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ジュペリの『夜間飛行』は自己超越の物語なんかじゃない!|サン=テグジュペリ『夜間飛行』批評

本論はサン=テグジュペリ『夜間飛行』に対して与えられてきた「自己超越の物語」「男社会・仕事の肯定」というレッテルをあえて引き剥がし、『夜間飛行』を墜落へと導く負の側面(弱さ)を引き出すことで作品の奥深さを明らかにする。
『夜間飛行』のネタバレを含むほか、作品のあらすじを知っている前提で議論が進むので、ホンシェルジュhonciergeのあらすじ紹介や、松岡正剛の千夜千冊を予め読んでおく、『夜間飛行』本編を読むなどしておくことをお勧めする。(2020/05/02現在Amazonでは文庫が在庫切れ状態なので、電子書籍をお勧めする)

はじめに

 文学史的に言えば、サン=テグジュペリの『夜間飛行』(1931)は航空文学の先駆けとして反響を呼んだ作品である。ジュペリの航空文学以前にはケッセルの『乗組員』しか前例がなかったからだ。*1

『夜間飛行』といえばアンドレ・ジッドの賞賛が有名である。ジッドは作中人物リヴィエールに注目し、こう言っている。

「人間の緊張した意志の力によってのみ到達できるあの自己超越の境地、あれこそ今日僕らが知りたいと思うところのものではないだろうか」 *2

キリスト教文化圏に居ない我々にとって「自己超越」という話題はあまり身近ではなく、ジッドの評は容易に共感されない。しかし実際ジュペリの『夜間飛行』はリヴィエールと彼の自己超越を中心に読解されることが多い。

例えば、平井(1981)はジュペリが『夜間飛行』執筆当時リヴィエールとよく似た立場にいた *3 ことを指摘した上で、『夜間飛行』の物語を追って全体をこう結論づける。

「『夜間飛行』では、サン=テグジュペリが書くこと以外に、一生涯パイロットとしての道を歩くようになったかの動機をファビアンの姿とリヴィエールの信念の中に見いだせるのである。それは、すべての私事を拒否する仕事を通じて得られる人間関係の素晴らしさに対する実感、それに伴う自己の開花と救済への確信がすでにあったからだと考える」 *4

平井によれば『夜間飛行』に描かれているのはリヴィエール流の「自己超越」の肯定とその確信である。

しかし本当にそうだろうか。『夜間飛行』はただ単純にリヴィエールの態度を肯定するだけのものだっただろうか。
私はそうは思わない。『夜間飛行』は「自己超越」という救済への全面的な肯定では済まされない、裏腹な意味を内包している。

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*1 饗庭孝男・朝比奈誼・岩崎力・窪田般彌・平岡篤頼(1994)「20世紀」饗庭孝男・朝比奈誼・加藤民男(編)『新版フランス文学史』p.278参照
*2 ジッドによる『夜間飛行』序文からの引用。堀口大學(訳)(2018)『夜間飛行』、新潮文庫、p.10
*3 『南方郵便機』出版から『夜間飛行』出版(1929年から1931年)までの間ジュペリはアルゼンチン航空会社の空路開発営業主任であった。生涯については、稲垣直樹(1992)『人と思想109サン=テグジュペリ』清水書院を参照
*4 平井裕(1981)p.48

概要

 本論はサン=テグジュペリの『夜間飛行』に対する平井(1981)、藤田(2005)の分析を参考に、両論では注目されなかった『夜間飛行』の新たな一面を明らかにするものである。

まず平井の主張の妥当性を検討するにあたって、その主張をささえるリヴィエールとジュペリの同一視と、リヴィエールの視点の特権視が妥当であるかを議論する。
確かにジュペリとリヴィエールはブエノスアイレスの空港の支配人という共通性を持つが、だからといって必ずリヴィエールだけがジュペリを代弁するわけではないこと、そして『夜間飛行』はリヴィエールの一人称ではなく、何者でもない三人称によって書かれていることから、リヴィエールだけを特権視することはできないことを指摘する。

次に『夜間飛行』の人称性を分析した藤田の分析を検討する。藤田は分析の結果主要人物は「夜間飛行」に従事する3人の男性だと主張するが、この点に関して私は異論を述べる。
藤田は「夜間飛行」従事者たちの認識の質量を分析するなかで、ファビアン、ヨーロッパ便飛行士、リヴィエールだけが「秘密」を抱えており、これが「夜間飛行」遂行のための本質だと述べる。しかし、これは彼ら行為の人たちの優位を必ずしも示すものではない。

平井も藤田も共通して『夜間飛行』において生活より行為のほうが優位にあると考えているが、私はその逆を主張する。行為に対して生活のほうが基礎的であるから、本当に優位なのは生活である。この点からリヴィエールの老いを悩む描写は彼が地に足のついた生活の幸福を得られずにいることに対して焦りを感じていることを暗示していると解る。

