平成新山を間近にみて考えた

連休後半5月4日、普賢岳に登ってきた。
雲仙温泉街までバスで行く。午前10時。登山口からしばらくして「2合目 800m」の表示。1300m超までその差、500m余りだが、早くもその数字に先が思いやられる。
仁田峠まで30分。それからロープウェーを横目に妙見岳(1,333m)を目指す。
さらに稜線を縦走して、普賢岳(1,359m)へ。

妙見岳まではなんとか足もついていったが、稜線から東へ「鬼人谷口」へ一気に下り、そこから普賢岳まで距離400m、標高差300メートル余りを攻める時点で、ひざがガクガク、息も絶え絶えになった。日ごろ、ほとんど運動していないのに、思い付きで山登りをした自分の甘さをうらんだ。

途中「普賢岳への登山道は険しい。十分な装備を」との注意標識があったが、無視していた。しかし「鬼人谷口」から普賢岳へいたる道のりは、確かに厳しかった。スニーカーはよろしくない。登山靴やトレッキングシューズが必要な荒れた道だった。

普賢岳到着は12時40分ぐらいだったろうか。連休で大勢の行楽客が山頂を占領していた。コンビニで買った巻きずしで休憩。疲れを忘れパノラマを楽しむ。

平成新山を間近に見る。約30年前、1990年11月に噴火、それから1995年まで活動を続け、ふもとの島原市に大災害をもたらした。実はこれほどの近くで「生の」平成新山をしみじみ見るのは初めてだった。もちろん警戒区域なので、無許可立ち入りは法に触れるが、隔てた草むらを超えてすぐ山頂にたどり着けそうで、一瞬誘惑にかられる。

帰りは「あざみ谷」から仁田峠まで下りが中心の楽な道で助かった。仁田峠から雲仙温泉街までさらに歩き、着いたのが14時40分ごろ。約5時間の行程だった。

平成新山と一連の火山活動で思い出すことが二つ。

一つは1990年(平成2年)11月17日に最初の噴煙が上がったとき、熊本日日新聞が「雲仙 噴火活動か 一年近く続く群発地震」と当日朝刊社会面に掲載した事実だ。結果的に「噴火当日を当てた!」見事なスクープである。
この記事を書いた熊日のY記者は、阿蘇火山の観測者から情報を入手、地道な取材の結果、この記事にたどりついたという。筆者は在籍していた長崎新聞佐世保支局でテレビの噴煙画像とファクスで送られてきた熊日記事を見比べ、新聞協会賞を受賞してもおかしくない、と興奮・感心した。受賞対象にならなかったが、自然災害を予測するなんて、すごい“芸当”だったという思いは今も変わらない。
当時長崎新聞編集局長だったT氏は「本来はうちが書くべき記事。熊日に抜かれるなんて…本当に恥ずかしい話だよな」と言っていた。島原半島には3支局があるが、中心の島原支局をはじめ、直前まで雲仙の活動再開に注意を払っていた記者は当時皆無だったに違いない。

もう一つはやはり、1991年6月3日に死者・行方不明者43人を出した大火砕流事件である。このとき、多くの記者・カメラマンが犠牲になった。

1991年4月から筆者は五島支局(当時の福江市)に転勤していた。5月の溶岩流出と山体崩壊の際に、「火砕流」が発生したとの報道に触れ、驚がくしたのを覚えている。鹿児島大学で自然地理学を専攻した筆者にとって、「火砕流」と聞いてすぐ連想したのが約2.9万年前、鹿児島全域を中心に厚く広範に降り注いだ「姶良火砕噴火堆積物」であった。

小規模な火砕流でも、高温の熱と土砂の流下に襲われたらひとたまりもない。筆者はすぐにT編集局長に電話した。「取材記者がどこまで知っているかどうかですが、火砕流をまともに浴びたら生きて帰れませんよ。大変な事態です」。しかし、噴火後の日々の対応に追われるT編集局長の返事は、あまりはかばかしいものではなかった。

メディアは「絵になる」画像を撮ることに必死になる。結論からいうと、多くの取材記者の拠点になっていた「定点」と呼ばれるポイントは、火砕流の性質を考えたとき、とても安全性を確保できるような場所ではなかった。それだけ火山に近かった。火砕流噴火がもし、より爆発的なものなら、島原市全域が犠牲になる可能性すらあった。

事故後、さまざまな検証がこれまでなされているが、端的な個人的感想を許してもらえば、あれは取材記者の火山災害への「無知」が招いたといって過言ではないだろう。

もっとも、自分がその現場に立たされていたらどうしたか、というと、やはり「絵になる」写真を撮ろうと必死になっている写真記者とともに行動、活動を少しでも間近に記事を書こうと「突撃」していた可能性は否めない。人のことを指弾する資格はない。

あのとき、五島支局にいて、「自分なら自然地理学の知識を生かして、もっと科学的な記事が書ける」と、現場に向かえないことを半ば悔やむ気持ちもあった。しかし一方で「火砕流が発生」と聞いて、島原に我が身を置くこと自体が身の安全を保証しかねない状況にある、と思うと怖さが募り、たまたま五島で仕事をせざるを得ない状況に安堵するという、相反、矛盾した気持ちを抱いていた。

めぐり合わせが悪ければ、死んでいたかもしれない。人生、何が幸いするかわからない。

ごつごつとした岩塊に覆われた平成新山の山頂を見ながら、当時の思いが生々しくよみがえった。


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#平成新山
# ゴールデンウィーク

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