日大明誠高校野球部時代の新聞記事 27 とみさん情報局(Tomisan_GO) 2018年8月22日 05:24 4番ファースト 富岡紘一 背番号3📰日刊スポーツ 1997.02.23連載 センバツ高校野球 いい感じ(20)日大明誠(山梨) 富岡紘一とみおか ひろかず日刊スポーツ 1997.02.23 4頁 表有 (全1,232字) 4番富岡が「背番号3」を勝ち取るまでの道のりは険しかった。生まれつき、左足親指の骨が足の甲骨から離れていた。その間で炎症が起こる「分裂種子骨しゅしこつ」に悩まされ続けた。投手として入部したものの、入学早々から松葉づえでの生活。 2年生の春、ようやく練習に参加できたがすぐに悪化。野球をやめたいと、かっとうの日々が続いた。8月、ようやく走れるまでになったが、投手としては無理だった。「それでバットを持たせたら、これがよく飛んでねえ」。荒井和夫監督(45)は振り返る。秋の県大会は背番号「21」で4番に座り、準々決勝の富士河口湖戦では2打席連続本塁打を放った。 打率は3割6分8厘だが、3、4打席目の打率が上回る。「試合経験もないのに、打てるのは天性のもの」(荒井監督)。関東大会では背番号「3」でベスト4に貢献した。「関東大会準決勝で負けた春日部共栄(埼玉)、そして上宮(大阪)に勝って優勝します」。 中学時代には、砲丸投げで東京・世田谷区の大会で優勝。関東大会に進んだ。勉強でも常にトップクラス。歌がうまくて将来の希望が歌手。卒業後は、外国で歌を勉強したいと留学も考えている。 「才能とはあきらめないこと」と言い切る「努力の男」が、晴れ舞台でその真価を問う。 【高橋順】 ◇鉄壁の二遊間 昨年からのレギュラーが6人残った。全国級の実力者はいないが、攻守にバランスが取れている。エース金子は174センチと小柄ながら、130キロ台の直球を投げ込む右の本格派。打線は捕手で1番の中村が出塁し、かき回す。3番佐野、4番富岡の長打もある。守備には絶対的な自信を持ち、中でも二塁手小方、遊撃手佐野の二遊間の守備は鉄壁。逆転に次ぐ逆転でセンバツ出場を決めたチームだけに、粘り強さが売りもの。 ◆日大明誠予想メンバー◆ ------------ 位置 選手名 学年 ------------ (投)金子孝之 (3) (捕)中村竜也 (3) (一)富岡紘一とみおか ひろかず (3) (二)小方豊 (3)※ (三)志村浩史 (3) (遊)佐野賢三 (3) (左)野村亮二 (3) (中)小宮一浩 (3) (右)岩隈章一 (3) (投)三樹寿朗 (3) (投)佐藤順一 (2)※ (捕)久保田祐介(2) (内)岡部敬義 (2) (内)★原正典 (3) (内)長井智将 (3) (外)野村克哉 (3) ------------ 【注】学年は新学年。※は左打者。選手名の★は主将 ◆日大明誠日本大学明誠高等学校 1960年(昭35)4月創立。校訓は「至誠・努力・調和」。生徒数は1199人(女子312人)。野球部は62年に創部。春夏通して、甲子園は初出場。部員数は48人(うち女子マネジャー4人)。バスケットボール、ウエートリフティングなどが全国レベル。東京と神奈川の県境にあるため、1都2県から生徒が集まる。寮、合宿所はなく、全員が自宅通学。水越志篤(ゆきとく)校長(56)は同校の1期生。山梨県北都留郡きたつるぐん上野原町上野原3200。日刊スポーツ新聞社📰毎日新聞 1997.04.02[97センバツ]日大明誠の富岡紘一選手 先天性、足に激痛の不安 耐えてさわやか毎日新聞 1997.04.02 大阪朝刊 26頁 社会 写図有 (全556字) 足の痛みは野球のできる喜びを教えてくれた--。1日の第2試合、日大明誠(山梨)の4番打者、富岡紘一選手(3年)=写真=は、いつ痛み出すかわからない足の不安を抱えながら、全力を出し切った。歩くことさえできなかった苦しみを乗り越えてつかんだ甲子園。富岡選手はドリーム・フィールドを踏みしめた。 中学3年の時、左足の指に激痛が走った。診断は「単純な骨折」だった。投手兼強打者と期待され日大明誠に進学した年の6月。今度は「脳天を突き抜けるような痛さ」に襲われた。精密検査の結果は、先天的に親指と甲の間の小さな骨が割れている分裂種子骨しゅしこつ炎。 