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「山スキー&ボードの集い 2023」感想

はじめに

昨年はじめての試みとして行った「山スキー&ボードの集い」の第2回目を、今年も前回と同じ諏訪の地で無事終えた。前回の参加者は約30名、今回は60名超えとなった。主催者は前回同様、かなこ氏、はっち氏(以下、敬称略)、私の3名。それぞれ会場・ケータリング、会計・その他全般、プログラム作成や司会といった役割分担は前回とほぼ同様だったが、人数が倍になったせいか、疲労度も倍くらいあった気がする。しかし、間違いなく実りのある会だった。記憶が薄れないうちに記録しておこうと思う。

今回の会場にて(撮影:もる氏

会の趣旨

山スキーかバックカントリースキーか

まず、山スキー、スノーボードとは何か、バックカントリースキー、スノーボードとは違うのかについて、私なりの考えを述べておく。これらは単に呼び方の違いであり、同じであるとも区別は不可能であるとも言えるのだが、ここではあえて違いがあるという立場をとる。

誤解をおそれずに簡潔に述べるなら、前者は登山者の思想に、後者は滑り手の思想に立脚するものである。登ることも滑ることも山行の手段であるのか、滑るためだけに登るのか(あるいは登りさえしないのか)、という違いだろうか。山頂と斜面のどちらにこだわるか、自分で歩くことにこだわるのかなどは、その違いを測る指標になるかも知れない。

滑るために登るのか、登るのも目的の一部か…

とはいえ、私は登るのも滑るのも好きだし、時期や場所によってどちらとも言える行動をとるので、ここにそこまでのこだわりはない。ただ、登山者(というか「山ヤ」)の精神をもった人の集まりであってほしい、というのは前提としてある。なお、ひろゆき氏は山ヤを「命をかけてメリットのないことをやり続けられる、(頭はおかしいが)根性がある人」と定義しているのだが、これはなかなか鋭いと思う。

元となった?富士山納会

シーズン終了後に、富士山を滑って成果を報告する形で報告会兼宴会をする、という会を三浦大介氏(以下、「御大」)と松岡祥子氏が中心となって一時期行っていた。私がこれに初めて呼ばれたのは、2015年5月。山スキー3年目のペーペーで、単独で不帰2峰杓子岳東面を滑り、お姉さまに連れられて黒部湖を渡った充実のシーズンだったが、自分の報告はよく覚えていない。ただ、RSSAやぶなの会の方々との出会いが新鮮であり、呼ばれたことを光栄に思った淡い記憶がある。昨年秋に病で逝去した常吉さんによる当時のブログ記事があったので、貼っておく。

しかし、この会も私が知る限り2016年を最後に行われておらず、どこか寂しく思う気持ちが、今の会に繋がったような気がする。

2016年、富士山での納会山行

前回の趣旨

御大を中心としたスティープスキー、あるいは山岳滑降のシーンは、自分の活動期には長らく停滞していた(と思っている)。今やこの分野を扱う唯一の雑誌といえる「ROCK&SNOW」では、御大または加藤直之氏が書く記事がほとんどで、新しい人たちによる記録はほとんどなかった。そんな中で、この世界に魅かれ、これから新しいことをやろうという自分は、衰退するシーンの一部にいるように感じていた。

が、2021-22シーズンは違った。若手山スキー同人「遅刻軍団」(「地獄軍団」をもじったもの)の活動が活発化し、それ以外にも山スキーを始めて間もない人たちの目を見張るような記録が散見された。いったいどんな人たちなのか、会って話を聞いてみたい、同時に地獄と遅刻をぶつけてみたい、というのが前回の趣旨であった。その時のことは、わかちゃんのブログ記事が他の記事も含めよくまとまっている。

山スキー&ボードの集い 2023

今回の趣旨

前回の反省点として残ったのは、山行報告に時間がかかり過ぎ、リスク管理についての話やヒヤリハットの共有ができなかったことだ。特に勢いのある若手が多かったので、攻めはいいとして、守りの方は大丈夫なのだろうか。そんな懸念を頭の片隅に残したまま2022-23シーズンを迎えた。それが関係していたかどうかはわからないが、参加者の1人が同行者とともに1月の八方尾根で消息を絶った。これは自分にとってそれなりに苦い経験で、遭難した2人はいまだ見つかっていない。

