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かかわりたくないわけじゃなくて距離の近さが怖い

さいきんの気持ち、文字にしてみようと思う。

あっちゃこっちゃ思うことがあって、頭の中がとても忙しくて、入っては消え入っては消えるような思考をつかまえることもできず、わちゃわちゃ状態すぎて、書き留めることがとても難しいのだけど、それでもテーマを絞って、ひとつ、それでも、そのなかでもいちばん自分を悩ませることをいうとしたら、それは、いくつになっても、ずっと、人との距離感が難しいな、ということだと思う。

そのことだけでも絞って、書いてみようかな。

先日、自分が一方的に一部の人との関係性が近すぎてしんどくなって、イタリアンのお店を辞めた。

初めは、みんなやさしい人たちで、そのおかげもあって、これまでいろんな飲食店を渡り歩いてきているけれど、常に人手不足状態な飲食店で忙しくてぎすぎすしがちな環境要素がありながら、そこは、周りに気配りできたり思いやりができたり、細かいことによく気づいて丁寧な人たちが集まっていたりして、自分はとても居心地がよかった。

こんなふうに、お互いを思いやれる人たちが集まると、こんなふうにあたたかい空間になるんだなということを感じて、わたしもそこにいることがとても居心地がよいと感じることもできた。

だけど、そこからが、自分とほかの人と違うのかな、と思い悩む始まりになった。

似たような、いわゆる繊細タイプだったり、気にしいタイプの人たちでも、会う機会が増えてくると、仲良くなりたい気持ち、距離を縮めたい気持ちというものが出てくるようだ。

だんだん距離が近づいてくるにつれて、ずっと一定の距離感で、なんなら初対面の緊張感のある関係性でいたい自分とはちがうのかということに、わたしは思い悩むようになっていった。

初めはちょっとの違和感で、だけど、相手が「仲良くなりたい」「距離を縮めたい」という気持ちは理解しているからむげにしたくないし、その気持ちは尊重したいと思っていた。

でも、ちょっとの違和感をゆるしたことで、どんどんと、ずるずると、自分にとっては、もう入ってこないでというパーソナルスペースに、ずけずけと土足で入っていかれることが、息苦しくなって、追い詰められていったのだった。

「距離感」についての価値観は、尊重し合うことはむずかしいのだろうか。

本当に、いやな人、性格の悪い人が、明らかに近づいてきたら、ノーと拒否することが、わたしはできる。

昔はそれすらできなくて、もっと自分を傷つける結果になってしまったけれど。

だけど、メンタリティーも似ていて、相性も悪くないし、気心も知れてたりする関係性の人に距離を近づかれたとき、それに「ノー」と言うことが、いろいろ悩んで悩んで、どうやって相手を傷つけずに意思表示できるかと考えて考えて考えまくってみたけれど、

相手の気心も知れていて、きっとこう言えばこう思うだろうなとか、自分の表情や雰囲気を、この相手だったら自分のわずかな変化で読み取ってしまって、なにもいわずに傷つけてしまうだろうな…と思って、最後の瞬間までできなかった。

それが、結果的に、なんのわたしのやさしさにはならなくて、それが、お互いにとって、なにもいいことはないこともわかっているのだけれど。

だから、わたしとかかわったってメリットなんてないのに、なんで仲良くなりたいんだろう、と自虐気味に言って、人と遠ざかってしまう所以であったりもする。

いつもわたしは、相手ことを尊重して、相手の望むリクエストにものすごくサービス精神旺盛でこたえようとするのに、こういう決定的なちがいをめぐったところで、自分のことを尊重してもらうことができない、というか、諦めている気がする。

というか、こういう「距離感を詰められるのが死ぬほどいやだから、仲良くなっても、適切な距離をはかって接してほしい」ということは、なんていうんだろう、これをほんとうに言ってしまったら、すべてがおしまいだろう、という気持ちになってしまうからだと思う。

これまで、そうしたスタンスを、ちょいちょい匂わせたところで、社会からはじかれるだけでなんのメリットもなかったし、そういうことをはっきり表明する人が、反社会的だとかいって、その人がただ、その人にフィットした距離感望でもって社会とかかわっているというだけの話なのに、勝手に、「あの人は壁を作ってる」だの、「人とかかわりたがらない変な人」「孤独好きな人」とか、なんらかの浮いた人みたいにとられたりするのを、いやというくらいみてきた。

