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多忙と多動。行動とやったつもり。

体調も半分くらいは回復し、30分ほど遅延しているギュウギュウ詰めの総武線に揺られ出勤中です。
やっと回復した体力が削り取られていきます。早く脱出したい…


さて、一昨日から堀江貴文さんの『時間革命』を読み直している。

本を読み返すと、その時々の心境に引っかかる言葉が見つかってくるから面白い。
自分に合った質問が投げかけられている気がして、コーチングの様な感じで面白い。
(きっと自分でも部分的には大切な事ややるべき事がわかっているからなのかもしれない)

そして今回もハッとさせられた言葉があった。

『「多忙」と「暇」は同義である』

と言う一文だ。


ん?
パッと読んだときは意味がわからずページを戻した。
「多忙と暇が同じなら、忙しい人ってどうゆう人?状況?を指すのだろう…」
「というか、そもそも多忙なのに暇ってどうゆう事だ?」

と頭の中がハテナだらけに。そんなキャッチーな言葉につられてページをめくり読み進める。

結論を書くと、

「多忙」な人は忙しいけど、心からやりたい事の比率が少ないから本当はそれに飽き飽きしているという。

そういえば以前Twitterかインスタで、
『「忙」と書いて「心」を「亡くす」』
という投稿を見たのを思い出した。

心からやりたい事ではない事をやり続けると、本心が削り取られて、忙しく見えるけど心の中は空虚(暇)な状態になるという事なのかもしれない。


これはなんか感覚的にわかる。
私も特に営業時代にはこの感覚に駆られる事がよくあったし、部署を異動した会社員としての最近の自分にも言える。

ではどうするのか。それは堀江さん自身の感覚が書かれている部分から理解できた。

堀江さんは一日中スケジュールがビッシリ詰まっているが「忙しい」と思った事はないと言う。
なぜかと言うと、もうお分かりかもしれないが、そのスケジュールの9割が「自分のやりたい事」だからだ。だから「忙しい」と感じた事がない。

続いて凄く納得のいく例え話があった。

沢山のおもちゃがある部屋に子どもを入れたら、次から次へと遊びを変えながら、いつまででも遊び続ける。

そんな子どもの状態と、堀江さんの日々は変わらないということだ。これが「多動」という状態である。

そしてこのnoteのタイトルに繋がるのだが、

『時間の価値を高めたいとき、「多忙」と「多動」の区別を間違えないこと』が重要になる。

これが1番のハッとしたポイントだった。

僕がまさにそうなのだが、忙しくしていると人生が充実している様な錯覚になる時がある。
けどそれはまさに錯覚であって、事実ではない。
なぜなら忙しいと思っているうちは『他人の為の時間を生きている』からだ。

1日の時間配分の多くを『自分の為の時間』で埋め尽くす事ができたら、忙しいという言葉や感情は出てこないはずだ。

小さい頃にレゴブロックを朝から晩まで食事も取らずに没頭していたときに、「疲れた」「忙しい」「時間が無くて」なんて言葉は微塵も浮かんでいなかった。

ただただ『今』を真剣に生きていたのだと思う。

やっぱりここに行き着く。『今を生きる
ふとすれば忘れてしまいがちなこの感覚。

けどやっぱり他人の時間に命を削るのは嫌だ。

今日も自分のために命を削って生きて行こう。
そして利己を極めて利他に繋がればそれほど嬉しい事はない。まずは利己だ。

と僕は思う。
そして今回の本に、一節に改めて思い出させて頂いたので、記しました。

ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^