飯豊山・石転び沢を詰める

そんなこともあり、「次にやるなら、リスク管理を中心に」と思っていた私は、自分にとっての板納め山行となった飯豊山・石転び沢を終えた翌週、LINEグループで2回目の開催を打診した。

いつどこで、誰と

時期は、前回同様オフシーズンで天気が悪そうな梅雨時にした。富士山とセットにして、山行をともにしてから宴会の流れも良いのだが、人数が多いとロジや宿がめんどくさい。また、シーズン中はそれぞれ別で行きたいところもあるだろう。万一天気が良かった時のために、少なくとも午前中は山に行けるよう、時間を夕方からに設定した。場所は関東からだけでなく、東海や関西からも比較的来やすく、諏訪の民?であるかなこが動いてくれる諏訪市にした。

前回と同じメンバーではつまらないし、広い会場を押さえられたこともあって、今回は倍の60名規模とした。公募すると超過するおそれがあったため、心苦しいながらも一部の知り合いに声をかけるにとどまった。率直で面白い議論をするためには、ある程度の心理的安全性が確保される必要があり、知らない人が多かったり、ライブ配信をしたりするとそこが損なわれるので、メンバーは幹事の知り合いや気になる人に留め、ある程度閉鎖された空間を作った。

また、山岳ガイドやプロのライダーなど、生業として活動している方については、できるだけ呼ばないことにした。どうしても先生と受講生のような構図になりやすく、内容も教科書的になりやすい。また、プロである以上、謝礼の必要性が生じるし、来て頂くということになると、対等な立場で議論することが難しいと考えた。が、本当は来たい人には誰でも来てもらいたい。

プログラム

これは自分が聞いてみたい話、自薦他薦など、いくつかあるものの中から、時間的な制約やそれぞれの発表の性格を見て、自分が原案を作り、3人で話し合いながら決めた。討論にできるだけ時間を割きたかったため、山行報告は最低限に抑えようとしたが、そこは徹することができなかったところ。かなこ、はっちの身内コンビが関係する報告を最後にもってきたのは、押した場合にカットするためだったのだが…。

押すのは目に見えていた

報告の内容

前置きが超絶長くなったが、ここからが今回の報告となる。

#1 記録・前穂東壁を滑る唯一のライン

最初は、mountainhut氏による前穂高の記録報告。氏のことは、以前ヤマレコに載っていた(今は見つけることができない)鹿島槍ヶ岳ダイレクト尾根の初滑降記録から知っていた。大町あたりから見える鹿島槍南峰からダイレクトに落ちる斜面?は、中間あたりに断層による崖を有し、半端なく露出感があり、複雑な地形を縫うように滑る滑降ラインは、今回の前穂にも通じるものがある(ダイレクト尾根の記録は「ROCK&SNOW86号」参照)。

前穂の記録については、その滑降をいち早く察知していた御大と松岡さんから報告の要望があった。件の滑降ラインのことは、東壁を山頂から滑降できる唯一のラインとして、フジタドローンの動画を見て以来、私も認識しており、数年前からマイリストにも入っていた。が、春にはモチベーションを失う私にとって、あまり縁のない穂高エリアであったこと、かなり危ないこと、気持ちよくつなげられるように見えないことなどから、実行に移すことは無かった。

とはいえ、山頂から東壁側を滑ることにこだわったラインとしては唯一であるし、少し下がったコルから滑る他のルンゼ状のラインと比べ、山岳滑降という文脈の中では勝るとも劣ることはないだろう。滑降途中に岩稜帯を有し、日本ではトップクラスに危険なラインだと思うが、氏の語り口調は終始おだやかで、一緒に来ていた奥様の顔色を伺いながらの報告は、その異常さを不器用に覆い隠しているように見えた。奥さん、ご存知とは思いますが、旦那さんはかなり危ない人ですよ。

