坊ちゃん

題:夏目漱石著 「坊ちゃん」を読んで

最後に読むことになった長編小説が「坊ちゃん」とは自分ながら意外の感がするが、これまで読んでいなかったために致し方ない。これで、夏目漱石の長編小説は全部、短編もたぶん全部読んだことになり、残されたのは、評論や講演に俳句などだけになる。文学論だけは読みたいが他は分からない。そもそも夏目漱石論など書くかどうか分からないのである。それにしても「坊ちゃん」は良い小説である。「吾輩は猫である」よりも小説作品として成功している。

「坊ちゃん」のあらすじはこうである。親譲りの無鉄砲な坊ちゃんは、母の死後、お前はダメだと言う父やずるい兄とは仲が良くない、ただ坊ちゃんを真っ直ぐで良い気性だと褒める清なる婆やの一途な思いやりを受けて物理学校を卒業し、四国辺の中学校の先生になる。清は共に連れていけない。この中学校で坊ちゃんは校長の狸、教頭の赤シャツ、数学の教科主任の山嵐、英語のうらなり、画学ののだいこなどといざこざを起こす。無論、生徒も一筋縄ではいかない。坊ちゃんが食べた天麩羅蕎麦やだんごなどを黒板に書いて次の日に笑う。宿直の布団にはバッタを入れるなど悪さの限りをするのである。清からは時々手紙がくるけれど坊ちゃんはあまり返事を書かない。赤シャツはうらなり君が嫁にもらう約束をしているマドンナを手に入れたがっている。一方芸者通いもしている。そして、うらなり君の母の月給をあげて欲しいという要望を聞き入れて、狸と共謀しうらなり君を遠方に転勤させる。その一方、坊ちゃんには月給をあげると言って仲間に引き入れようとする。無論、坊ちゃんは赤シャツの言いなりにはならず、ただ、うらなり君を可哀想に思う。こうした小競り合いが続くとも、もう気性を知って仲間となっている山嵐と坊ちゃんは、うらなり君の送別会や戦争の祝勝会後に師範学校と中学校の生徒たちが起こした争いに対処する。ただ、生徒たちの争いは新聞沙汰になり山嵐は責任を取り辞表を出す。こうして、坊ちゃんと山嵐は策略を練り赤シャツに仕返しを企てる。芸者遊びをして出てくる赤シャツとのだいこに、卵をぶつけるなど乱暴の限りを尽くすのである。彼らは警察には訴えない。そして坊ちゃんはこの不浄の地を離れる。東京で清が喜んで迎えてくれる。清と家を持つんだと坊ちゃんは決意する。ただ、その清ももう死んで居ない。坊ちゃんと同じ墓に入れて下さい、坊ちゃんが来るのを楽しみに待っていますと言った清の墓は小日向の養源寺にある。

この「坊ちゃん」なる小説にはとても感動する。本を読んで感動したのはジル・ドゥルーズ著の「フーコー」以来であるから三、四年ぶりである。「解説」で平岡敏夫が述べているが、本小説の真の筋は清なる婆やとの物語で、赤シャツなど学校での出来事は表層の物語とする説に賛成である。あまり感想を長く書いても意味がないので、簡単に本書の内容の感想と漱石の文体について簡単に箇条書きにて示したい。本書の感想は次の通りである。