以上から『夜間飛行』は全面的な行為の世界の肯定ではなく、そうした肯定に伴う不安や矛盾を吐露する意味があると結論づける。

本論

論点1:平井(1981)の妥当性について
冒頭に引用したように、平井は『夜間飛行』の物語を通してジュペリがリヴィエールの「自己超越」を肯定し、これによる救済を確信していたという。
平井のこの主張を支えているのは彼の議論の2つの前提である。 *5
一つはリヴィエールがサン=テグジュペリに相当する人物であるということ。
もう一つはリヴィエールが他の登場人物に対して特権的な人物であるということ。

ジュペリは『夜間飛行』執筆当時、リヴィエールと同じブエノスアイレスの空港の支配人であった。平井はここからリヴィエールがサン=テグジュペリの立場を代弁するものと考えていると思われるのだが、登場人物と筆者の共通性は必ずしもその登場人物の代弁者としての特権性を示すものではない。
また、リヴィエールが他の登場人物に対して特権的であると主張することはできない。というのも、確かにリヴィエールが登場するシーンは量的に多いが、登場シーンの量的な関係が純粋に作品の持つ意味の比重と比例すると考えるのは短絡的である。
加えて、『夜間飛行』は三人称で描かれている。リヴィエールの一人称で小説が構成されているのなら、平井のリヴィエールを特権視する分析は妥当だったかもしれないが、三人称で小説が描かれている以上、分析は他の登場人物にも公平に行われるべきだと思われる。

以上のことから、平井の結論は受け入れられない。我々は今一度リヴィエール含むその他の登場人物たちを分析し、『夜間飛行』の意味するところを問い直さねばならない。

論点2:藤田(2005)の妥当性について
藤田(2005)は『夜間飛行』の三人称性を研究するため、ファビアン、ヨーロッパ便操縦士、リヴィエールの会話パートから彼らの認識能力の及ぶ範囲を調べる中で、彼ら三人が独自の「秘密」を持った特権的な人物であることを発見する。

「秘密」とは彼ら3人の思考のこと、つまり彼らとその相手の認識する情報の差異のことである。ファビアンと会話する通信士、ヨーロッパ便操縦士と会話するその妻、リヴィエールと会話するファビアンの妻シモーヌは彼らの思考をうかがい知ることができない。
例えば通信士には「操縦士の戦略がわからなかった」 *6。
またヨーロッパ便操縦士の妻は「どこをどう回ればよいか」という策略を考える夫に「何を考えていらっしゃるの?」と尋ねている。 *7
藤田はこの認識能力の差異の分析から、通信士、操縦士の妻、シモーヌに対して、ファビアン、ヨーロッパ便操縦士、リヴィエールが認識能力的に優位であると結論づけた。

また、藤田はファビアン、ヨーロッパ便操縦士、リヴィエールが「秘密」を持つ理由について次のように言っている。

「なぜファビアン、ヨーロッパ便操縦士、そしてリヴィエールの3人だけが、秘密を持つ不透明な対象人物として特権化されているのだろうか、それは、彼ら3人が物語の主軸をなす行動の担い手だからである。物語全体を貫く主要シークエンスは夜間飛行の遂行であり、物語冒頭から遭難まで夜間飛行を担うのが飛行士ファビアン、夜間飛行の継続を命じるリヴィエール、そしてヨーロッパ便操縦士が飛び立つところで物語は閉じられる、これら3人の「秘密」として提示されていたのは、まさに夜間飛行の遂行をささえる本質というべきものである」 *8

藤田によれば、「秘密」を持つ特権が彼ら3人に許されるのは、ファビアン、ヨーロッパ便操縦士、リヴィエールがいずれも「夜間飛行」の遂行という行動を担う人物だからである。

ここから藤田は、彼ら三人が「3人の主要登場人物」であるとし、『夜間飛行』の三人称にはこれら人物を「神秘化・特権化」する機能があると結論する。 *9

私はファビアン、ヨーロッパ便操縦士、リヴィエールの3人だけが主要登場人物だとする藤田の説に反対する。
確かに彼ら3人に比べて、通信士、操縦士の妻、シモーヌは認識能力に制限がかかっている。しかし、認識能力上の差異から登場人物の特権性・重要性の優劣を結論づけることはできない。

「今夜と同じように、そのときも彼(=リヴィエール)は自分を孤独に感じたが、すぐにまた、このような孤独が持つ美しさを思い知った。あの音楽の伝言は、凡人たちのあいだにあって、秘密のような美しさを持って、彼に、彼だけに理解されたものだ。」 *10