なお、この詳細は最新の「ROCK&SNOW100号」クロニクル欄に掲載されているので、気になる方は是非ご一読ください。

#2 記録・美濃禅定道~白山~白川郷

続くのは、遅刻軍団所属のもる氏で、昨シーズンには一ノ倉沢四ルンゼを滑降した期待の若手だ。今回は、某アウトドアウェアメーカーのスキーヤーコンビで、全長42km、獲得標高4400mのロングルートに挑んだ記録を報告してくれた。3月下旬とはいえ、標高の低いエリアで出だしの雨に悩まされながら、避難小屋とイグルー泊を交え、3泊4日で抜けている。間に情報の少ない山域を挟みながら、変わりゆく景色とともに、それぞれ個別に認識されていた山域が繋がっていく過程に、ロングツアーの醍醐味を感じた。

関東に住む私にとって馴染みのないエリアであり、詳しくはないのだが、もる氏によると、初滑降の可能性を残す未知の斜面がまだあるらしい。ただ、エスケープルートが少なく、その斜面も滑降不可能と思えるような代物であるらしい。今回の報告を聞いた限り、板を担いで際どい藪登りを強いられる箇所等もあり、厳しさの割にあまり楽しくはなさそうだった。

それは、報告後の「良い滑りはあったのか?」という質問に対する答えが「白山東面ですね」というのにも表れていた。しかし、気持ちのいい滑りだけが山スキーの全てではない。この旅の充実度は、当人たち以外には測れないだろう。

いつかの白山東面

#3 記録・爺ヶ岳集中滑降

発表者の堀米氏はシーハイルに所属し、長年にわたり幅広い山域で活動してきた。氏のことは過去の記録を通じて知っていた。中でも「岳人2008年3月号」に発表されていた南アルプス主脈オートルートが印象的で、2001年GWに9日間かけて南ア南部(聖岳~赤石岳~荒川岳~三伏峠)を、2006年GWに5日かけて北部(大曲~権右衛門山~農鳥岳~間ノ岳~仙丈ケ岳~歌宿)を踏破するロングツアーを実践している(今はもう雪が少なくてでききない!?)。余談だが、本号では南アだけでなく、日本のスキーツーリングルートを幅広く扱っており、今は亡き本田大輔氏や篠崎純一氏が登場する貴重な号でもある。

話が逸れたが、今回はそんな氏に爺ヶ岳でのいくつかの滑降記録を発表してもらった。前述の富士山納会でもお会いしたことがあったが、とてつもなく謙虚で親しみやすいお方で、7年ぶりの再会でもお変わりなかった。今回は爺ヶ岳に刻まれた3つのラインとライフワークにしている50高山のお話。

中央峰から1本、北峰から2本のラインがあり、途中から北面に移るなどバリエーションに富んでいるため、部分的な初滑降はありそうだった(本人はそこにこだわりはない)。個人的には、これまで爺ヶ岳に縁が無かったが、今回いくつか写真を見せて頂き、マッシュ盛りだくさんのリッジラインに惹かれたので、いつか雪が柔らかい時期に行ってみたいと思う。

50高山では、蝙蝠岳が滑降されていないのでは?という話も出たが、その後の中澤氏調べにより、滑られていたことがわかった。これで「滑った」と言えるのか、という疑問は無くもないが…。

#4 インタビュー・「中部山岳スティープスキー100選」出版記念

個人的な目標としては、この出版物を題材にしつつ、1.モチベーションの源泉と2.リスク管理(いかにして生き残ったのか)について、訊くことだった。そのためにガチガチに資料をまとめてきたが、御大は御大で独自の資料を作ってきていたため、現場で修正して対応することに。御大からご自身のプロフィールと山行履歴について紹介があり、終わったタイミングで上記2つについて掘り下げることにした。

  1. モチベーションについて
    まず訊いたのは、北岳バットレス「ヒドゥンガリー」の滑降を契機に、「スキーアルピニスト」を名乗り、自分自身に日本の急斜面を開拓するという使命を負わせたというところ。これにについては、今は亡きクライマー・鈴木謙造氏が人生の負荷としてクライミングに取り組んでおり、それに影響されたと話されていたのが意外だった。

