見出し画像

『父の詫び状』向田邦子著、文春文庫

 ほぼ1週間ほど前のことだが、私は鹿児島の近代文学館を訪れた。出張したついでに1日だけ帰るのを伸ばして、鹿児島市内を歩いてみたのだ。私はJR鹿児島中央駅より天文館をめざした。途中、フランシスコ・ザビエル公園をのぞき、サビエル教会に入り、礼拝堂で静かな時間を過ごし、そのすぐ近くに見つけたのが近代文学館だった。本が好きなものにすれば、迷わずそこを訪ねたわけである。ポスターには向田邦子の大きな写真があった。他にも鹿児島に馴染みのある作家が紹介されていた。

 数ある作家の中でも、私にも馴染みがあったのは、歴史小説の大家である海音寺潮五郎、放浪記で有名な林芙美子など。私の大のお気に入りの向田邦子は、鹿児島に子供の時に住んだことがあるので紹介されていた。「なるほど、だからポスターの写真になっていたのだ」と合点した。文学館の展示コーナでは、作家ごとに空間が分けられ、壁にはその作家の1行ほどの引用文が書かれている。それらの文は、文脈から切り取られているのに躍動的だ。その言葉が自分の心に入ってきて、私の文脈の中で動き出すような気になり、ドキッとする。言葉が生きていると感じた瞬間だ。私は言葉を感じながら、館内の展示をゆっくりとみた。

 私はホテルに戻る途中、本屋に立ち寄った。それは近代文学館に寄った記念に、そこで紹介されている作家の本がほしかったからだ。向田邦子のこれまで読んでない『父の詫び状』を見つけたので買い求めた。読み始めて気づいたのだが、この本はエッセイとして向田邦子の初めての作品集だった。

 私は目次をながめて、まずは、九州に関係しそうな「薩摩揚」を読んでみた。いきなり引き込まれた。向田はどこかの町を訪れると必ず市場をのぞくという。そこにかまぼこ屋があるとどうにも気になってしまうらしい。そして薩摩揚があると立ち食いしてみて・・・がっかりする・・・そんな話から始まっている。向田は36年前に鹿児島で食べた薩摩揚の味が忘れられず、「もしかしたら」と期待して、「やっぱり」と消沈する。

 ここから小学3年の時に鹿児島に来るという話に飛んでいく。ここまで読んで、私は自分の昔を思い出してた。私の故郷である京都の三条京阪、京極という繁華街のレストランのポテトサラダを思い出していた。向田の薩摩揚は、私にはポテトサラダで、どうにもポテトサラダをみると「もしかしたら」と思って「やっぱり」という落胆する繰り返しをしてきている。素朴な食べ物の味が忘れられない自分の体験が蘇り、向田のエッセイに取り込まれていく。これがいつもの展開なのである。向田のエッセイはいつだって、私の記憶を耕やしていく。忘れたことを、土を耕すように掘り出してくれて、そのエッセイと私の記憶が絡み合っていくのである。

 向田は薩摩揚だけでなく、他にもカレーなども昔美味しいと思った味を探してみて、がっかりすることを繰り返している。その飽くなき探求の結果だろうか。それとも、往生際の悪い自分の性に嫌気がさした諦めだろうか、こんな言葉を残してくれている。

「思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないのではないか。だから、私は、母に子供の頃食べたうどん粉カレーを作ってよ、などとは決していわないことにしている」(p247、昔カレー)

 大賛成である。その時のいろんな要素が絡み合い、その時の「美味しさ」があったわけだ。私にとっての「昔カレー」は何だろうかと考えてすぐに思い浮かんだのは竹輪鍋だった。私は大学を卒業してから、就職するまでの1ヶ月ほど、宿無し状態になり、友だちの家に居候させてもらった経験がある。その時の最初の夜に、数人ばかりの野郎どもが集まって歓迎の鍋パーティんを開いてくれたのだが、その鍋のメインが「竹輪」だった。それも、スーパーで100円ぐらいで売っている安もんの竹輪だった。そこに白菜とえのき茸だけのシンプルな鍋だったが、それがうまかった。友情の味がしたんだと思う。その家を提供してくれた友だちは、彼女と住んでいたのだが、その期間、実家に帰ってもらうように計らってくれていた。そんな中での「竹輪鍋」は、私には最高のもてなしだったし、忘れられない美味しさを覚えている。ただ、これは確かめる必要もないくらい同じ食材で今食べても美味しいとは思えないだろう。少なくとも「本当に上手い!」と、あの時叫んだような感動はえられないはずである。 

 私はいつも巻末の本の解説は読まないのだが、今回は違った。それは書き手が沢木耕太郎だからだ。これまで何冊か、沢木の本を読んだが、いつもその真摯な姿勢に感銘を受けている。だから、沢木のフィルター越しに、向田邦子を改めて考えることに期待した。そして、私がなぜ向田のエッセイにいつも揺れうごかされるのかわっきりとわかった。

