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『『百年の孤独』を代わりに読む』を読む読書会の記憶 ー 2018.8.11(土)

蔵前のH.A.Bookstoreを6月末に改めて訪ねた際に、店主の松井さんから声を掛けてもらったのがきっかけだった。

「読書会って、興味ありませんか?」

私はてっきり松井さんが主催される読書会へのお誘いかと思い、何を読むんだろうかと想像しながら、「いいですね! 時々読書会行きますよ」と答えたのだが、『代わりに読む』の読書会をやりませんか?という提案だった。

8月の上旬、お盆休みに入る土曜日のことだった。松井さんの告知文が熱かった。当日、テンションがあがった私は、どんな人が来てくださるのだろうかと興奮し、予習もそこそこに、なぜか『『百年の孤独』を代わりに読む』スタッフTシャツなるものを作るために家と渋谷を行き来していたら、もう読書会の時間直前になっていた。夕立が来た。帰宅すると慌ててそのTシャツに着替えて、赤坂に向かった。

オフィス北野の入るビル、一階はドトール

会場となった双子のライオン堂に到着すると、ちょうど『アポトーシス』を刊行されたばかりの河野咲子さんが、双子のライオン堂の竹田さん、H.A.Bookstoreの松井さんと商談?を済まされたばかりだった。あちこちの書店を行商する身として、「あまりたくさんリュックに在庫を背負って、本屋さんをまわると、険しい顔になるから、見本+αくらいにして後から郵送するといいですよ」などと先輩風を吹かせてみる。棚に並んだ互いの本を写真に撮らせてもらう。

そうこうしているうちに次々と読書会の参加者がいらっしゃり、奥の読書会部屋は私たちを含めて10名ほどで埋まった。まず松井さんが「『『百年の孤独』を代わりに読む』を読んだ方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?」と聞いたら、かなり多かったのでおおっとなった。まだ買ったばかりで数ページ読んだだけという人や、まだタイトルだけという人もいらっしゃったが、それでも興味を持って参加いただいたことに感動した。次に、松井さんが本を紹介してくださった。松井さんは私があの蔵前のビルの階段を登って店をはじめて訪ねた時のことを語った。私が『百年の孤独』を「冗談として」「とにかく脱線して」「代わりに読む」のです、と言ったのだと。

それから、自己紹介を兼ねて、参加者のみなさんが順に感想を述べていった。埼玉からいらした会社員の方は、ふだんはスポーツ系の本をよく読んでいて、と聞いた時に私はただちに「野球だ!」と思ったが、サッカーだった。「オシム監督の本はぜったいに読む」とおっしゃっていた。『代わりに読む』のタイトルに興味を惹かれて、引用されているものに驚かされて、読んだら面白かったので来ました、とおっしゃっていた。脱線の内容から同年代かなあと思っていたとのことで、私もたぶん同年代なのではないかと思った。「小説の読み方は、もっと自由に楽しく読むので良いのだと思う」と後日Twitterに書かれていて、同感と思った。

次の方は、まだパラパラみただけだけれど、「代わりに読む」ということにすごく興味があり、参加しました、今日、買って帰ります、すみません、と大変恐縮そうであったので、『読んでない本について堂々と語る』という本もあるし、楽しんでいってください、と答えた。ふだんは島本理生さんが好きなので、先日直木賞を取られてうれしい、家にはピンチョンとかもあるけど読めてない、とのことで、家にピンチョンのある生活は、仮に読んでなどいなくても、それもまたいいのではないかと思った。

本がとにかく好きで、書評を書いていらっしゃるタカラ〜ムさんは、tsugubooksさんが『代わりに読む』を紹介していたのが気になっていて、BOOKS青いカバで買ったそうだ。『百年の孤独』は20年くらい前に読んだので、だいぶ忘れていて、そうだったなと思い出したことと、そんな話だったっけ?というところがあった。たしか、何かがコルタサルの『石蹴り遊び』みたいだとおっしゃった(が、あれはなんだっただろうか?)。翻訳というのは訳じゃなくて役者になる役だ、という言葉を紹介くださったので、私は柴田元幸先生が翻訳の役割は「快感の伝達」だと言うのを聴いたことがあると話した。あらすじや解説では、自分が読んだ時の興奮や感動や哀しみをそのままヴィヴィッドに伝えることができない。しばしば思い出すこの言葉のことを考えていて思いついたのが、関係ないことに脱線するという『代わりに読む』のルールだった。タカラ〜ムさんから、愛がないとこんなに脱線できないと言っていただき、ありがたかった。

それから、挿入される写真のキャプションだけを読んでも面白かったですという感想を聞いて、まさか、普通に書いてるだけではと思い、みんなで順番に読んでいったら、確かに可笑しかった。

うにさんが、『代わりに読む』は私が文学でDJをやってるみたいなのだと言ってくれた。書いている時に、私はリミックスのことばかりやはり考えていたので、そのことが伝わっていて、うれしかった。もし、自分が代わりに読むとしたら何を代わりに読むかという話題で、『銀河鉄道の夜』を挙げていた。新横浜の家の前でちょうど鉄道工事をしていて、昼間と夜は全然違う景色が広がることとつながるのではないかという話だった。それは確かに面白そうだ。

横浜からいらした方は、いちばんよかったところ、可笑しかったところとしてアウレリャノ・ブエンディア大佐とウルスラとのやりとりで私が

「世界はお母ちゃんたちの勝ち。そして世界に平和が訪れたのだった。」(『百年の孤独』を代わりに読む』p.77)