  2. リスク管理について
    本書では雪崩と滑落が1件ずつ計2件の報告がされており、長いキャリアの中では数が少なすぎるのではないか、もっとあるんじゃないの?という質問から始まり、どのように事故を未然に防いでいるのか、という点にフォーカスしてお話を聞いた。詳細はここには書かないが、登りのうちに雪面のデータを採っておくこと、ピットチェックの必要性などを説かれた。

個人的には、質問コーナーで「危険な山行中に家族のことを考えたりはしないのか?」という質問に対して、「ないですね」きっぱりと答えていたところが、スーパードライでとてもよかった。

#5 ヒヤリハットの共有

これが今回の主目的だったと言える。活発な議論を喚起するため、『真剣10代しゃべり場』の仕組みを解説する動画を見るなどの予習をして当日に備えた。とはいえ、プレゼン資料は登壇者の湯川さんが用意してくれ、事前に目を通す機会はなかったので、自分としては趣旨や尺などを伝えてお願いするにとどまった。そして、ここまで司会を務めていたが、私自身が自由に好きなことが言えるよう、はっちさんに交代して頂き、見る側として議論に参加した。

湯川さんからの報告は全部で3件。そして、どれもクリティカルなので、よくおひとりでこれだけ…という感じであった。

  1.  小日向山での雪崩(湯川さんが全身埋没):写真と地形図で解説

  2. 不帰2峰「逆しの字」での同行者滑落:当日はオフライン動画あり

  3. 不帰3峰Dルンゼでの雪崩(同行者が埋没):オンライン動画あり

これは非常に紛糾した。そもそも、雪崩や滑落の動画を撮りたいという目的でドローンを持って山に入る湯川さんの存在がかなり異質であり、リスク許容度、パーティとしての考え方、価値観の違いなど様々なことが相まって、とても紛糾したいい議論になった。最後には、御大がお怒りになり、滑走スキルや判断の未熟さについて説教があり、これは他の受講者にも響いたようだった。そう、これこそが前回の報告会に欠けていたものだった。

湯川さんは無線を携帯しない自由や多様性を主張し、御大は地道な積み重ねの必要性を説き、山スキー文化の断絶を憂う。遭難が多ければ世間から非難を浴び、風当たりが強まるとともに、スキー場は規制を強めるだろう。スキー場が無くても山スキーはできるが、周囲に理解されないアクティビティの存続は危うくなる。プレイヤーのが多くが亡くなるようでは、文化が継承されない。御大の懸念はそこにあったと思うが…話は尽きないため、一旦次に進む。

後日、湯川さんから当日の発表資料を公開していい旨、ご連絡いただいた。実際に雪崩に遭った人のお話は貴重だと思うので、参考資料としてここに掲載する。改めて見ても「反省と対策」が独特だ(2023/7/6追記)。

#6 北欧スキーツアー

かなこさんによるほとんど滑らない北欧スキーツアーの報告。3月下旬~4月にかけての15日間で、Sweden🇸🇪のSödra Kungsleden(南部クングスレーデン)約350kmをソリとスキーで縦走したというもの。シールは毎日毛が抜け落ち剥げてゆき、途中で半分にカットし、最終的にはツボ足で歩いたというので、「それ、スキー必要??」と思わなくもなかったが、とてもいい報告だった。

討論が白熱したせいで、この時点で予定の時刻を過ぎていたが、だいぶ胃もたれを起こした後にかなこによる癒しタイムは必要だったと思う。交流時間が短くなるため、これで打ち切りにしようとも思ったが、聞きたいという意見があったので、最後の報告に移る。

#7 針ノ木岳南壁初滑降

最後にいっしー&はっちコンビが2月に初滑降したラインについて報告してもらった。日本の山岳滑降という枠組みにおいては、今季一番いい記録なのではないかと、個人的には思っているが、比較的身近なメンバーで断りやすかったこと、ロクスノの冬号に記録が載る可能性が高いことなどから、報告の合間に「今回はごめん、なしでお願いします」と話していた。

