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ミニマリストなわたしが「仕事服」だけは断捨離できずにいる理由を考えてみた

断捨離したい、断捨離したい…

さいきんほんとに、とくに服にかんして、断捨離したい、断捨離したい…と、ずーーーーーーっと思っているのだけど、なかなかうまくいかなくて、うずうずうじうじしています。

きょうは、そんな自分の心もようについて、いつも、うずうずうじうじばかりしているので、いっそそれを文章にしてみたら、すっきりするのかな、とちょっと視点を変えた試みをしてみたいと思って、書いてみることにしました。

とはいえわたしは「ミニマリスト」

わたしは、もうかれこれ、ずっと、最小限のモノで暮らせればどれだけいいだろうかと、ずっと思ってきた。

いわゆる「ミニマリスト」の思考だ。

部屋は、たまに散らかってしまうことはあって、そういう断片的で表面的な様だけを他人が見ると、いつもわたしは「ミニマリスト」と自称していることもあって、「なにがミニマリストだ。逆じゃねーかよ」などと突っ込みを入れられることがよくある。

だけど、自分のなかの理屈としては、散らかってしまったとしても、その散らかったモノの「住所」が、自分でちゃんと把握できているのだ。

だから、散らかっていても、「これは何丁目何番地の誰それさん」と把握できているので、ただ彼ら彼女らのおうちに帰してあげればいいだけのことであって、そこまで心が乱れることはない。

とはいえ、いちばんの理想は、フローリングが、最小限の家具以外のものはない、という状態だ。

ついでにいうと、木のぬくもりが感じられる空間が好きなので、安っぽく見えたりすることが、個人的には許せない。

触覚が過敏なこともあって、視覚はもちろんだけど、ファブリックも、気に入った肌触りのものをかなり選んでいる。

でないと、共存できなくて…。

ミニマリストなのに、クローゼットだけはミニマリストになれない

いま書いたのは、わたしのミニマリストやその周辺へのこだわりのうちの、かなりおおざっぱな部分にすぎないけれど、それほどまでにミニマムな暮らしにこだわるわたしが、頭を悩ませていること、それは、冒頭に書いたけど「洋服」にかんしてだ。

「洋服」だけは、思うように、自分の理想があっても、進められない、なかなかそこへの断捨離を踏み出すことをちゅうちょしてしまう事情がある。

プライベートの服は、スムーズに断捨離できる

一方、プライベートの服は、これまでもう、数え切れないほど断捨離してきた。

社会人になって、仕事での転勤も多かったこともあり、それも含めると十数回の引っ越しをした。

そうすると、節目節目で、「わざわざ新天地に行ってまで、この服を着たいだろうか」という基準で選ぶから、こんまりさん流というわけではないのだけど、「ときめくかときめかないか」という基準も加えれば、超スムーズに選別を進めることができる。

さいきんは時間があるときはフリマサイトに出品するようになったけど、引っ越し直前みたく時間がないときは、段ボールに詰めて買取会社に送ったり、ブランド以外のものは自分で処分したりとか、もうそれは何箱、何袋になるかわからない量だけれど、そうやって節目節目ですっきりさせることができた。

仕事用の服がクローゼットを圧迫するも断捨離できず、ストレスに

だけど、それらの「ときめくかときめかないか」とは相容れないもの、というのがあって、それは、プライベートではない、仕事用の服というものだ。

その、仕事用の服が、プライベートの服よりも、クローゼットを圧迫していることに、クローゼットを開けるたびに、わたしはすごくすごくストレスを感じている。

そもそもが、ときめいて買っていたのだろうか、ということへの疑問が、そのストレスの端を発しているようにも、思うのだ。

仕事用の服も、着心地がいい素材が増えて悪くはなくなった

少し話が逸れるかもしれないけれど、わたしは、プライベートでは、コットンや麻や、そうじゃないとしても、チクチクしたりパチパチしたりしない、保湿性も高い、自分が納得した肌触りのものしか身につけない。というか、そもそも身につけられないから。