藤田はこの一節を引いて『夜間飛行』においては「他人の伺いしれない秘密を持つことが一種の特権とされている」 *11 としたが、これは誤りである。
この一節から導き出されるのは「秘密」の持つ客観的(対他的)な特権性ではなく、「秘密」を持つことによってその当人が得られる主観的な特権性である。つまり、作品世界においてリヴィエールが「秘密」を持つことは、他の人々に対して彼が特権的な存在になるということではなく、彼が「他の人々に対して自分が特権的である」と思うことができるようになるということである。
実際、この直前の文章で「友人たちには音楽の意味がわからなかったので、「この芸術は、君にも僕にも退屈なのだが、ただ君はそれを白状しないだけなんだ」と言った」 *12 と書かれており、リヴィエールの秘密は他人に対して彼を特権化するようには働かなかったことが明らかにされている。

また、「夜間飛行」を遂行することが『夜間飛行』の主要シークエンスだということから、「夜間飛行」遂行に関係する人物だけを特権化をするのも短絡的である。
もし「夜間飛行」の遂行だけが『夜間飛行』の主要シークエンスなら、どうしてリヴィエールが「老い」に悩むシーンや、老技師ロブレの解雇のエピソード、橋のメタファー、そしてシモーヌとリヴィエールの対立が描かれなければならなかったのだろうか。
『夜間飛行』は「夜間飛行」の遂行とリヴィエールの「自己超越」の思想以外に、もう一つ重要なテーマを抱えている。それは「地に足がつかないことの恐怖」である。

論点3:地に足がつかないことの恐怖について
藤田(2005)はリヴィエールとシモーヌの対立から、作品世界に内在する巨大な対立を暴き出してみせる。それによると、リヴィエールは行動を原理とし、シモーヌは生活を原理とすることで彼らは真っ向から対立関係にあるというものである。 *13
「彼女は、男たちに幸福の神殿を思わせた」 *14 とあるように、シモーヌはこれまでリヴィエールと度々対立してきた「個人的幸福」、人間の生活を原理として象徴する存在である。
「規則というものは、宗教でいうなら儀式のようなもので、ばかげたことのようだが人間を鍛えてくれる」 *15 と考えるリヴィエールにとって、公平不公平という物差しは「夜間飛行」を安全かつ円滑にすすめる上で必要ないものであり、公平不公平の原理となる「個人的幸福」の追求は当たり前のようにリヴィエールと対立せざるを得ない。

ところでリヴィエールとシモーヌの対立、行動と生活の対立はどちらの優位に終わったのだろうか。平井も藤田も分析の上では生活より行動を重要なシークエンスとして理解していた。それは正しかったのだろうか。

平井はシモーヌの最後のシーンを引用して次のように分析する。

「若々しい女(=シモーヌ)はほとんど謙虚に近い微笑を浮かべながら出ていった」 *16

「彼女の表したこの最後の表情こそが、夜間飛行事業の一端を担った夫に、またリヴィエールに理解を見出したことを意味していると考える」 *17

確かにリヴィエールは立ち去ったシモーヌに対して「僕がたずねていたものを見いだす手伝いをしてくれる」 *18 と評価しており、平井の分析はリヴィエール視点ではまったく正しい。しかし、論点1でも述べたようにリヴィエールだけを特権視してはならない。
論点2のリヴィエールと秘密に関する引用で、彼は主観的な自身の特権化を行っていたことを思い出してほしい。私はこのシーンも「リヴィエールにとって」シモーヌの表情がどういう意味を持ったかということでしかなく、シモーヌ本人が行動の世界を肯定したという解釈は行き過ぎたものだと考える。

ここで改めて行動と生活という2つの原理がどのような関係にあるか考えよう。
藤田(1999)は論点2で言及したのとは別の論文で、『夜間飛行』の「船」のイメージを中心概念に据えることで、音韻から「川」を思わせるリヴィエールが「陸地=岸辺」に相当すると指摘していた。 *19
対してシモーヌは直接的なイメージは与えられていないが、「ベッド」が「港」に対応する ことを介して、ヨーロッパ便操縦士の妻は「港」が対応すると考えれば、(藤田の議論においてヨーロッパ便操縦士の妻は固有名を持たないために女性一般を指示する *21)シモーヌにも「港」が相当すると考えることができる。
もしシモーヌ=「港」を受け入れるなら、飛行士たち(船)が往き来する岸辺としてのリヴィエールと、飛行士を待つ港としての女性=家庭は存在としては等価に思える。
むしろ、「船」が浮かぶ「海」の源流が「川」である以上、「港」の存在を可能にする「船」、「船」の存在を可能にする「川」と考えると存在論的にはリヴィエールが最も優位にあることになる。