実際にわたし自身も、「自分の世界にだけこもってる」とか「そうやってすぐに壁を作りたがる」「人とかかわりたがらない」とか、ものすごくネガティブな反社会的分子として、「人間嫌い」だとか「サイコパス」だとか「会社で求める人物像に相応しくない」とか、さんざんなとらえられようをして、社会から抹殺されし続けてきた。

わたしはただ、自分には自分の適切な距離感やパーソナルスペースがあるだけであって、その中に侵入される過度な関わり合いが、心身に悪影響を及ぼすくらいに、普通の人が思っている以上に、見た目以上に、すごく負担になっているというだけなのだけど。

決して、「かかわりたくない」というわけではなくて、ほんとうに気心の知れた人とはかかわりたいし、実際に、その距離感で尊重し合える人とは一緒にいられるのだけど。

だけど、そういうふうに、普通の?、いわゆるスタンダードな距離の詰め方を当たり前のようにされると、そういうような結果になってしまって、結果、すごく雑なかんじで、最後には、「誰ともかかわりたくない人」というレッテルをはられてしまう、なんていう理不尽。

結果的に、一人になったとたんに、自由に息ができるような気持ちにもなるし、もともとの気性もあるかもだけど、内向的な森の世界を探訪するのもとてもとても慣れ親しんだ世界になったし、自分で自分がいられる感覚がそこにあるというか。

距離感について、自分がそうやって考えていることを、誰もに普通に話せればいいと思う。

だけど、やさしい人だったり、おせっかいだったり、面倒見がよかったりする自分で保とうとしているようなタイプの人には、なぜかわたしは、その人にそれを言ったらおしまいだなあという気持ちになってしまって、言えなくなってしまう。

なんとなく、これは自分の過度な思い込みかもしれないけれど、たぶん、この人にそれを言ったら、この人は、それが一番傷ついたり悲しんだりする言葉なんだろうなと、本能的に予想されてしまうから、言えない。

でも、そこからが、地獄の関係性の始まり。

もう、わたしが無理している、ということから、関係性が始まっている。

わたしが無理していることが前提で、ずっと黙らされている気持ちで、抑圧させられている気持ちで、わたしはその人に合わせるしかできなくなる。

その人が傷つかないような行動をするしかできなくなる。

そういう人は、そういう言動をされたら傷ついて壊れてしまうくらいのもろさを抱えていることが、うまく言葉にできないけれど、わかってしまって。

でも、そこからして、対等ではもうなくて、腫れ物として接している、ケアしていて、ものすごく気を遣って、この人をケアしなきゃ、みたいな気持ちに、なぜかなってしまう。

だから、このパターンになると、もう何百回と繰り返されてきてわかっているのに、自分がしんどくなってきてしまう。

でも相手は、この人ならわかってくれる、とどんどん信頼されてきてしまって、心を解放されてしまって、もっと近づきたいと思わせてしまう。

わたしは、わたしのことは永遠に尊重されることのない関係性が、自分に嘘をつくことで始まった関係性は、そんな対等ではない関係性は、遅かれ早かれ終わりを迎えることは、これまでの何度も苦い経験から、いやなほどわかっている。

だからこそ、そういう関係性ははかないし、一過性のものだから、申し訳なさや、罪悪感から、いずれ終わってしまうから、残された時間、相手がもっとも距離を詰めてやりたいことを実現させてあげようとか、望みに応えてあげようとか、相手と過ごすその時間は、すべて「義務」であり「タスク」であって「罪滅ぼし」であって(すごい上から目線で、これを普通に言うのもはばかられる)、

だけど、わたしもその人との関係性だけが人生のすべてじゃないし、やりたいことがほかにもあるから、いずれ抱えきれなくなって限界を迎えて、ある日もう無理、タイムオーバーとなって、