松葉づえなしには歩けず、激しい運動をすれば痛みだす。「完治するか分からない」と言う医師の言葉に、目の前が暗くなった。それでも、ボールを握りたかった。 富岡選手は投手を断念して打撃練習に専念、翌夏にはチーム一の長距離打者になった。 「いつ痛みが出るかもしれない」という心配から、昨秋の県大会は背番号「21」の4番打者だった。しかし、同大会で2打席連続本塁打を放ち、不安がふっ切れた。背番号3を受け取った。 この日、報徳学園(兵庫)の前田智章投手に抑えられたが、富岡選手はさわやかな表情で言った。「多少の痛みとはこれからも付き合っていくしかない。本当の実力をつけて、夏、また来ます」【佐々木雅彦】毎日新聞社大会データなど第69回 選抜高等学校野球大会(平成9年/1997年) 🔗Wikipedia 🔗SportsBull 🔗日本高野連 🔗毎日新聞社 🔗日大明誠50th記念誌(p54)・発刊案内試合日程:1997年3月26日~4月9日試合会場:阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)出場校:32校優勝校:天理(奈良、5年ぶり16回目の出場、初優勝)試合数:31試合(トーナメント勝敗表)入場行進曲:『これが私の生きる道』(PUFFY)▼日大明誠(山梨、初出場、2回戦敗退)1回戦(1997.03.26) 日大明誠 4 - 1 豊浦(山口) [試合詳細] [動画ⓚ, 動画Ⓣunavailable]明誠 0 3 0 0 0 0 1 0 0 =4豊浦 0 0 0 0 0 0 0 1 0 =12回戦(1997.04.01) 日大明誠 0 - 5 報徳学園(兵庫) [試合詳細] [動画ⓚ, 動画Ⓣunavailable]明誠 0 0 0 0 0 0 0 0 0 =0報徳 0 0 0 3 0 1 1 0 X =5(補記) 荒井和夫監督日大明誠・荒井和夫監督(45)、敗戦の弁(センバツ1997.04.01) [↗]=== 補記① ===日大明誠の荒井和夫監督(69)に2020年度「育成功労賞」 2020.06.26発表 🔗日本高野連 🔗朝日新聞社 🔗日本大学新聞(広報紙)📰 最年長、教え子の活躍が喜び 日大明誠監督・荒井和夫さん 高校野球育成功労賞/山梨県朝日新聞 2020.07.21 東京地方版/山梨 21頁 山梨全県 写図有 (全811字)高校野球の発展と育成に尽くした指導者を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する「育成功労賞」に、県内から日大明誠監督の荒井和夫さん(69)が選ばれた。1989年1月に監督に就任し、97年の第69回選抜大会にも出場した。県内で現在、最年長の監督だ。栃木県出身。(田中正一)リード抜粋※電子版(朝日新聞デジタル, スポーツブル)にもほぼ同文掲載=== 補記② ===荒井和夫監督、2020.09.30をもって勇退 🔗日本大学明誠高等学校・学校公式ブログ 🔗日本大学明誠高等学校同窓会=== 補記③ ===荒井和夫前監督に出身高校後援会が御祝贈呈 2020.11.02 🔗栃木県立小山高等学校おやまこうとうがっこう野球部後援会AppendixTwitter 日本大学明誠高等学校PR 2013.11.30 [↗]This Tweet is from an account that no longer exists.(Cache: BaURw8ZCEAE-2SX.jpg)日大明誠高校 富岡紘一 [↗]日大明誠高校野球部メンバー表(1997) [↗]背番号3 富岡紘一 (日大明誠高校野球部1997) [↗]★とみさん情報局(Twitter) https://twitter.com/Tomisan_GO★とみさんプロフィール https://Bit.ly/TomisanBio★とみさんディスコグラフィ https://Bit.ly/TomisanDisco★とみさん便利リンク https://lit.link/TomisanGO ダウンロード copy #高校野球 #watercolor #男性シンガーソングライター #日大明誠 #とみさん #甲子園球児 #富岡紘一 #1997センバツ #荒井和夫 #世田谷センタッキーズ背番号21 27