見出し画像

パートナーの長時間労働に思うこと

さいきん夫のことにいらつくことが、すごく増えた。

ひとつひとつはささいなこともあったりして、そういう彼の性格だからということはわかっているけれど、

これまでゆるせていたり、補い合えているからこそ、自分がしてあげよう、と思えていたことが、

いつからか、ほんとうになにもできないだめな人みたいに思えるようになってしまって。

相手を尊敬できることだったり、補い合えている、という互助的な関係が成立している状態というのは、お互いが自律できていて、自分の足で、ちゃんと立てていて、そんな健全な状態というのは、意識していないといとも簡単に、音も立てずに崩れてしまうものなんだなあと思わせられる。

パートナーシップだけでなく、人間関係において、ちょっとでもなにかがどこかで崩れると、負担をかけている側というのはだいたいなにも気づかずに、負担をかけられているほうだけが、なにも言えずに、どんどん負担がのしかかっていって、つぶれてしまって、負担をかけている側からしたら、え?なに?突然限界って…みたいなかんじになるものだなあ、って。

もちろん、そのどちら側にも、関係性としてなりうるわけであって。

なにかのせいにすることはしたくないけれど、それでも、なにを境にわたしは夫にいらつくようになっていったのかなと考えたとき、それは、夫が新しく入った会社の長時間労働だった。

その会社は蓋を開けてみれば、若い人も珍しいくらいに休みもとりたがらず、長時間働いたほうが偉いという価値観で成り立っている、ザ・昭和な会社だった。

毎日の残業は当たり前で、現場から直帰できるときも直帰をせずに、無駄な帰社をして、無駄な飲みをしたり、終わらない会議を終業後にする。

ある日、別の同僚が現場から帰社してきた際、奥さんがその日大きな手術で、子ども2人に食事をあげなければいけないから、会議を休みたいという旨を部長に伝えた。

その部長は、社員全員のいる前で大声で「子どもに食事なんて、妻の実家の母親がいるだろ。家のことなんて女にやらせておけばいいだろ」と言ったそうだ。

そんな文化だから、夫の同僚たちは、若いのに、自分がどれだけ会社のために汗を流して、休みなく働いて、残業も毎日して、そんなマウントを取り合ったり、忠誠心アピールをする人ばかりだ。

そうじゃないような人は、組織からすぐに弾かれてしまうから、自分がそういうような、前述の奥さんが手術だった社員のように、全体の前で吊し上げられないように、家庭のことをかえりみない長時間労働が会社の風土として常態化してしまうらしい。

そんな会社だったら、ぼろぼろ人がやめていきそうだけど、社員それぞれが、目にかけてもらっている上司からなんらかの甘い蜜を吸わされているから、持ちつ持たれつの関係で、離職率がゼロなんだそうだ。

夫は、そういうのには、リベラルというのとはちょっとちがって、すごくフラットに見られる人間だ。わたしとちがって、それで人への対応や仕事へのスタンスも、なにも変わらない。

入社したての夫は、まだその甘い蜜のうまみがわからないし、身内かそうでないかとか付き合いが長かろうが短かろうが、誰にでも悲しいくらいにフラット(たぶんこれは人によっては冷たくて、カサンドラになってしまうような人もいるかも。わたしもカサンドラ寸前の状態)な夫は、きっと永遠に甘い蜜の味を知ることはないだろうなと思う。

わたしは、その夫の血も涙もないようなフラットさが、たまにとても悲しくなる。

だけど、その血も涙もないからこそのフェアなところを、とても信用している。

だから、血も涙もなさを、悲しいけれど、引き受けなければいけないのだと思う。

もちろん、血も涙もないというのは、たとえの話で、ほんとうに血も涙もない人間などいないことも理解している。

かく言うわたしも、よく周囲からは、すごく残酷に世の中を見るよね、とか、いつも冷静に観察していて、全然情に流されないよね、などと言われることが多い。

わたしと距離を近づけようとする人は、自分の思ったようにわたしと距離が近づけないことに、いらいらしたり、より強引に近づこうとしたり、自分の距離感を押し付けようとしてきたりして、わたしはそれをひどく拒絶して、そのコミュニティを突然立ち去らざるを得なくなる。

でもそれは、逆説的なのだけど、それはわたしがいちばん、自分が情に流されやすいことを知っているからであって、だからこそ、かたくなに自分を守っているから、そこを壊されたくないからなのである。

だから、夫と同じように一見みられがちなのだけど、わたしはほんとうにフェアな人間なんかではないことは、自分でいちばんよくわかっている。

夫と出会ってから、わたしは正義感などを盾に、これまでどれだけ自分に甘いのかを思い知ったし、情によって簡単に一貫性を失っていてこんなふうにおかしく見えるということなど、客観視できるようになっていった。

フェアな夫にたいして、わたしは依然、人間の命が最優先にされなけないという正義感だったり、労働法が守られないことへの、それだけでもありえなさだったりルール遵守への警察なみの厳しさや潔癖さだったり、クリティカルな視点だったりが優ってしまって、自分が当事者だったとしても耐えられないし、そういう話を聞くだけで、不潔で我慢ならなくて、そういうのがわずかに見えてしまうだけで、許せない気持ちでいっぱいになってしまって、