 この『父の詫び状』(24篇)から感じる「独特の精妙さ、鮮やかさ」の秘密を3つの観点から解き明かしてくれる。

 まずは、文章表現の見事さ、言い換えると「どれも文章が極めて視覚的」であることをあげている。私が向田のエッセイのいろんなところから、私の過去の出来事とつながっていくのは、その描写が視覚的であるために起こることである。

 2番目に、話と話の展開が斬新である。沢木は「結構がドラマチックなのだ」と述べ、「挿話と挿話のつなぎ方が大胆な飛躍」があるとしている。私は初めて向田邦子のエッセイを読んだ時に、話が変わる時の変わり方があまりに違うところにいくのに面食らった。そして、そんなに大胆な飛躍をしてもいいのだと教わった気がしていた。

 最後に、それらの「挿話が一挙に統合される」という。当然といえば当然なのだが、タイトルがあり、それがテーマとなって文章が展開していくのだから、途中でほとんど関係がないように思えた話を、最後にどう結びつけるかが書き手の技であり美である。それを沢木はこんな風に表現してくれる。「最後の数行とエッセイの題名が共鳴しあい、勝手な方向をむいていた挿話が一つの方向にむき直る」まさに、ピタッと最後の瞬間で収まるのである。

 沢木耕太郎は、山本夏彦は雑誌の連載時評『笑わぬでもなし』で、向田邦子の『父の詫び状』を評した言葉を紹介している。《向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である》。

 そんな名人、向田邦子が誕生した基盤は、沢木に言わせると三つだという。

まずは、テレビドラマを永く書き続けてきた「経験」から、視覚的に表現することに長けている。次に、どんなに経験が豊富でもそれだけではダメで、いろんな挿話をしっかりと「記憶」していることがあげられる。沢木はそんなところを「向田邦子は記憶を読む職人」と言い、膨大な数の挿話が語られているが、それは単に記憶が良いなどで理解できるものではないという。ここのところの沢木の説明を引用する。

「ある主題に沿って記憶を読み直し、それを提出しているのだ。過去の暗闇の底にロープで降り、懐中電灯のようなものを当てて、記憶を読み直していく。男性的な眼と女性的な眼を合わせ持つことのできた稀有の存在である彼女には、それを読む視線と他と異なる独特の角度が生じる。そのような視線によって切り取られた記憶の絵柄は、男性にとっても女性にとっても、馴染みの深いものでありながらまったく目新しいものに映るのだ」(p293、解説)

 そして、最後の要因としてあげているのは「位置」だという。ものを「見る立ち位置」のことで、視座がしっかりしているからだという。

「しかし、向田邦子がこのような記憶の読み方ができるようになったについては、明らかに年齢が重要な意味を持っていた。それだけ多くの経験を手に入れることができたから、というのではなく、少なくとも彼女自身が自分の『位置』に納得し、そこから世界を見ることに慣れる必要があったと思えるのだ」(p293~294)

 だから、向田邦子は、これら「経験」「記憶」「位置」のどれが欠けても、エッセイストの向田邦子は誕生しなかったかもしれないし、『父の詫び状』が生まれなかったかもしれない。

 そして、この次の文字を目にしてはっとした。その原稿の終盤、「5」という番号が振られた後、こうはじまる。

「・・・・ここまで書き終わったのは、八月二十二日の土曜日だった。
 午後二時、一息つくつもりでラジオのスイッチを入れた。しばらくして、台湾上空で飛行機の爆発事故があり、乗客乗員の全員が絶望とみられている、というニュースが流れた。アナウンサーは、さらにその飛行機に乗り合わせた日本人乗客の名を読み上げはじめた」

 文庫本としてこの本が出版されているから、こんな巡り合わせになるのだろう。私は向田邦子の最初のエッセイ選集を読んで、その巻末の解説でいきなりその著者の劇的すぎる事故を知らされる。向田邦子の事故のことは知っていたけど、解説の最後の部分でその事故を知ったということに、しばし呆然としてしまった。そして、沢木耕太郎が藤圭子の事故の後に出した『流星ひとつ』という対談本を連想した。ものを書くという因果な職業だとそんな遭遇が頻発するのか、それとも沢木耕太郎が持つ一種の運命なのだろうか。ただ、私が勝手に向田邦子と藤圭子をなぞらえて、自分の勝手な妄想と想像力に翻弄されているのか。そんなことを私は考えていた。向田邦子はその飛行機事故で帰らぬ人となっている。昭和56年8月22日のことだった。

(2016年10月19日のブログ、「自宅で立ち読み」より)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?