ただし、もっと原理的に考えるなら、リヴィエールが「川」として「船」に対して優位であることは「船」の存在が認められるときに限る。「船」が存在しなければ「川」は何の意味もなさないのだ。そして、「船」が「船」として意味を持つのは帰るべき「港」が存在するからである。

ここでもう一度シモーヌとリヴィエールの最後のシーンに戻ろう。

「彼女(=シモーヌ)はかすかに肩をぴくりとさせた。リヴィエールにはこの身振りの意味が解った、それには、「家にあたしを待っている、あのランプも、あの食事も、あの花束も、いまさらなんの役に立ちましょう……」との意味があった。(中略)今ここにいる若妻にとっても、ファビアンの死はようやくあすから始まるはずだった、今更に無益の一つ一つ、品物の一つ一つの中に」 *22

「川」であるリヴィエールにとって「港」は「船」を待つためのシステムでしかない。だからこそ「船」(=ファビアン)を亡くした「港」には何の意味もないとリヴィエールには思われる。しかしリヴィエールはこの逆、つまり「港」がなければ「船」は意味をなさないことに気づいていない。というより、おそらく意図的に無視している。というのも、リヴィエールは「港」を、「個人的幸福」を持たないからだ。
リヴィエールは冒頭から自らの「寂しさ」を老職工ルルーに吐露している 。また「僕は老いてきた……」 というセリフに漂う悲壮感の背後には、明らかに恋人も持たず個人的幸福を追求できずに仕事に従事してきた自分の消費した人生の長さへの嘆きがある。
これらはリヴィエールが本質的に抱えざるを得ない弱さ、行動に意味を与えるのはいつも生活であるのだという真理に矛盾する原理を抱えて自己超越しようとするリヴィエールが抱えざるを得ない弱さを示している。 *25

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*5 平井はリヴィエール以外の人物の動向について、リヴィエールに関係しない限り言及しないこと、また二度に渡ってリヴィエールとジュペリの共通性を強調することから、2つの前提があることは明らかである。しかし私が読む限り平井はこれら前提の妥当性については言及していない。
*6 サン=テグジュペリ(1931)p.54
*7 サン=テグジュペリ(1931)p.74
*8 藤田(2005)p.296
*9 藤田(2005)p.302
*10 サン=テグジュペリ(1931)p.58
*11 藤田(2005)p.296
*12 サン=テグジュペリ(1931)p.58
*13 藤田(2005)pp.298-299
*14 サン=テグジュペリ(1931)p.119
*15 サン=テグジュペリ(1931)p.39
*16 サン=テグジュペリ(1931)p.121
*17 平井(1981)p.47
*18 サン=テグジュペリ(1931)p.121
*19 藤田(1999)p.46
*20 藤田(1999)p.44
*21 藤田(2005)p.298、脚注11)参照
*22 サン=テグジュペリ(1931)pp.120-121
*23 サン=テグジュペリ(1931)pp.26-27
*24 サン=テグジュペリ(1931)p.25
*25 本論では長さ故に言及する事ができなかったが、藤田(2005)が指摘するロビノーの持つリヴィエールのパロディとしての役割という側面(pp.299-302参照)から、ペルランとロビノー、そしてペルランを処分するよう指示するリヴィエールのシーンを分析することでリヴィエールの「弱さ」をもっと詳しく分析できそうである。今後の課題としたい。

まとめ

 以上から明らかなように、『夜間飛行』はジッド、平井、藤田が注目するリヴィエールの「夜間飛行」と自己超越の物語だけでなく、シモーヌに代表される生活の原理の基礎性、それに対してリヴィエールが抱える矛盾とそれに基づく「弱さ」の物語が重要な要素として含まれている。
 個人的幸福を追求できずにいる、地に足がついていない人間が味わう老いへの恐怖、寂しさ、そうしたものに悩まなければならない人間の持つ必然的な弱さは、『夜間飛行』の持つ奥深い一面の一つである。

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参考文献
サン=テグジュペリ(1931)、堀口大學(訳)(2018)『夜間飛行』、新潮文庫
饗庭孝男・朝比奈誼・岩崎力・窪田般彌・平岡篤頼(1994)「20世紀」饗庭孝男・朝比奈誼・加藤民男(編)『新版フランス文学史』白水社
稲垣直樹(1992)『人と思想109サン=テグジュペリ』清水書院
藤田義孝(1999)「アレゴリーとしての『夜間飛行』:「船」のイメージを中心として」『フランス語フランス文学研究』75巻、日本フランス語フランス文学会、pp.38-48
藤田義孝(2005)「『夜間飛行』における複数視点」『フランス語フランス文学研究』85.86巻、日本フランス語フランス文学会、pp.292-305
平井裕(1981)「サン=テグジュペリ研究―『南方郵便機』と『夜間飛行』について―」『早稲田商学』290号、早稲田商学同攻会、pp35-50
2020/01/22

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