ぼくは「就職」を手放した。
大学の掲示板に張り出された就職の求人募集を眺めていた。
それを見ながら、なんだかアルバイトの募集みたいだな、と思った。
隣では彼女が何やら助言めいたことを言っている。
「とにかくさ、もう時間がないんだからさ。業界が希望に近いだけでもいいじゃん。エントリーシート出しなよ」
うるさいなぁ。と思ったから、何も返事をしないでいたら、怒って先に帰ってしまった。
彼女は先に内定をもらって、この就活の戦場から1抜けた開放感を気持ちよく発散したいのだろう。それなのに、いつまでも就活をしないぼくのせいで発散できない鬱憤ばかりが溜まっている。
白黒の潰れた集合写真には、必要以上にはしゃいだ数人の社員の姿。
やりがいのある仕事。定時に帰れる。どんどん昇給していく。求人のプリントにはモノクロな謳い文句が無表情に並んでいる。
———就職なんかするもんか。
大学4年の秋。内定をもらえずに必死で求人を睨む、顔も知らない同級生の中、ぼくは決心を固くした。
*
子どものころから人とうまく馴染めなかった。
教室にぼくの机はなく、人の目に触れること自体が恐怖だった。
怒られるのが怖くていつもヘラヘラしていたら、先生から「笑っていれば人生どうにでもなると思ってたら甘いんだよ」と言われ、笑うこともできなくなった。
中学になり、一念発起していじめられる側からいじめる側へとヒエラルキーの段を駆け上った。でも一緒だった。喧嘩が強くて、オシャレで、学年中から一目置かれる連中の下っ端になっただけだった。
高校からは薄っぺらい人付き合いを心がけた。知り合いは増えたけど、友人はひとりもいなくなった。
人といるとストレスを感じるようになっていったのは、自然なことだったのかもしれない。
「和気あいあいとした職場」の中で、和気あいあいとできない人がいることをぼくは知っている。必死で仲良く見せているけど、どうしても馴染めずに悩んでいる人がいることも。そしてそうした人の心が、どこか「ありえない」「気にしすぎ」と無下に扱われてしまうことも。
だから、ぼくは就職なんかしたくなかった。
だらだらと1年間、就活から逃げ続けていたけど、はっきり決めた。
就職はしない。
と。
*
「就職しないでどうするの?」
———人って心底呆れるとこういう表情になるんだな。
不謹慎かもしれないけど母親の顔を見て、そんなことを思った。
「インテリアコーディネーターで独立する」
「できるわけないじゃない。普通に就職してよ」
———”取り付く島もない”ってこういうことを言うんだな。
母を見ていると、そんなことも思った。
*
ぼくは全力で走っている人の姿を思い浮かべた。
後ろからは、何かが追いかけてくる。
その人は何かからひたすらに逃げているように見える。
今度はその走ってる人の前に星を描いてみる。
それだけで、その人は星に向かって全力で走っているように見えた。
「逃げるなら全力で逃げるんだ。そのうち、その先に自分の目標が見えてくるから。そうしたら人は、もう『逃げてる』とは思わなくなる。『目標に向かって走ってる』って、そう思うようになる」
高校時代、塾の先生に教えてもらった言葉。
この言葉が、ぼくの生きる指標になっていた。
「就職しないと、人並みに生活もできないよ。大学まで出て、フリーターになるの?」
親にも、恋人にも、先生にもそう言われた。
2002年。まだフリーランスという働き方は、一般的ではなかった。
リスクをとってでも、成し遂げたい何かがあったわけじゃない。
そうまでして、叶えたい夢だったわけでもない。
ぼくは、親の安心や恋人や世間からの評価や安定した生活を手放してでも、全力で就職から逃げたかったんだ。
*
「嫌なことから、簡単に逃げちゃダメだよ」
大人はいつもそう言う。
怖いことには勇気を持って立ち向かわなくちゃいけないし、苦手なことは人一倍努力して克服しなくちゃいけないと。
ぼくは子どものころ、どうしてもそれができなかった。
怖いことは仮病を使って逃げ、嫌なことはなんとかサボろうとした。
大人になってからも、立ち向かう価値を感じなければ一歩も動けなかった。
だからぼくは、たくさんのことを手放してきた。
身軽になって、その分自分が価値を感じたことはしつこくやり続けた。
人からどう評価されるか。
どう見られて、なんて思われるか。
そうしたことは、どんどん手放していった。もともと気にしいだから、意識的に手放さなければ、すぐに他人の価値観に人生を絡め取られてしまう。
就職をしないと決めたあの日から。
ぼくはずっと同じ道の上を走り続けている。いまはもう、就職から逃げてはいない。目の前には、ちゃんと目指すべき星がある。それを気持ちよく追いかけられるように、ようやくなったのだ。
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▶ 塾の先生の「逃げる」のエピソードはこちらに詳しく書きました。
「逃げる」ことが怖い、カッコ悪い、と思っている人に読んでもらえたら嬉しいです。
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