1) 清なる婆やの絶対的な愛、漱石の示すこの絶対的な愛はその後の小説では形を変えて変奏する。愛が信じられなくなり疑心暗儀する登場人物が多くなり、「行人」で一郎は妻の直の貞操を試そうとする。「明暗」では絶対的な愛を求めるお延と相対的な愛を主張するお秀とが戦う。この愛をめぐる心の葛藤が終生漱石にこびり付て離れない、常に問わずにはいられない問題であったのだろう、と同時に書き出したら止めにくいテーマでもある。この絶対的な愛とは全幅の信頼である、他者との合一である。ただ、無理であろう。メルロ=ポンティが言う「他者の身体とわたしの身体の間の一致によるよるわたしの見ているものが相手に移行し相手の視覚に入り込む」ことで、「他我問題は存在しない」のではなくて、常に見ているものは間が空いているために異なり、他我と自我とは別個な基本として衝突せざるを得ないものなのである。当然この見ているものが異なるため猜疑心を生み出すことになる。もしメルロ=ポンティが正しいのなら、自我と他我の間には少なくとも共通の観念があることが必要とされる。漱石に取って作品中の人物にも現実にも、男女の間でも多少なりとも共通の観念を持つ者の存在は少なかったと言える。
2) こうした漱石の心持は「坊ちゃん」にて明確にその原型が記述されている。『食いたい団子を食えないのは情けない。しかし自分の許嫁が他人に心を移したのは、なお情けないだろう。・・うつくしい人が不人情で、冬瓜の水膨れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断ができない。・・本当に人間ほど宛にならないものはない。・・こんなことを書いてやったら定めて驚くだろう。箱根の向だから化物は寄り合ってるんだというかも知れない』(87頁)古賀さんとは結婚するはずのマドンナを奪われるうらなり君である。男女の心の齟齬と離反が述べられていて、この原型がその後の漱石の作品では葛藤と神経衰弱を伴って深刻化していくのである。無論、その間には「三四郎」の恋心を描いたストレイシープ(迷える子羊)や「彼岸過迄」の須永と千代子の結婚問題がある。この愛を巡るテーマ、特に心理的な葛藤の深化が漱石の作品大きなテーマとなって展開されるのである。
3) そうすると「坊ちゃん」における中学校での騒ぎは、これら男女間の齟齬と葛藤を秘めながらも人情など知らない油断できない化物たちとの人情を巡る騒ぎを描いている。まさに絶対的な愛との対比において、人間相互の他者性を戯画的に書いている。このため、敵味方が明瞭であって、どの登場人物も輪郭が鮮明であり、坊ちゃんの痛快な行動と相まって、本作品を劇画タッチな優れた人情小説にしている。再度述べるが、本小説の真の筋は清なる婆やとの絶対的な愛の物語であり、その他はこの愛を引き立たせるための小話でしかない。ただ、古賀さんとマドンナの話は萌芽する芽であり、その後愛を巡って多彩に変貌する。

次に、漱石の文体について簡単に示したい。それは漱石が表現しようとした内容を、文体を変えて記述していたということである。もしくは表現内容が自ずと漱石に文体を呼び寄せたかとのことでもある。それぞれの文体の例やその背後に潜む漱石の心の状態などについては記述しない。もう少し漱石の文体を調べなければならないためである。

1)「坊ちゃん-猫」文体―――思うままの自由闊達な文体。
2)「夢十夜」文体―――短文で迫力のある詩的な文体。
3)「野分-草枕」文体―――戯作調、もしくは俳諧趣味の文体。
4)「硝子戸」文体―――冷静に静謐な文体。
5)「三四郎-それから」文体―――小説として落ち着きのある客観的な文体
6)「坑夫-明暗」文体―――心理や意識の流れを克明に描く文体。

もしやこれに、7)評論・俳句文体を加えて、「漱石文体の七変化」と題して漱石論を書いても面白いかもしれない。「七変化する文体のこころ」という概念らしきものを導入して漱石を論じることができる。ただ、このためには、まだ漱石の講演集や文学論を読まなければならない。認識的要素(F)と情緒的要素(f)を分析しなければならない。直線や三角形なる非ユークリッド幾何学も調べなければならない。また女たちを読み集めて解釈しなければならない。加えて、たぶん文体には人称や時空間、心理の屈折に古語や漢語なども含まれるだろう。それほどの作業が必要ならば、いつか何かしらの漱石論を書きたいという希望だけを持っていることにしたい。なお漱石は結構哲学書なども読んでいたようだが、たぶん漱石が読んでいた哲学書は既に読んでいることだけは幸いしている。でも、漱石論を書くのは切り口と展開をどうするかも含めて難しいはずである。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。