相手からしたら、突然裏切られた、突然縁を切られた、みたいなひどい恨みを買うようなことをする結果になってしまう。

相手からしたら「裏切られた」と被害者じみて言われることも、こちらからしたら、「はじめからしんどくて、本当はいやだった」「考えて考えて、その苦痛の積み重ねの結果なんだよ」と言いたい。

だけど、こういう関係性をフェアに立証するのは、いつもむずかしい。

わかりやすい例でいえば、性的合意に似ているかもしれない。いやだけど言えないけれど、進んでいく関係性というのがあるから、いまさらになって「性的合意」というのがやっと、どんなに大切なことか、多くの人が考えるようになってきているのだと思う。

だけど、なかなか話がまとまらないのは、「いや、でもそんなことあとから言ったって、そのときは乗り気だったでしょ?」「合意していなくたって、お前だってあのときはあんなに楽しんでやってただろ?」みたいなところで。

性的被害に遭いましたといって被害届を出したとしても、やったほうが悪い、その行動が理解できない、ととらわれてしまいがちな流れ。

人の本心というものは、必ずしも表に出るものではないと思うけれど、この、「いやでもやる」という関係性をうまく理解してもらうのは、とても難しいなあと、生きていていつも思う。

「いやならやらなきゃいいのに、理解できない」、「そんなの初めからスルーすればいいじゃん」なんて声に、なんて答えたらいいかいまだにわからない。

その関係性はおかしい、最後は自分がつぶれるだけ、と思いながら、進んでしまうことが、いまでも多々ある。

それは、いまのわたしの悩みのひとつだ。

わたしにとっては、おかしいと思いながらも、関係性を築くことは、その関係性を「受け入れている」こととは同義ではない。

だけど、相手にとっては、受け入れられて、どんどん近づいてもよくて、自分の距離感の感覚と、相手も一緒に違いないと、わたしからしたら恐ろしいくらいのことを考えている人が、この世の中には一定数いる。

そういう「恐ろしい人」には、「あなたの感覚がわたしと一緒ではない」と伝えることが、わたしはとても怖い。

伝えてみれば、そうでもないと言われてしまうかもしれないけれど、これまでの経験で、そんなことを言おうものなら、ひどく落ち込みを表明されたり、激しくパニックされたり、逆恨みされたり、恐ろしいことしか待っていないと思ってしまう。

そんなトラウマから、徐々にわたしは、あらゆる人と距離をとるように、逆説的で皮肉だけれど、なっていったようにも思う。

それが、フレンドリーな人から、「mieさんてほんと人間嫌いだよね」と嫌味を言われたりしたり(あなたのその自分の距離感を押し付けてくるのが無理なだけなの、と言ったところで分かり合えないから、なにも言えないだけなのだけど)。

次第に誰もと一定で適切な距離さえ保っていれば、そういう恐ろしい人からのリスクを未然に防止できる、という守りの発想にもなっていく。

でもそれは、人間らしいのかな、とか、本当の自分ってなんだったっけな、とか、自分がわからなくなったり、幽霊みたいな気分になったり、誰かほんとうに好きかとかわからなくなったり、すごく心もとない。

何度練習したかわからない。だけど、今回の職場でも、恐ろしい人に限って、ひきつけてしまって、恐ろしい人にかぎって、体や思考が硬直してしまって言うことがきかなくなってしまい、本心ではない言動をとってしまう、という現象がおこってしまう。

そこでわたし自身も自信や自己肯定感もひどく損なわれることで、本来だったら、そこまで緊張しなくても、警戒しなくてもいい人にも、身構えて、無駄に距離を取りすぎてしまったり、そんなに遠ざけなくていい健全な関係性であっても、好き避けじゃないけど、よそよそしいと人に感じさせてしまっているというか、そういうふうに思わせているんじゃないかと、ひどく気にしたりして、とても疲れる。

ちょっと近づかれただけで、そこまできょどらなくていいのに「びくっ」としてしまう一方で、「もういい加減にして、気持ち悪い、近づかないで」という人の手を、わたしは勇気をもって、毅然として振り払うことができなくて、気持ち悪いと思いながら受け入れてしまっている。

わからなくなりすぎて、なにが距離が近いのか適切なのか、いまはほんとうにわからなくなってしまっている。バグってしまっている。

中途半端になってしまいましたが、近況でした。




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