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見えない「ブレーキ」への理不尽、深まる孤立

わたしは、ものごとを考えるペースが、普通の人のそれ以上に速いらしい。

たとえるなら、マッチ1本が、一瞬にして焼け野原へと延焼してしまうイメージらしい。

そういうことを、わたしから見たら、一緒に仕事をしていて「この人、せっかちすぎるなあ」と、変わるペースが目まぐるしすぎてついていけないと思っている人からでさえ言われるのだから、相当速いんだろうなあとは思う。

社会人入学した精神保健福祉士を養成する専門学校専属のカウンセラーからも、こんなことを言われたことを思い出した。

その方とは、これまで出会った人たちのなかでも、珍しくテンポや呼吸が合って、話していてとても楽だった。

「あなたは頭の回転がとても速いから、『1』話しているうちに、『10』へと、ぽんぽんと行ってしまう。普通の人は、『1』話したら、『1』のことだと思っているから、あなたのスピードにはついていけない。

だけど、あなたは、もうすでに『10』の話をしながら、『20』へ『30』へと進もうとしているのに、周りの大半がずっと『1』のことを話しているから、まだそんなこと話しているのと、フラストレーションがたまってしまう。

あなたはこれまでいつも、ブレーキをかけて、もう『100』や『200』へとどんどん進んでいっているのにもかかわらず、まだ『1』のままでいる人のために、後退して、ブレーキをかけて、待ってあげている。

アクセルをかけるよりも、ブレーキをかけることのほうが、ずっとしんどいもの。

だけど、みんなは、あなたのペースについていけない。わたしもいつも、ついていくのに必死。

それで、気づいた。あなたの生きづらさと理不尽さを。

あなたは、あるテーマについては、普通の人よりも圧倒的に的確な分析力と吸収力でもって、すさまじい速さで理解を進めていく。

一方で、あなたがやりづらいと感じているものについては、みんながすたすたと行ってしまって、待ってはくれない。

あなたは、相当な苦痛をこらえることでもって、退屈なあらゆるものを、ブレーキをかけて周囲に合わせて、待ってあげているのに、その苦痛は、ほかのみんなにとっては目に見えない。だけど、あなたにとってみんなは、自分たちの都合のいいときだけは、自分たちのペースに合わせろと強要する、足をひっぱってくる存在でしかない。

わたしがあなただったら、それはとてもしんどいし、理不尽だし、やってられなくなるのは当然だ」と。

そのカウンセラーは、わたしがその専門学校を退学することになった最後の1日まで、そうやって自己理解を助けながら、誰もが当たり前にできる「普通」ができなくて孤立を深めていくわたしのことを、見届けてくれたのだった。

精神保健福祉士の資格を取得して卒業できなかったことは、いまでも心残りではあるけれど、そのカウンセラーと出会わなかったら、ただ単に「退学した」という”失敗体験”だけを引きずって、自己否定感を強めていっただろうと予想できるから、せめてそのカウンセラーにつないでくれた学校側には、いまでも感謝している。

学校側とも、最後の1日までカウンセラーを交えて、どんな方法だったら継続して学び続けられるのかについて、話し合いを続けてきた。退学するという結論に最終的になった際には、「成績もよくて、能力的にも優秀なのに」と、これまで経験したことのない退学者の対応に、戸惑っていた。

福祉の専門家を育てる教育機関であるだけに、最後まで、わたしをひとりの生徒として、どうしたら学ぶ権利を守ることができるかを、最大限かそれ以上に、配慮しようとしてくれた。

だけど、カウンセラーのように、教育現場で浮きこぼれてしまう人間が感じる、理不尽さ、不公平さ、孤立感ーーブレーキをかけて我慢していつも合わせているのに、それ以外は取り残されてしまうーーについては、これほどまでに理解のあるとされる立場の人でさえ、どれだけ説明しても、理解が追いついていくことがとても難しいことなんだなということを感じだ。

頭では理解できるけれど、それをいまの国の教育の制度で対応するには限界があること、画一的なカリキュラムのなかでは難しいことだという説明についても、十分に理解できた。

わたしも、学べる場所で学びたかっただけであって、学校やクラスメイトや国の制度とたたかいたい気持ちは、はじめからなかったので、学ぶ場を、せっかく提供してくれたのにもかかわらず、こんなかたちになってしまって、ほんとうにいまでも申し訳なく思っている。

さいきんは、こうした浮きこぼれたわたしのようなエピソードをもつ存在を「見過ごされてきた 生きづらさ」というかたちで、NHKの特集でたびたび取り上げられるようにもなってきた。

記事中にある「ナオさん」の生きづらさについて、テレビで初めてみたとき、子ども時代に「優等生」と評価されながら、ほんとうの自分の存在を押し隠して、先生が求める「正しい答え」を出すことに、空気を読んで全神経をすり減らしてきた自分と、そっくりな人がいるんだということを知って、ほっとしたと同時に、すごく泣いてしまった。

一見、「優等生」だから、誰からも心配されないばかりか、もっともっとと期待される。でも、それが「正しい答え」を出すために、分かっていても分からないふりをしたり、ほんとうは教師を論破できるくらいの大人顔負けの意見を言えるのに、空気を読んでどうやって角をたてないように演じるか、全力で空気を読むという「ブレーキ」がどれだけ苦痛で、必要のない努力として強いられてきたのかという、自分でもうまく説明できなかったり、説明しても自慢しているなどと言われてなにも言えなかった「生きづらさ」が、やっとかたちとしてとらえられつつあるんだなあと。

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