『わが性と生』瀬戸内寂聴+瀬戸内晴美著、新潮社

 いやあ、この本はエロい。心底そう思います。人間の持つ官能を求める性を、こんなにさらりと語れるのは、瀬戸内晴美(寂聴)という小説家だからでしょう。私はこの本を見つけたときに、徹底徹尾、人の情欲に関わる深い話になると期待を持ったのです。何しろ、著者自身が情欲を深く求めた自身と、それを絶ちきった自身との対話なのです。だから、そこで語られる「性」や「生」が半端なわけはありません。そして、この本は、私の期待など軽く飛び越えて、もっと大きく広くそして深く、性の話に立ち入っていくものでした。気になったところを3点あげて、チラ見してもらいましょう。

● あぶな絵、文学、性のめばえ

 小学校のとき、著者は同級に芸者を母に持つ子と友だちになっています。学校がひけると毎日のように彼女の家(当時の徳島の色街富田町)に遊びに行っていて、自分の家とは違う情緒的な雰囲気に馴染んだといいます。その家で、友だちのお母さん(芸者)の鏡台の引き出しから、著者と友だちは、極彩色のあぶな絵を発見して見入っていました。著者はその当時のことを思い出してこう言っています―「美しいものは秘密めかしいもの、人には見たといえないもの、かくすからいっそうそれは心をそそり慕わしいものということを子供心に覚えたようです。まだ、淫靡とか淫猥とかいうことばも知らない幼さでした。『みだら』ということを、その地方では『げさく』ということばで表していました。」(p24〜25、晴美から寂聴へ)

 私自身が、はじめて、「あぶな絵」のようなもの(もろ写真でしたが)を見たのは小学5年生でした。父の書斎の中を「探検」していたら、たまたま机の引き出しから発見したのです。男女が裸でもつれあっている姿の写真は、はじめ何だかわかりませんでした。なぜだか、滑稽に思えたけれど、視線をはずすこともできず、くいいるように見ていました。そして、それを見たことは絶対に言ってはいけない秘密として、私は、自分の小さい心の中にしまいました。わからないように、その写真を元の場所に戻しましたが、その後、時々その写真をのぞきに「侵入」を繰り返していたと記憶しています。

 この本からわかるのは、著者はそうとうな、おませなお嬢さんだったようですが、それは読書によるところが大きいようでした。自分の家に置いてある本を読み飽きていた著者は、近所の薬局のおっちゃんの書棚に目をつけていたのです。そこにあるたくさんの禁断の書を貸してもらってどんどん読んでいきます―「私はその叢書で(たしか、五、六巻でした)、世界の性愛秘典籍や、好色文学に触れたように覚えています。たとえば、カーマ・スートラ、素女経、医心方、金瓶梅、アラビアンナイト、デカメロン、おしゃべり宝石、ファニー・ヒルなどの本の名と共に、ボッカチオ、ボルテール、マルキ・ド・サド、ラ・フォンテーヌ、バルザック、モーパッサン、フローベル、ミュッセ、ボードレール、チョーサ、シェークスピア、バードン等の名に接したのでした。」(p37、晴美から寂聴へ)—こう並べられると壮観です。著者は、こんな本を小学生から女学生2年ぐらいまで読んでいたというのです。恐ろしく早熟だといえるでしょう。子供のときから、これだけの刺激に満ちた本を読んでいた影響はどれほどだったのでしょうか。

● 性、好色、男と女

 禿げている人って、なんかエロそうです。だから、好色というと、頭がつるつるてんな親父なんて想像してしまいます。しかし、著者によると、ほんとに好色な男は禿より白髪になるようだというのです。私は禿げないぞ、と喜んでいるのですが、どうやら、私も好色の部類に入るのかもしれません。ここで著者は、そもそも好色とは何かというと―「…ただもう精力が強いというだけではなく、性愛の情緒も愉しめる、性愛のまわりのことすべてが好きな人間で、性交だけを目的のすべてとはしない人種のことです。」(p98、寂聴から晴美へ)

 ここから、私はカサノヴァのことを思い出しました。好色とは色男であり、人気ものなのです。だから、けっして欲求不満な人ではなく、女性をみたらひとつのことしか考えないという獣のような輩とは違います。心底、異性を好むことであり、日々の異性との付き合いかたについても、相手を楽しませたり大事にしていく姿勢を持つことだと思うのです。だから、ロマンスグレーの紳士なんていうイメージが、好色の標準的な姿なのかもしれません。そこには、気品もあり、落ち着きもあり、ユーモアセンスにあふれているのです。これこそが、色男、別名好色な男になるというものです。ぜひ、私もそんな好色男をめざしたいと思います。

● 安部定の誠実さと聡明さ

 後半で取りあげられた安部定事件の調書には驚きました。安部定。狂おしいまでも相手に惚れて、激しく求め合って、相手を永遠に自分のモノにした上で、その象徴となる「相手の分身」をちょんぎった女傑。その事件の調書が、とんでもなく官能的であると紹介してくれています。これは、そこんじょそこらにある小説なんて束にしても、表現できない迫力に満ちています。

 著者は、この調書から、定の「率直な人間で江戸っ子らしい一本気のあっさりとした気質」で「頭のよく廻る聡明な女」であると評価しています。私が感じたのは、事細かく説明をしてゆくのですが、その言語表現力は凄まじいものがあります。読んでいるだけで、すぐそばにいるような臨場感をもたらす言葉には、聡明以上に言語表現の才能もあったに違いありません。ちょっとだけですが、頻用してみます。

 「また石田は寝間がとても巧者な男で、情事の時は女の気持ちをよく知っており、自分は長く辛抱して、私が充分気持ちをよくするようにしてくれと口説百万陀羅で女の気持ちをよくすることに努力し、1度情交してもまたすぐ大きくなるという精力ぶりでした。私は石田が技巧だけでなく本当に私に惚れて情事をするのかどうか試したことがありました。申し上げるのも失礼やらはすかしいやらですが、4月23日吉田屋を家出した時(二人の仲がばれたので石田としめし合せて家を出た)私は月経でお腰が少し汚れていたのですが、それでも石田は厭がらず触ったり舐めたりしてくれました。」(p147、寂聴から晴美へ)

 このような記述が事細かく続いていくようです。しかし、そんな調書まで目を通しているとは、なんとまあ、やはり仏門に入ったとしても、性にかかわる情報には通じていらっしゃるのがすごいです。その調書を読んでいくと、そこには狂女ではなく、純粋に愛を貫きとおそうとする一本気な女がいるように思えてきます。

 生と性。生きるには、性を欠かせないでしょう。だからといって、簡単な話でもありません。こちらが勝手に盛り上がっても、相手はなんとも思わなければ、恋すれど、愛し合えないのですから。当然ながら、お互いが求めてこそ、「性」の関係がなりたちます。それでも、人は人を求め、男は女を求め、女は男を求めます。好きになるのも生きることだし、愛を求めるのも生きることです。それに挫折して、苦しい思いにとらわれるのも生きることです。

 でも、人を好きになったり、人から拒絶されて世界が終りだと思ったりしたとき、どうすればいいのでしょうか。そんな傷心を、カラオケへ行ってがんがん歌うのもありです。酒をあびるほどのんでへべれけに自分を失うのもありでしょう。でももう一つぜひ覚えておいてほしいのが、文学作品の中に耽溺することです。生と性。どうこういっても、これらの運命と衝動からは、逃れることはできないでしょう。だからこそ、昔から文学の大きなテーマになっているのです。ドンファンに学ぶもよし、カサノヴァに習うもよし。まずは、マルキ・ド・サドなんてあぶないところから読んでみては?


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