めちゃめちゃ嬉しい感想文もらった

私の作品を見てめちゃめちゃ嬉しい感想文もらったので記録しときます。

死という概念には確立したものはなく、人間は死に恐怖し抵抗するように生きているような気がします。
池谷さんの作品を見ると少し怖い感じることが多いのは、人間の裸体が描く美しい曲線や、どこか世俗からはかけはなれた恍惚とした表情が、現実的であり、でも現実離れしていて、生と死のはざまのような、抗っているけど抗えないようなもどかしさを写真の中に見るからだと思います。
葛藤しているのに、死は誰のもとにも訪れるという結果は決まってしまっているから、葛藤にすらなり得ないような、不毛な戦いのようなものを垣間見るからです。

人間が生きるためには、死を切り刻んで食べることが欠かせません。動物だろうが植物だろうが、ひたすらに育てては摘み取って、手の中に生と死を感じながら生きる以外には人間は存在することすらできないのです。聖職者だろうが政治家だろうがなんだろうが、どんなにきれいなことを語っても、素晴らしいとされることを説いても、それでも何かしらかの死を手の中にたくさんつみとって、自分に取り込んで生きています。
キレイなことをかたりたいという理想と、自分たちが生きるために結局何かの命を摘み取らないといけないという事実の、いまいち一致しない矛盾が、実は人間の本質に迫れる真理なのかもしれないと、もやもやと頭の中にあった疑問が作品のテーマと合致するような感覚があります。

結局そこに答えなんてものはなく、気が付いていたとしてもどうすることもできるものではないのです。誰かに自分の疑問を押し付けることはさらに無駄なことであり、肉を調理しておいしく食することも、動物よりも植物の命の方がたやすく摘み取れるという感覚に傾倒するのもそれぞれの命において自分を落とし込むすべであり、どれが正しいなどということは決められないし、決めるべきものでもないのかもしれません。

池谷さんが作品の舞台に使う「水」は、そんな人間の生活においてさらに欠かせないものである一方で、人間たちの生命をいとも簡単に奪ってしまうものです。池谷さんは被写体と一緒に水中で撮影をすることで、それぞれの生死のはざまと、自分の生死のはざまを重ね合わせ、ギリギリの一瞬を写真におさめています。
水中というだけですでに非日常の中であり、そのさらに生命維持の限界を追求して撮影された写真たちの中には、まさに苦しい表情をとらえたものや、不思議なことに安らかに微笑んでいるようなものまで存在しています。

作品を見ていくと、それらの写真が一体どのように撮影されているのかと、写真の奥の奥まで、視覚的にだけではなく感覚的に立体的な興味をそそられます。
普段は温厚でゆったりとした雰囲気の池谷さんが、メイキングでみせる鋭い眼光は、明らかにそれがギリギリの環境であることを示しており、ギリギリであるからこそ導き出される美が際立つのだろうと思います。

お互いの限界を水中で高め合って、撮影を行う、と言ってしまえば簡単なように聞こえるかもしれません。しかし、命を守るために細心の注意を払わないといけない中で、限界まで池谷さん本人のアイデアや頭の中をフルに表現するためにどうすればいいのかということはもちろん、撮影の際にどうしても発生する気泡や、限られた人間の動作性、反射する光や波の動きのすべてにおいて計算しなければいけません。細かくシミュレーションを行って撮影をしていても、現場で起きる不確定なモノに結果が左右されてしまうことも少なくないのだそうです。

でも、そこで発生する「偶然」すらも、まさに池谷さんの計算の中にあるのだと知ったとき、また作品に対する感じ方がかわったような気がしました。


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