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8月15日 祖父のこと

 祖父は邦矩(くにのり)と言う。仏間に飾ってある写真でしか見たことがない。遺影は制帽、制服姿で、長らく軍服だと思っていた。映画などで見る軍服とは違うなと感じていたが、20年ぐらい前に元警察官だったと知り、なるほど当時の警察官の制服だったのだと納得した。

【祖父・邦矩は明治生まれ】
 戸籍によると、祖父は1902年、明治35年3月6日に生まれた。1930年に結婚し、私の伯父と伯母の2人が生まれた。他にも子どもがいたが、墓碑によると夭折しているとみられる。その後妻が亡くなり、祖父は妻の妹と1937年(昭和12)に結婚する。日中戦争がはじまった年になる。後妻が1940年(昭和15)に生んだのが私の父だ。祖母も亡くなって久しいので、ここから先は大部分、父や親戚の話になる。


【祖父は満州へ渡った】
 祖父は警察を途中で辞め、満州に渡った。幼い子どもらを育てるのに、大陸のほうが稼げるという算段だったらしい。大陸では民間企業の仕事をして送金していたそうだ。幼かった父には「父」の記憶はあまりないが、一時帰国したときに一緒に風呂に入ったことがあると聞いた。しかし、戦況の悪化からか、祖父は現地召集される。部隊を調べようと調べようと思いつつ、まだ実行に移せないでいる。


【祖母の見た“夢” 血だらけの祖父、そして】
 ある夜、祖母は、軍服姿の夫が、血だらけで帰ってくる夢を見た。祖父は憤った様子で「露助にやられた!刀を出せ!」と言ったそうだ。戸籍には次のように記載されている。「昭和二十年八月十五日時刻不詳中華民国牡丹江省寧安県海林付近で戦死」。38歳だった。


 終戦当時、祖母とその息子である父は、鹿児島郡内の実家に疎開していた。ある日、祖母が農作業か何かで留守にしていると、祖父と同じ部隊にいたという人が訪ねてきたという。祖父が大陸で戦死したということを伝えにきたのだろう。しかし、実家にいた誰かが、5歳ぐらいの父に「邦矩さんが帰ってきたとお母さんに伝えてきて」と言ったらしい。なぜそんなことを言ったのか…… 何かの勘違いなのか、悪意があったのかは分からない。とにかく祖母は、畑から大急ぎで帰ってきて、喜びの絶頂から突き落とされた。あまりにも残酷で、この話を思い出す度、私はやり場のない怒りを腹に感じて許せなくなる。その日の夜、幼い父は、祖母が風呂場で泣いている姿を見ている。


【戦後】
 祖母は、戦後も夫が戦死したことを認めず、戦死公報の受け取りを拒否し続けた。家は幼い父きょうだいが働かないといけないほど貧しかったが、遺族恩給も受け取らなかったという。戦死を記載した上記戸籍には続きがあって、「…海林付近で戦死。昭和三十四年三月七日受付除籍」とある。祖母が夫の死を受け入れたのは昭和34年3月7日、戦後14年ほど経ってからだった。 
今気づいたが、祖父の57歳の誕生日の翌日。父も19歳になっている年だ。


 祖父は部隊が乗っていた列車をソ連軍に爆破されたらしい。戸籍の死亡は昭和20年8月15日となっているが、実際はその前後だったのかもしれない。部隊や戦闘記録を詳しく調べれば分かるのだろうが、実行できないことを祖父にも父にも申し訳なく思う。父は「牡丹江に一度行ってみたい」と言っていたが、81歳の高齢で、母も認知症だ。加えてコロナがこんな様子では実現は厳しい。

 仕事で「命日」に墓参にも行けない。代わりにもならないが、書こう書こうと思っていた祖父のこと、祖母のことをやっと書いた。8月15日の線香がわりとしたい。

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