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後楽園(野劇)のお話/"その②"

幼少期の僕の家庭には問題があった。(詳しくは伏せるが)もっとも、それを"免罪符"にしたことは、今に至っても一度もないが。

ただ、そのためか人一倍ひとから認めてもらいたい、学校の休み時間や放課後、普通に遊べる友達や、理解し合える"仲間"の存在に、人一倍憧れる少年になったようだ。

実際、親との関係や家庭の環境が上手く行きはじめたのも、アクションの道を志し、強い決意と、あるかたち誰もが見てわかる表立った結果が現れるようになってからだった。

母親の口癖は、「学生は学業が本分。私達の時代は勉強したくてもさせてもらえなかった。」必然的に(幼少期の)僕も、好きなことはなかなかやらせてもらえなかったし、好きな服さえ選べなかった。その頃流行っていた、"ジャージ"を学校に来て行くことも許されなかったし、皆が楽しそうにやっている少年野球も、やらせてもらえるようになるまで2年間の直談判を費やした。駄菓子を買えるのは、週に一度の月曜日、100円分だけ。漫画を一冊買ってもらえるのも、一週間連続でテストで満点を取ることが条件だった。


(*当時ヒーローものに憧れて新聞紙とビニールテープで作った自作のスピアー。♪ 当たり前にめっちゃ重かった。笑)



そして…

いずれこうなる。笑。



さて、前回の清々しい高岩さんの声で締めくくったお話から一転(笑)、これがどう後楽園と繋がるのか、、もう少し進めます。


小・中学校時代、好きな女の子も出来、皆から同等に見てほしかった願いは叶わず、飛び抜けて背も低かったし、発育も目に見えて極端に遅かった。容姿やスタイルの欠点も、お尻の形まで、いつも皆に笑われた。無論、初の彼女が出来たのも、(周りはもっぱらカップルだらけの中、笑)二十歳をゆうに超えてからだった。(僕目線では)木佐アナウンサー似の、少し年下の後楽園のアルバイトの女の子だった。笑

…話が少しそれました(笑)


ドラフト・キース役だったジュウレンジャーの最終期、ショーの幕間、ステージ裏の通路付近で、(後の人生にもおける恩師となった)JACアクション監督/竹田道弘さんから『あの言葉』を頂くまでの3年間も、舞台上に立つ以外も勿論、いろいろやった。

先輩の付き人もした。練習中呼び出されてマッサージもしたしパンツも洗った。胸ぐらを掴まれたり頬を叩かれたこともあった。それでも楽しいことが大半だったけど、ショーの幕間に馬券売り場に並んで馬券を買いに行かされるのは少し疑問だった。

いや、それでもそんなことを、あまり苦に思わなかった。増してや、それがあるからこんな未熟者でもこの神聖な舞台に立たせてもらえるんだと思っていた。


野劇は、そんな幼少時代からの"思い"含め全てを、解決し、叶え、いつも味方してくれた。

だからこそこの場所にも、"ひと"にも、返さなければならないものが、責任が、沢山あった。



『秋山…

頑張ってればいいことあるぞ。』


それが、すれ違い様に、片方の口角を少しだけ上げながら、竹田さんがボソッと残していった言葉だった。


次のシリーズ、"ダイレンジャー/第1期"への伏線だった。 さて… !!?。。。


28年前のお話。



…〜 "その③"へ。。♪

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