたのである。常識を批判して善悪の彼岸を越えなければ、自分自身の独自の立場を創り出すことには繋がらないのだが、ベルノベル(フランス語 belles-lettres)や日本の純文学やトーマスマンのような政治的中道主義は、対立を隠蔽するだけの数理的に不可能な非科学的思想であり、自分自身の立場ではなく相手の立場に妥協しミメーシスに終始するだけで、新たな立場を創り出り出すことにはならなかったのである。政治とは戦争の別名であり、戦争という手段に訴える限り政治には救いはないだろう。善悪の彼岸過まで渡り救いを得ることができるのは、大多数派を形成する大衆という名も形相もなき善悪の分裂のない聖なる存在なのであり、そもそも芸術家が政治や政治家になることではないのであった。芥川龍之介の純文学やトーマスマンの思想は一般的な創作の域を出ず、芸術至上主義とは看做されないベルノベルとは似て非なるものであり、「物を書く」、すなわち哲学的文芸論以前には、似非科学に陥らずに芸術的感覚を表現した独自性のある真の芸術至上主義者は存在しなかったのである。

反哲学は外部の他者に通じることはなく、哲学を否定したことにもならない。幸福を手に入れるには、奴隷の反哲学的態度に陥らずに、文芸的な誠実な哲学的思考が必要になる。

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