自分の顔
このところ,春を感じることも多くなってきたけれど,今日は雨がひどく降っていた。そんななか,私は飛脚となり,学会誌への投稿論文を先方へ届けてきた。
半月前,卒論すらまだ完成していなかったにも関わらず,
今日締め切りの論文について,教授から「出さんのか」という言葉が。
たくさんあるデータをまだ分析できておらず,
卒論も書き終わっていなかったため,判断を先送りにしていたが,
悪癖というか,そのときの勢いで「出します」といってしまった。
専門知識や語彙力の不足のもと,連日の徹夜の中で,
変わっていったのは鏡を見たときの「自分の顔」である。
データの精査や教授と相対し,精神力が消耗するとともに
鏡にうつる顔は日々酷くなっていった。
−−−−−−
「自分の顔」について
幼い頃,人前で鏡を見ることができなかった。
恥ずかしいことをしているような気がして。
他人(家族含む)に鏡を見ている自分を見られたら
恥ずか死してしまうほどに。
なので鏡と対峙するときは,必ずヘンナカオをするようになった。
そうすると安心するのだった。
−−−−−−
サンタさんからもらったプレゼントに
『シーマン2〜北京原人育成キット〜』というのがある。
プレイステーション2でできるゲームで,主な内容は無人島で生活している北京原人を育てるというものだ。
小学6年生の頃,ひと通りプレイした後はブックオフへ売ってしまったが,長年プレイ意欲が若干残っている作品である。
記憶に残っているエピソード。
育成していた北京原人ガボちゃんはクマ狩りで突如死んでしまう。
幼い息子を残して。
ガボちゃんの死に際にはシーマンが現れ,次のような言葉をいう。
(Youtube動画から引用)
「ガボ、しんじまったか」
「あっけないもんだねぇ、人が死ぬってのは」
「おまえさぁ、しってるか?」
「人が一生かけても絶対に見ることができない唯一のものは何かを」
「自分の顔だよ」
「自分の顔だけはどうあがいても直接見ることはできないだろう?」
「鏡にうつったものくらいしかね」
「でもね、一生が終わった直後に、たった一度だけ見れるんだな」
「ほら、ガボ、今自分の顔をまじまじと見てるよ」
「俺はこんな顔をしていたのかなぁなんてね」
もう10年ほど経ってしまったが,いまだに覚えているシーンである。
−−−−−−
鏡にうつる自分の顔は他人がみる面と左右逆になっている。
間接的に見る手段としてはカメラで撮るという方法もあるが,
それは今の自分の顔ではない。
他人の目からの自分,鏡の自分,自分の目からの自分。
ヘンナカオをする習慣は未だに抜けていないが,
論文作成時はそんな余裕もなかったようだ。
忙しいうちにでも,自分がやらなければならないこと。
忙しいうちにでも,自分がやりたいこと。
その忙しさに慣れないうちはその選択が難しい。
余談だが,最近,Cat Stevensが歌うEdger Winterのカヴァー“Dying to live” をよく聴く。
いずれにせよ,結果の妄想,妄想の考察だけは避けたいところだ。
反省,ともに精進いたす。
死直後の自分の顔。
見られるのが恥ずかしいといってヘンナカオをしてないといいが。
(記:2018.3.5 A・K)
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