どんなきれいごとを言っている会社だろうが、どんなにそれが「根はいい人」だろうが、そこだけはもう、白か黒かしかなくて、譲れなくて、

わたしがほんとうにフェアな人間ならそれを冷酷に観察し続けられるわけだけれど、わたしは結局、自分に甘いだけのごくごく普通の人間で、感情だったり、自分の価値観(信念とまで大それたものと言えるかはわからないが)だけに振り回される、ただただ、感情的で直感だけで、一本筋が通っているようで、ただ、嫌だ、許せないと、ひとり地団駄踏んでいるだけの、勝手に白黒結論づけてしまう人間だ。

夫がその会社を辞めないことが、その会社のことを是としているわけではなく、それはそれとして冷静に見つつも、自分の働く場所として夫はわりきっている、それだけのことなのに、わたしはそれが、うまく言葉にできないけれど、とても耐えられない。

はっきりしない状況に、わたしまでもが耐えられなくて、最近は血圧が200近くになってしまうほど、いらいらしてしまっている。

ひとりで生きていれば、自分ひとりのために働いているのなら、別にそれでよかった。

だけど、夫が休みもなく、長時間労働をしていると、わたしは、わたしがその会社で働いているわけではないのだけれど、自分も、同じような苦しみを味わってしまうし、自分も理不尽な会社で長時間労働をさせられているような気持ちに、なぜかなってしまうのだ。

こんな言葉あるのかわからないけれど、この現象にネーミングをするしたら「精神的疑似的長時間労働」とでも言うだろうか。

夫にこのことを話しても、まったく理解できない、と言うし、ほかの人に話しても、その間、自分の好きなことやればいいじゃん、などと、全然欲しくないアドバイスを言う。

わたしは、その間、自分の好きなことをやろうと試みたけれど、夫が働いている間に、自分も仕事以外の労役的なこと以外、楽しもうとしてもできないのだ。

そんな気持ちになれないのだ。どうやってがんばっても、心から楽しめないのだ。

その間、あんなフェアな夫が、フェアゆえに割り切って、あんな理不尽な職場で働いているのかと思うと。

明確に、わたしがタワマンの最上階に住む、専業主婦だという役割を与えてもらえれば、そんなこともほんとうにできるのかもしれない。

というかわたしも仕事をしているのだけれど、自由にスケジュールを立てられるので、ひとりならずっと地続きでできてしまう仕事も、パートナーと合わせて、リズムを作るように、スケジューリングしてきたのだけれど。

だけど、待てども待てども、パートナーが自分の意図しない長時間労働で拘束されてしまうと、わたしも休める理由もなくなってしまう。

自分だけ、柔軟にスケジューリングして夫に合わせようとしても、長時間労働を強いる会社が、それを裏切ってくるのだ。

じりじりと真綿で首を絞められていくように、わたしはやられていった。

その結果、自分も長時間労働を自動的に強いられているような、そんな気分になる、というからくりだ。

これは身勝手な理屈なのかもしれない。もっと自分次第で器用にできるものなのかもしれない。

けれども、わたしの批難の矛先は、夫を奪う、ひいては家族の幸せまでを奪う、会社に、日々向かっていく。

夫も、ひとりで働いているなら、それでよかった。だけど、家族というチームのなかで、そういう働きをすると決めてやっているなかで、そうやって足を引っ張られることをすると、チーム全体にさしさわる。

それがすごく迷惑で、いらいらするのだ。

一方で、家族のために、という言い方は重いから、言い換えるとチームの一員として働きに出てくれてるから、申し訳なくて、そんなこと言えない。

いつもありがとう、そう思っていることも事実だ。ほんとうに、いつもありがとう、って、労って、帰りを待ったり、おいしいごはんつくったり、一緒に過ごせる日を心待ちにして、待ってきた。

だけど、わたしまで、物理的にも精神的にも休めない、夫の休みに翻弄される、結果自分も息苦しくなる、という状況が、もう耐えきれなくて限界だなと思う。

これらの経験からも、労働には限度、ってもんがあると、つくづく思う。

働くために生きているわけじゃないのに、フルタイムでそれなりに働かないと、一家を養ったり、ひとりでも自立して暮らしていけない我が国の労働モデルは、ほんとうにくそだと思う。

生きるために働かなきゃいけないから、働くわけだけど、生きるためには、フルタイムスタイルしか用意されていないのが、それが普通だから、それが当たり前だから、それをやらなきゃ生きていけないから、とただただ受け入れるしかない人が、たくさんいる。

たくさんいるから、どんな優秀で時間をかけて積み上げてきたスキルでも、根こそぎいいように奪って、骨の髄まで過労死するまで吸い取ってろうという会社が、雨後の筍のように、生まれ続けている。

労災を申請できる制度もあるし、労基署もあるじゃないかと、人は口を揃えるけれど、いざそういうことが起きたとき、本当にできる状況にある労働者が、現実には氷山の一角でしかないのは、どういうことなのか、わかっていない人がなんと多いことかと思う。

泣き寝入りと自覚できる人はまだましで、泣き寝入りだという概念すらおぼえずに、きょうもただただ無自覚に搾取され続けている人がたくさんいる。

搾取されていることにも気づかずに。

長時間労働が、労働者だけでなく、その家族も蝕むこと、その家族の幸せすら奪っていると、わたしは思う。

だけど、そういうふうに思っているわたしの思考回路は、夫にすら理解されないのだから、そんなわたしの心配も伝わらないから、なんだか悲しいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?