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「まだなにも始まっていない」と思えるということ

さいきん、社会保険労務士(社労士)の勉強を独学で始めました。

それは、ひょんなきっかけからでした。

昨年の秋頃、ある現役社労士の方と全然関係ない世間話をしていたところ、「社労士の仕事が、mieさんがこれまでしてきた経験ととても親和性があると思うから、資格試験を受けてみたら」と勧められたからでした。

そう言われて、すごく意外でした。

そういう士業みたいなものって、自分とは世界がちがいそうだな、とかなんとなく、勝手にカラーを決めつけて、イメージしていました。

だけど、その方が言うには、わたしがこれまで、会社に申請をあの手この手で妨害されて協力が得られなかったことで、自力で複雑でめんどくさい労災申請をして、実際に申請が下りた経験だとか、

労働裁判をおこして解決を図ったり、

自力で健康保険法にまつわる申請だったり、障害年金などの申請をしたりして、生き延びてきた数々の経験だったり、

社労士や使用者や弁護士や労働者や一般向けに労働問題をフリーライターとして取材して記事にしてきたりなどなど…

といった経験は、まさにとても社労士と親和性があるとのことでした。

え、そうなのかな?と、それを確かめてみたくなって、話半分のまま、半年ほどたった今月半ばくらいから、ふと思い出して勉強を始めてみたのですが、

まだそこまで深めているわけではなくて浅いところにすぎないということを差し引いても、

まさにこれまでわたしが生き延びるために、「働く」ということにもっとも翻弄されつつも、自分が問題意識を持ってきたり、自分がやってきた軌跡のようなものが、社労士が取り扱う範囲に詰まっていて、さいきんちょっとハマっています。

へーへー、なんて毎度頷きながら、振り返りつつも、新しい学びの発見をしている、そんなさいきんです。

ランチもディナーも何回転もするくらいに忙しくて目が回りそうなパスタ屋さんで働きながら、その行き帰りの電車や、カフェでごはんやお茶したついでの隙間時間で、社労士の勉強をする日々。

そんな日々をここしばらく過ごしながら、気づいたことがあります。

それは、「まだなにも始まってもいなかったな」という自分の境地です。

自分は凸凹が多すぎて、はたから見えるよりも、自分のなかでは、凹をどうにかしてなにもない真っ平な人に見せかけるように、そのための努力にすごくエネルギーを割いてしまったり、

モラハラセクハラマンスプおじさん(おじさんや性別にかかわらずかもしれない)とかにも取り入って、気持ち悪い思いをしてでも、なんとか生き延びてきたという経緯があります。

そうしたことを経て、いまやっと、ほんとうの意味で、ゼロ地点のまっさらな土地に、自力でならせたような境地を実感できるようになりました。

人よりひとまわりもふたまわりも、そこにたどりつくまでに、時間はかかってしまったけれど。

だから、ほんとうに、素直に、いま、「まだなにも始まっていなかったな」と思えるのです。

やっと、これまでみたく生き延びることのために、あさましいながらも気持ち悪い思いとかをせずに、自分で自分のために、スキルというか経験を積み重ねていける、そういう平らな土壌の上に立てたなあ、と。

わたしがそういうようなことを誰かに言うと、ある人にとっては、その人がこれまで向き合わないふりをして生きてきたものを映し出す鏡のような存在にわたしがなってしまい、恐くなるみたいだ(どうか憎み続けずに忘れてください)。

別の人は、わたしの目線の低さに、そこにそこはかとない暗さや悲観さを見出したりする。

単純に、フットワークが軽くて、なんでも挑戦する好奇心旺盛で向上心が高い人、謙虚な人、などとわかりやすくジャッジされたりもする。

どれも、ほんとうで、ほんとうではないなあと、自分のことは自分でしかわからないのだなと思う。

あえて自分で自分のことを言うとすれば、「まだなにも始まっていない」と思えることは、とても楽観的で、わたしはとてもおめでたいのだなあと、なんとなくだけど思う。

「まだなにも始まっていない」と思えることで、謙虚であろうとなかろうと、人はいつからだって、学んでいけると、わたしは思っている。

始まった先にも、「まだなにも始まっていない」ことがほかにたくさん出てきて、それがわたしにとっての人生なのかな、とも思う。


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