締め付けの強いものも苦手だから、ゆったりできて、動きやすくて、クリーニングのような非合理的なことを必要としないものを、かなり選んでいる。

そうやって厳選して選び続けた結果、洋服で利用するブランドは、けっこう絞れてきている。そのくらいにこだわりが強い。

だから、仕事用も、できるだけそれらの要素を最大限に含んだものを選ぶようにしてきている。

さいきんは、アーバンリサーチのなかでもドアーズとか、ジャーナルスタンダードのなかでもレリュームというナチュラル系よりの姉妹ブランドとか、ユニクロとかでも、やっと素材と仕事用のデザインとの両立をかなえられるアイテムが増えてきていて、かなり助けられることが増えた。

それは、仕事だって、肌触りのいい気持ちよい素材をまとってやりたい、合理的にケアしたい、という人たちが、わたし以外にも確実にいる、ということのあらわれだとも思う。

いまでは、そんなニーズを持つことは、全然少数派ではない。

仕事用の服に感じる「着せられてる感」「自分らしくなさ」

けれども、それでも、さいきんは会社勤めをやめて、フリーランスになって、あらためて仕事用の服をたまに姿見の前でひとりファッションショーをしたり、取材や打ち合わせに出かける際に、仕事用だからと着ていく際、まっさきに思う感想が、「まるで服に着せられているようで、落ち着かない」ということだった。

なによりも「自分らしくない」と思うのだった。

仕事の際は、毎日の服選びにあれこれ考えたくないので、上は白で、下は黒、と統一していて、「制服」と割り切っている。

でも、下は黒だから、たまには上を白以外のいろんな色で冒険することはマイルール上、許している。

買ったときは、確実にわたしは「ときめいている」ことはうそではない。

わたしはお洋服がとても好きなので、それを着てきらきらした未来が想像できるような、わくわくした気持ちになれば、必ず買ってしまうのは、昔からだ。

それに、気に入ったシルエットや素材の服を見つけたら、もうこんな服とは二度と出会えないだろうなと思って、全色色違いを買い揃えてしまうくらい、ぶっとんだ買い物の仕方をしている。

だから、わたしのクローゼットには、色違いだったり、同じ色でも形違いの仕事用の服がとても多い。

それを目にした人は「どれも同じじゃん」と言うけど、わたしにはまったくちがうように思える。

仕事だけにかける異常なほどの情熱に冷めてしまった

その状態は、「仕事がんばるぞー」と希望にあふれて、上がっているときはいい。

たくさん「制服」があったほうが、なぜかパフォーマンスも上がりそうだし、自分を上げてくれるアイテムなんじゃないかという気持ちにもしてくれる。

だけど、そういう状態も落ち着いてくると、むしろいまは正直、そういう「仕事」というものだけになぜかかける異常な情熱というものに冷めてしまったというか、あとはいろいろ思うところもあって転換期なあるいま、その、プライベートの服の何倍も価格的にも高い(まあ、仕事用なので)、何倍も色違いや形違いのバリエーションがある仕事用の服が、「お荷物」にしか見えなくなっているのである。

「仕事用の服」=「投資」となり、金銭感覚がバグる

プライベートだったら、わたしはたとえ、気に入ったデザインや素材で、試着室でもシンデレラフィットで、これはもう二度と出会えないだろうな、と思って、のどから手が出る色違いもほしくてほしくてたまらないものでも、我慢してセーブすることができる。

「来年、きっともっといいデザインが出るさ」とか自分をなだめたり、あと、冷静に予算を考えたり、フリマサイトと比較検討することもできる。

だけど、仕事となると、とたんにわたしはなぜか、冷静さを失ってしまうのだった。

予算もあるけど、いま、目の前の仕事で使うのに、なによりも、仕事なのに、そんなところでケチっていいのか?仕事で必要なんだぞ?そんなところで足元見られたくないじゃん?などとなぜかすごく駆りたたれてしまって、採算度外視で、ただでさえ高額なものを、全色買い占めてしまう。

予算オーバーだって、少し働けばペイできるという「投資」の発想に、なぜかなってしまうのだ。

そう、感覚が、すべて「仕事だから」となると、バグってしまうのだった。

仕事をするためだけに生きていないのに、人生を侵食されるおかしさ

そういうことを、さっきも書いたけど、仕事への情熱というものに冷静になっているいま、振り返ってみると、「投資」の発想がそこまでおかしいものではないのだけれど、少なくともわたしにとっては異常なものだな、と思ってしまうのだった。