そのため、心の準備ができていなかったようだが、とても滑らかかつ必要十分な説明をしてくれた。個人的に素晴らしいと思うのは、この斜面全体で初めての滑降のラインであること、自らの脚で見つけ、不確定要素がある中で綿密に計画を立てて実行したことだ。そういう山を国内でできる余地は年々減っていると思うので、その点で貴重な記録だと思う。

さいごに

長くなったので、そろそろ締めたい。当日の準備や運営については、当然ながら反省点もあるのだが、報告が終わった直後からポジティブなフィードバックをもらえていたし、ある程度の手応えもあった。自分で言うのもアレだが、全体的には成功だったと思うし、やって良かったと思っている。既に次回の参加希望もちらほら頂いているが、それなりに疲れる作業でもあるので、次については一旦は保留としたい。

自由について

ふと冷静に考えてみると、いつの間に60人規模のイベントを企画に携わり、その司会を務めるなどという大それたことをするようになったのだろうか、と疑問に思う。自分はどちらかというと、他人に干渉したりされたりするのが嫌いで、湯川さんとまではいかないが、かなり自由な類の人間ではなかったか、と。人が集まると社会ができ、そこには当然ルールや暗黙の了解ができる。時には、当然身につけておくべき装備や知識、技術もある。

できる限り安全に行動し、不必要なリスクは避けるべきだ、という考えはわかる。リーダーの役割や責任といった伝統的な登山の手法や価値観も理解できる。しかし、それらは今ある時点でのベストプラクティスに過ぎない(あるいは既に古いかも知れない)。批判や議論は、健全な社会になくてはならないものだと思う。その点で、今回のような議論ができたことはとてもよかった。他方、普段よくYoutubeのコメント欄で世間の風当たりを感じている身としては、同じような風を、この会の中でも感じたような気もした。

一歩引いて見れば、冬山をしない登山者や、そもそも登山をしない人たちから見れば、我々は一様に「危ない人たち」に見えていると思う。仮に「危ないから」という理由で誰かのスタイルを否定することがあれば、早晩我々自身が否定されることになる。社会には制限された自由しかないが、山には完全な自由があると思う。それはほんの一時に過ぎないものだが、誰もが享受できるはずのものだ。批判や議論はいいが、否定することはできないし、排斥することは多様性を損なう。それだけは忘れないようにしたい。

山スキー文化の継承

今までは思ってもみなかったのだが、湯川さんとの討論で三浦さんから「文化」としての山スキーについて言及があった時、自分がこういった会をやりたかった目的は文化の継承的なことだったのかもしれないと思い当たった。よく考えたら、7年前にそんなブログ記事も書いていた(次があるなら、YSHRさんを呼ぶしかない)。

冒頭にも少し書いたが、おそらくここ10年以上にわたり「山岳滑降」シーンは長らく停滞しており、それに対しておぼろげな危機感があった。このまま廃れていくには惜しいと思っていたし、他に若くてモチベーションの高い人は少なかったから、もしかしたら「廃れゆくシーンを代表する人」みたいになるような気もしていた。

私が普段SNSでモノ申しているせいか、たまに人から「山スキーヤーを代表して発信しているの?」と訊かれることもあったが、私にはそんなつもりは毛頭なかった。私は自分自身しか代表していない。だが、客観的に見れば、いつの間にかそういう風に見られるような言動をとっていたかもしれない。

それはもしかしたら、私が他の人よりもこのアクティビティを面白がり、大事に思っているからかも知れない。そう思える限りは、またそれがシーンにとってプラスに働くと思える限りは、こういった活動も続けたいと思う。自分の山よりも重要だとは思わないが、そういうことを考えるくらいには年をとったのだろう。

日本の山スキー文化を継承し、次につなぐ自覚を促す必要性を感じ、私もそろそろ何か名乗った方がよいのかも知れない。「社会派山スキーヤー」とかだろうか。

御大と迅さんのキャベツと私

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