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8月に入って、私は勉強を始めた

一旦落ち着いた。とある音楽コンテストに応募することに決めて、今朝、最後の3曲をネットに投稿、この音楽コンテストに応募することにしたのは、曲の長さの制限がなかったからで、アンビエントミュージックを作っている私の曲は、ほとんど全て5分以上、長い曲は10分程度ある(委託しているサブスク投稿サービスが10分以上だと手続きが必要なので、10分以上になった曲は前後に分けている)。だいたいの音楽コンテストは5分以内などの長さの制限を設けていることが多いし、アンビエントミュージックという特殊かつマイナーなジャンルなので、もう音楽コンテストに応募することはないであろう、と私は考えていた。
この音楽コンテストの応募締切が明日までで、先ほど、私が完成させた全ての曲をネットにアップして、無事に全12曲を応募し終わった。確か、3週間の間に新曲を12曲アップしたはずである。これで、私のアンビエントミュージックのアルバムの3枚目が完成した。残るのは、手続きしてサブスクにアップするだけで、これは、来週以降、8月中に済ませればいいだろう。
まず、音楽制作が一旦落ち着いた。3枚目のアルバムを完成させて、音楽制作はしばらく控えようと考えている。

8月に入って、私は勉強を始めた。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の再読をして、最終章の「愛の実践」が難しいので、「愛の実践」の全文をノートに手書きで書き写す作業をしている。考えるところがあって、ネット配信しながら、音楽を流しつつ、写本を進めて、もうじきに書き写し終わるところまで来た。これが終われば、私の長い人生の夏休みが終わり、就職活動に入る。周りを見渡しても、それぞれに人生の区切り、変化があり、私の配信には何故か中学生が多く来て、今や中学生達の集う場所になっている。彼ら、彼女らは夏休みで、だいたい部活や塾で忙しいのだが、まもなく8月が終わり、新学期が始まる。そういう区切り、生活の移り変わりもあるだろう。
私が今月気付いて考えたのは、私の配信におけるリスナーへの影響で、一言で言えば、主に子供へ影響を与えているであろうことに気が付いた。私の配信は多分、それなりに適当に、だいたいで、気ままに行っていたのだが、繊細な子供達に悪い影響、特に、大人や社会の悪い部分、意地汚い部分を出すのは問題があるのではないか、と考えるようになった。
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の勉強を始めたのは、これからの私の人生に必要だと直感したからであったが、夏休みでも勉強している中学生のリスナー達に影響を受けたのもある。そうでなければ、勉強配信を行おうとは思わなかったであろう。私の場合は、学校の勉強ではないし、誰かから強いられた勉強でもなく、完全な独学で、自分が必要だと感じたから行っている。そういう違いはあって、私の勉強しているのが
「愛」というのもある。子供達と配信でやりとりするようになって、ひしひしと感じているのは、生きづらさであり、閉鎖感であり、心や社会の闇であった。それらのことを感じ、考えるだけでも途方もないスケールになっていって、社会学、心理学、ジェンダー論、個人の在り方などのややこしい問題が絡んでいく。

ややこしい問題を抱えた子供達がいて、それらのややこしい問題は子供のせいではなく、大人や社会が抱えている問題であり、子供達にしわ寄せがいって苦しめている構造になっている。だから、
子供達から見たら大人の一員であろう私もまた、子供達への何かしらの責任があるのは明らかで、私は私で配信に来ている子供達に私なりの何らかの責任を果たす義務や責任があるのかも知れない。義務や責任などとまで大袈裟に考える必要はないとは思うが、毛色の違う大人が毛色の違う配信を行う意味や意義があるだろう、とは思う。「勉強しなさい」としか言わない大人達の中で、1人ぐらいは「勉強しなくてもいい」と言う大人がいた方がいいし、私の場合は、最近、「文学を学んだ方がいい」とよく言うようになった。文学というのは、敷居が高いもので、誰それが簡単に読もうというものではない。映画でいえば、ハリウッド映画ではなく、前衛映画や芸術映画のようなもので、私は別に文学を学ぶために文学書を読め、と言いたいわけではない。映画や音楽にだって文学性はあって、それは漫画やアニメにだってある。音楽で言えば、今流行りのボカロの曲にだって文学性はあり、むしろ、YouTubeで気軽に聴ける若者達にとって耳触りのいいであろうボカロの曲に鋭利な文学性、つまり、メッセージ性や個の在り方、社会と自分との拗れ、世界観、などが表現されていることに、私は危惧を抱いている。
本来、個の在り方というものは、必要な人間が必要なだけ自分1人で考えたり独学をしたりして、答えらしきものを出すものである、というのが私の考えで、これは、個人的な信仰、と言っていいかも知れない。「個について考えること=文学」とは敷居が高いもので、敷居が高いなりの理由があったはずなのである。
簡単にいえば、ボカロ曲という消費しやすい音楽を繰り返し聞き、カラオケなどで歌うことによる周りとの共有化は、自己同一性に何らかの弊害、悪影響を及ぼす可能性があるだろう、と私が考えているからだ。ボカロ曲の尖った病んだ歌詞を吸収することで、私もそうではないか、と感化された結果、「メンヘラ」が増えたのではないか、と私は疑ってさえいる。少なくても、選択肢の少なさは、世界観の狭さに繋がるので、毛色の違う私は毛色の違う音楽を勉強配信で流すようにした。私の中ではメジャーな坂本龍一のアンビエントミュージックとか、小澤征爾が指揮をしているクラシック音楽、マイルス・デイビスなどである。押し付けるのではなく、自然に流れている空気のような存在として、私も音楽も存在していればいいのだろう。

 もともと、愛とは特定の人間に対する関係をいうものではない。それは一つの態度、すなわち性格の方向性であり、ある人がある愛の対象に対してではなく、全体としての世界と関係するその仕方を決定するものである。もし人が他のひとりの人のみを愛し、そしてほかの仲間には冷淡であるというのであれば、その愛は愛ではなく、共棲的な愛着であるか、あるいは拡大された自己中心主義にすぎないのである。しかし、大部分の人びとは、愛とはその能力によってではなく対象によって成り立つものであると信じている。実際、彼らは、自分たちが《愛した》人間を除いては誰をも愛さない、というのが自分たちの愛の強さの証拠であるというふうに信じていさえする。これはわれわれがすでに上に述べてきたと同じことであり、誤謬である。なぜならばこのとき人は、愛は活動であり、精神の力であることを理解していないからである。必要なのは正しい対象を見出すことだけである–––そして他のことはすべてその背後に退くものだ–––ということを信じているからである。この態度は、画を描きたいときには、技術を学ぶかわりに、正しい対象を得なければならない、そしてそれを見出しさえすれば美しく描けるだろうと主張する人に比べることができる。もしも私が、真にひとりの人を愛するならば、私はすべての人を愛し、世界を愛し、生命を愛するのである。もしもわたしが、誰かに「あなたを愛する」といえるならば、「私はあなたたちの誰をも愛する、私はあなたを通じて世界を愛する、私はあなたを愛し、また私自身を愛するのだ」といえなければならないはずなのである。
「愛するということ」エーリッヒ・フロム著 懸田克躬訳

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