と書いたところを挙げられていた。私も偶然参加していた、青山ブックセンターで開かれた阿久津隆『読書の日記』のトークイベントの帰りに『百年の孤独』を買われたらしく、『代わりに読む』もある種の読書日記(日記の変形)と感じたとおっしゃった。と、そこで一つ質問が出た。

「ところで、この作中に出てくるのは、どちらのミスドですか?」
「これは日吉のミスドです」

留学していて、最近日本に戻ってこられたという美術の研究者の方もいらっしゃっていた。つい古典美術については、むずかしく、まじめに捉えがちだが、現代に置き換えてみると、もっと気楽にこういうことだ、と理解できる場合がある。『代わりに読む』はまだぱらぱらと読んだだけでだが、同様に自由に楽しんだらいいんだということを教えてくれるような気がしたと。

それから、どこがいちばん好きかという話になり、6章の柳家小さんの家系図や、15章のミスドでビンゴする話と交錯するところをあげる人が多かった。ラストが感動したという声もあり、概ね作者がうまく脱線できたという感覚と一致しているものだなと思った。

松井さんからはラストで感動したが、途中で神父さんが生き返ったのも、どこまでがオリジナルで、どこからが、代わりに読むの創作なのか?というのがオリジナルを読まずに代わりに読まれた人には、良くも悪くもわからなかったりするという指摘があった。そこで、私はとにかくオリジナルには忠実です、といい、ページをめくっていった。『新婚さんいらっしゃい!』にアウレリャノ・セグンドとフェルナンダが出演していることになっていた。その二人の会話が目に留まった。それは創作だった。ただ、会話の中で引用している言葉は確かに本文からの引用、彼ら自身の言葉なのだった。

「ああいうのをどうやって思いつくか?」という質問があり、私は創作ノートを取り出して調べた。ちょうどそのあたりを書いていた時のノートを探した。

「単に「イエス・ノー枕」と書いてありますね」

と私は言った。見つけた私も少し唖然とした。その流れで、どうやって『代わりに読む』を作っていたのかの流れを説明した。まず、素読みして、もう一回読んでいく中で、気になったことや思い出したことをキーワードで書き出しておいて、あとは簿記の仕分けのように本編と脱線のキーワードを左右に分けた進行表を作る。進行表を書いたら、しばらくの間、時々思い出しつつも、放置していると、なにかキーワードに日常のことが引っかかってくる。それを、待つ。あ、書けると思ったら書ける(当然、その時点では、脱線と本文とがゆるゆるでつながっているので、エッジを効かせるために、推敲を実は無茶苦茶やっている)。

突然、マレーシアの話が出て来て、どのあたりがマレーシアで書いた話だったのですか?という質問があり、確かにそのことについては書いていなくて、唐突に「マレーシアにいる」と出てくるなと思った。

「9章までと、16章以降を日本で、10章から15章までがマレーシアで書いた。10章を書くときに、マレーシアの慣れない生活で、もう書けなくなるかもしれないという危機感があった。なので、もしここで途絶しても平気なように、出し惜しみせずその時点の代わりに読むの結論を書ききった。でも、『百年の孤独』はあと10章分つづきがあるので、『代わりに読む』も終わりにはできない。そこで出てきたのがA子だった。一度は「代わりに読む」ということの結論を出した「私」にそれは本当でしょうか?そんなことで代わりに読めたことになるでしょうか?と問いかける批評的な存在がA子だ。A子さんってどんなひとですか?と実在の人物のように訊かれることがある。もちろん、モデルになってる何人かの人はいるけれど、特定の人ではなく、架空の人なんです。他にも、後半は結構創作が入り混じっています。」

最後に挨拶をした。手に取ってもらったことへの感謝、本屋さんに大事にしていただいたことへの感謝を伝えた。

「四年前にnoteで書きはじめた頃から、かなり面白いことをやれているという確信はあったが、noteではここまでいろんな人々に届かなかった。本にして良かった。これをきっかけに、『百年の孤独』を読んでみようとか、再読してみようという人が現れてくれたら、とてもうれしい。次は何を「代わりに読む」のですか?と問われることが多いが、『『百年の孤独』を代わりに読む』を最後まで読んでいただけると、私にとっては『代わりに読む』は『百年の孤独』でしかありえないとわかっていただけると思う。一方で、それぞれの人たちが何を、誰の代わりに読むのかということには興味があるし、とても楽しみです。私はこの「代わりに読む」をオープンソースにして、どんどん代わりに読むを実践してもらえたらうれしいです。」

今後は、ドトールで見かけた可笑しな人たちについて書いたエッセーと、それからパリのガイドブックを片手に、東京の町を歩く、町歩き本を考えていますと話した。会が終わってから、次作を楽しみですと言ってくださり、町歩きについては、大竹昭子さん、川本三郎さんがなにか参考になるかもしれませんと教えてくださった。終わってからサインを何人かの人にして、ちょっとお話しして解散となった。自分の本をちゃんと読んでくれた人が、こうして来てくれてお話しして、盛り上がる。こんな幸せなことはないなあと感涙しながら、家路についた。

<おしまい>

ご参加くださったみなさん、どうもありがとうございました。記事にすると約束したものの、時間がかかってしまいごめんなさい。これをまとめないと年は越せないなと思っていましたが、なんとか年内には間に合いました。良いお年を。


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