これまでいろんな生き方や、いろんなスタイルや種類の仕事をしてみて思ったのは、少なくとも、わたしは仕事をするためだけに生きていないということだった。

だけど、仕事をしなければ生きていけないごくごく普通の人は、どんなに「仕事をするためだけに生きてはいない」という当たり前のことなんて、とうに理解していながらも、結果的には、働くことが好きか好きじゃないかとか、やりたいやりたくないにもかかわらず、人生のほとんどを仕事のためにあてていなければ、生きていくことができないのだなと、わたし自身、いろんな仕事の種類やスタイルを経験するという”実験”をしながら、気づいた。

素やありのままの自分が、こうしたい、こう生きたいと思っていたとしても、やっぱり生きていくうちに、労働だけに暮らしのほとんどを侵食されてしまう、翻弄されてしまうという状況が起きてしまう。

それで、優先順位が狂って、こうしたい、こう生きたいと思っていることを忘れてしまって、思い出せなくなってしまう人たちの、なんと多いことかと、自分自身も、本末転倒の状態になってぎりぎりになりながら、ときにはつぶれたり、ときには、いまこうやって立ち止まって持ち堪えたりしながら、これじゃおかしい、と思ったのだ。

まるで「負の遺産」

だから、いまとなってみれば、こんなふうに、仕事の服にかんして、プライベートのお気に入りの服を選ぶように、もっと自然体で、リラックスして、お気に入りの一色を選ぶような楽しい感覚とは対極の、ゲームのように血眼になってする「投資」の産物となってしまった、クローゼットを圧迫する洋服群が、いつまでも取り壊せない負の遺産をかかえてしまっているように、思えてならないのだった。

じゃあ、いっそそんなものすべて捨ててしまえばいいのではないか、とそこで思うのだけど、そう簡単に捨て切れないから、それで冒頭に書いたように、ぐずぐずうじうじしてしまうのだった。

なぜ「負の遺産」を捨てられないのかを考えると、そこで止まってしまう

ほんとうは、「なぜそう簡単に捨て切れないのか」ということを、もっと考えるべきだったのではないかと、ここまで書いてみて、やっと思う。だけど、その「なぜ」に行き着くまでに、やはりわたしはそれらのことを振り返るこのプロセスが必要だったから、このような書き方になったんだなと思うから、順番は変えない。

しゃべるようにそのままいく。

「なぜ」か、それは、純粋な断捨離の「ときめくかときめかないか」の判断が鈍ってしまうなにかがあるということだ。

もう少し掘り下げると、ときめかなくても、残しておいたほうがいいと思ってしまうということだ。

だけど、そこで止まってしまうのだ。

なにを残していいかわからないから、いっそ全部残して、触れないでおくのがいい、と思ってしまうのだった。

だけど、ミニマリスト思考のわたしにとって、あきらかにワンシーズン以上も出番がなくて、ましてやときめきもしないものを、ストックしているということが、ものすごくゆるせないことだし、ストレスなのだった。

確実に自分を安心させてあげられない、自信のなさに気づく

もっと率直な本音を言ってしまうと、「また一から買い直すことがめんどくさいから」だ。

また一から買い直す機会が、これからあるのかないのかわからない。

だけど、たとえ数%の確率かもしれないけど、一から買い直さなければならなくなったときに、またものすごく投資をしなければいけなくなるから、だ。

それでしかたなく、ストックをかかえる。

それは、わたし自身の、将来の見えなさ、不透明さにいきつく。いつもそこにいきついて、ひりひりしてしまう。

自分がまったくときめきもしない、似合わない、好きでもない「仕事服」を手放して、ほんとうに、もう「仕事服」を着なくてすむ、ってほんとうに言えるの?って自分が自分に聞いたら、確実に「うん」と自分を安心させてあげることができない。

自分への自信のなさ。

だからよけい、そういう使われないものがクローゼットにあることが、「負の遺産」のように見えてしまう。

書いてみて、ここまで思えた。ひりひりすることにも向き合えた。もやもやしているよりかは、だいぶましだ。

だからこれからどういう行動をわたしがとるのか、それはいまは決められないし、わからない。

だけど、そういう気持ちをこうやって出すにいたったことで、きっとなんらかの行動の変化はおきるのだろう。

なにか変化があったら、また書くかもしれないし、書かないかもしれません。

ほなまたねー。





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