見出し画像

研究を続けるということ

こんばんは。お陰様で前回の投稿もほどほどの反響があったので、研究を続けることについて思っていることを今日は話したいと思います。

私は現在博士課程2年生であり、そろそろ卒業後の進路を決める必要があります。現状、研究者になりたいという思いと、もう企業に就職して落ち着けたいという気持ちが半分半分です。このように、どんな人でもどんなに学問が楽しくても、いずれその道を進むか、その道から外れるかを選択するときがくると思います。このことについて思っていることを書き連ねます。

研究に限らず一般に上の人に進路を相談すると、「夢を諦めるな」、「好きな道を突き進め」などとおっしゃる大人達のさぞ多いこと。ですが上の人というのはもう既にある程度の地位を獲得しており、進路の選択に成功した人達です。そして、中には「俺は余裕で〇〇だった」、「特に何の対策もしなかった」などと思い出を補正しまくり、もはや進路相談というより自分が成功してきた道を演出し後輩達に見せびらかしているだけだったりもします。成功者に聞いても私のような卑屈な人間はその言葉を信用しきれなかったりします。そりゃあ私だって菜々緒みたいなスタイルを持ってたら夢を諦めるなって言いまくります。かといって、成功していない人は別の業界に移っていたりして、お話を聞く機会がないことが多いと思います。

そのため、進路相談は本当に自分のことを考えていてくれるであろう先輩達のものを信じるしかないです。しかし、研究の場合、親身に考えてくれているであろう人達は相手の生活や家族のことを考え半端な気持ちで「君ならできるから残りなよ」とは言わないことが経験上多いです。それぐらい競争の厳しい世界だからでしょう。結局自分で選択するしかないのです。

他の国がどうだかよく分かりませんが、日本は科学やそれを支える若手研究者、院生への理解がどれだけあるのでしょうか?これまでの研究生活で色々見て、聞いて、感じてきた限り、私は十分にあるように感じられません。かといって、以前までと違って最近私はこれに憤りも嘆きも感じないようになってきました。日本の科学がどうなろうが、それが国の方針であって私とは関係ないと思っているからです。人々が欲するなら全身全霊をかけて研究し、人々が欲しないならそれまでのこと。

研究は楽しい。研究者と議論し新しい発見をするのは半端なく楽しい。しかし、どんな研究もいつか役に立つかもしれないから支援するというのは経済的にも想像力的にも余裕のある豊かな国だからこそできること。役に立つかもしれないから支援するかどうか決めるのは支援する側でしかない。それを説得する労力すら惜しいと思うようになってきました。

例えば、猫の肉球をぷにぷにするのが大好きな人がいたとします。しかし当然ながらそいつが肉球をぷにぷにするのを金を払って支援する人というのはいないでしょう。何故なら無意味だと思うからです。研究だって外から見たらその意義が分かりにくい世界。そういうものへの理解がある人が上に立てるほどの豊かさが現状ないだけなのかもしれないですね。

そもそも、物理を楽しいと思ったのだって私の場合大学に入ってからだから、つい8年前くらいのこと。研究を辞めた後でも、きっと夢中になれる何かが見つかるだろう。今はそれくらい楽天的に構えて、がむしゃらに研究を頑張りたいと思います。身を粉にしても残れなかったときは、単純に国や人々から求められていないんだと、自分の無用ぶりを認め新天地で邁進しようと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?